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2023年01月~2023年03月

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2023/03/26

2023年3月26日「預言者ヨハネの受難」(マタイの福音書14章1~14節)

【140字ダイジェスト】

バプテスマのヨハネの殉教は、人間的に見ればそれまでのすべての努力が無に帰したようにかの見える。しかし、彼が人々に悔い改めを求めて表舞台を去っていったのは、私たちには表面的には苦しみに終わる出来事に見えても、そこに神様が働かれ、イエス様の十字架による大いなる救い計画のためであった。

 来週の日曜日から、イエス様が十字架の苦しみを受けた最後の一週間となる「受難週」に入る。イエス様の苦しみは私たちの罪ゆえの苦しみであるが、その苦しみには救いの希望がある。今日は、イエス様の露払いともいえるバプテスマのヨハネの受難の箇所である。

 今日は、第一に「ヘロデの罪を指摘したバプテスマのヨハネ」について見ていきたい。聖書には、ヘロデ→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「ヘロデ」の(2)参照がイエスのうわさを聞いて「あれはバプテスマのヨハネだ。彼が死人の中からよみがえったのだ。だから、奇跡を行う力が彼のうちに働いているのだ」(マタイ14:2)と家来に漏らしたと書かれている。ヨハネの処刑は、ヘロデにとって消すに消せない罪の記憶だった。ヨハネの諫言はヘロデにとって邪魔なものであり、処刑したいと思っていた(14:4-5)。だが実際に処刑してみるとヨハネはいなくなったが、心に残った罪の意識は神様を何とも思っていないヘロデさえも取り去ることができなかった。彼は王としてのきらびやかな生活の裏で不安を感じ怯えていた。人は罪を犯す存在であるが、それを隠すことはできない。ただ良心に耳を傾け、神様に拠り頼むしか罪の問題を解決することはできない。

 第二に「罪の解決方法としてのヘロデの愚かな決断」について見ていきたい。ヘロデは、自分の兄弟の妻と関係を持ち、自分の妻を追い出して後妻とした(14:3)。それを厳しく追究したのがヨハネであった(14:4)。そもそもイスラエルは律法を守ることで成り立つ民族であり、王党派のサドカイ派はモーセ五書を重視していた。たとえヘロデが異民族出身でローマの傀儡政権であろうとも「イスラエルの王」としては大問題であった。そして大衆が預言者として認めていたヨハネがそのことを追及し続けるのは、ヘロデにとってもまずいことであった(14:5)。この状況が変わったのがヘロデの誕生祝いの席であり、「へロディアの娘が皆の前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。それで彼は娘に誓い、求める物は何でも与えると約束した」(14:6-7)という事件があった。ヘロデは宴会で浮かれ、列席者の前で王の威厳を見せたかったのであろう。だが母へロディアは、自分たちの不倫の罪を指摘した邪魔なヘロデを排除しようと、娘に「今ここで、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい」(14:8)と言わせた。彼女は「神の前に」という畏れの意識はなく、自分の自由な生き方を邪魔するものを自分の権力で排除しようとする冷酷さが見られる。ヘロデがヨハネを捕らえながら処刑しなかったのは、何か躊躇する心があったのだろう。だが彼は、今の王としてのプライドや権威の方を優先させた(14:9)。そこに罪の本質がある。

 第三に「ヨハネの殉教がもたらしたもの」について見ていきたい。処刑後すぐ「ヨハネの弟子たちがやってきて遺体を引き取り、葬った。そして、イエスのところに行って報告した」(14:12)とある。これによってイエス様の露払いとしてのヨハネの働きは終わった。ずいぶん突然で悲惨な終わりのように見える。だが、それによってイエス様の本命の働きが花開いた。チェコでは、ルターの100年前にヤン・フスによって宗教改革が起こり、彼の火刑によって沈静化し、すべてが終わったように見えた。だが、その改革は後のプロテスタントを生み出した。私たちには表面的には苦しみに終わる出来事に見えても、そこに神様が働かれ新しいご計画のもと福音の広がりが始まることがある。

2023/03/19

2023年3月19日「隠された宝」(マタイの福音書13章44~50節)

【140字ダイジェスト】

イエス様は、目に見えない天の御国が到来しており福音の救いがあることを語られた。それを得ることは、人生のすべてを投げうってでも手に入れるべき価値のあるものであると、たとえ話をもって伝えられた。私たちは選択の自由が与えられているが、その選択の結果は一人残らずさばきで問われるのである。

 桜前線のニュースを聞くと春の到来を実感するが、福音(グッド・ニュース)は神の国の到来を告げ知らせるものである。しかし桜と違って、神の国の到来は目に見えない。みことばを通して実感するものである。だからイエス様は、たとえ話でそれを伝えようとされた。

 今日は第一に「畑に隠された宝」について見ていきたい。イエス様は「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います」(マタイ13:44)と話された。2012年にブルガリアで畑から金属製の器を発見したので、農夫は豚の餌入れにしていた。それが実は古代トラキア文明の金製品であった。イエス様のたとえでも、神の国は自分の物をすべて売り払っても手に入れたいとんでもない宝であり、人生の中で築いてきた価値あるものをすべて捨ててでも得るべきものだということがわかる。

 第二に「高価な真珠のたとえ」について見ていきたい。イエス様は、また「天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います」(13:44-45)とたとえられた。養殖技術のない当時、真珠はなかなか見つけられないものであった。そして商人は、その小さな真珠を得ようとして探しに探していた。それが畑の宝とは違う。そして天然物の「良い真珠」は、なおさら希少なものであった。「天の御国」も同様である。天の御国があるという情報は語られ続けていたし、似たような偽物は時々でてくるが、本物の福音に出会えるのは求め続けてもなかなか得られない。それがイエス様に出会って、心を開いて本物の福音を受け入れることは、それほどの喜びなのである。たった一粒の本物の「良い真珠」を得るために全財産を売り払った商人の行動は、他人から見たら馬鹿なことに見えるかもしれない。しかし、追い求めていた商人だけは、その価値が身に染みてわかっていた。聖書には「たましいの贖いの代価は高く永久にあきらめなければならない」(詩編49:8)とあるが、あきらめざるを得なかった「たましいの贖いの代価」を得られる福音は、なんと素晴らしいものか。

 第三に「魚を集める網のたとえ」について見ていきたい。イエス様は「天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます」(マタイ13:47-48)とたとえられた。この漁法は狙ったさなかだけでなく、ごみや木切れ、食べられない生物まで一網打尽にする。このたとえは神様による最終的なさばきについて語っており、そのさばきはすべての人間が残らず対象になる。人間ひとり一人は選択の自由が与えられており、どのような生き方も可能であるが、その結果はすべてさばきの対象となる。その可否を選び取るのは自分自身ではなく神様である。イエス様は「この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです」(13:49-50)と説明したが、そこでは自分自身の信念や判断基準は通らない。「知らなかったのにひどいではないか」という人もいるが、天の御国は確かなものとして存在し福音はすでに伝えられている。

2023年3月12日「神の国の奥義」(マタイの福音書13章24~33節)

​【140字ダイジェスト】

イエス様の語られたたとえ話からは、神様が一人一人の成長を見守り、不完全な私たちを通じて神の御国が大きく育つことを選ばれたことがわかる。神様を知らない人は「今」を最優先しがちである。だが私たちは、みことばを信じ忍耐を持って待ちのぞむうちにやがて神様のわざがなされることを知っている。

 今日の聖書箇所マタイの福音書13章では、イエス様が私たち人間と「神の国」の関係を示すため、次々たとえ話をされる。当時は、ローマ帝国が圧倒的な力でイスラエルを統治していた時代である。そんな中で、イエス様は目に見えない信仰の「神の国」の姿を、日常生活の中で人々が目にするであろう物で説明された。このたとえ話では、「おや?」と思うところがキーポイントとなるので、丁寧に見ていきたい。

 まずイエス様は「天の御国は次のようにたとえられます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。麦が芽を出して実ったとき、毒麦も現れた」(マタイ13:24-26)という毒麦のたとえを話された。毒麦とは麦に似た草で、実際には毒はないが麦に混ざって収穫されると苦みを含む小麦粉ができてしまう。どうしようかと悩むしもべに対し、「毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。」(13:29-30)と主人は答える。しもべ(人間)は「それでは、私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか」(13:28)と、間違いを排除する方に精力をかたむけたくなる。しかし主人(神様)の視線は一本一本の麦の成長に向いていて、たしかに私たちの成長を注意深く見守ってくださる。だが「収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦の方は集めて私の倉に納めなさい、と言おう」(13:30)と、いずれ毒麦は収穫後に焼かれる(さばかれる)ことになる。だからこそ、私たちは今すべきことを見失ってはならない。

 つぎにイエス様が話されたのは、からし種のたとえである。「天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣をつくるようになります」(13:31-32)とイエス様は話された。蒔かれたからし種は本当に小さくても、やがては大きな木に育つ。はじめの小ささは問題ではない。私たちは自分が小さく弱い存在だと自覚して、人間的な尺度で色々と判断してしまう。しかし神様のみことばは、ローマの支配下であろうと命を与えられた芽のように人々の心に生きていく。イエス様は、弟子たちを通して福音が広がっていくビジョンを鮮やかに示されたのである。

​ そして「天の御国はパン種に似ています」(13:33)という部分を考えてみたい。イスラエルでパンはまとめて日常的に焼かれ、たくさんの粉にわずかなパン種を入れることも皆よく知っていた。「女の人がそれを取って三サトンの小麦粉の中に混ぜると、全体がふくらみます」(13:33)というイエス様のたとえも、実感をもって人々は理解できる。私たち人間は自分の予想や感情で先のことを心配してしまうが、神の国は神様がはたらかれ私たちの思いこえて作られていく。その様子が「天の御国はパン種に似ています」(13:33)というのである。そのためには時間の進行を待たなければならない。神様を知らない人は「今」を最優先しがちである。だが私たちは、みことばを信じ忍耐を持って待ちのぞむうちに、やがて神様のわざがなされることを知っている。信じて待ち望むうちに「まさかこれほど」という神のわざの大きさに気づく時が来るの。私たちはじっくりと神様の新しいわざを待ちのぞんでいきたい。

2023/03/12
2023/03/05

2023年3月5日「福音の種蒔き」(マタイの福音書13章1~12節)

【140字ダイジェスト】

このとき集まった群衆は、群衆は自分自身が変わらなければいけないとは考えず、イエス様の力で何とか状況を変えてほしいと思っていた。しかし神様によって蒔かれたみことばを受け止め、自分を変えようとするものは少なかった。そんな人々に悔い改めと福音を伝えることが現代の教会にも期待されている。

 三月は多くの方にとって転機の季節である。本教会の活動も外に向かって広げていることが総会で決まった。イエス様は多くの重要な真理をたとえで語られたが、今日の箇所はその中でも有名なたとえである。

 今日は、第一に「たとえで語られた神の国」について見ていきたい。当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にあった。だから目に見えない神の国について話しても多くの人はぴんと来なかった。だがイエス様は、神様の働きは現実にあなたがたに働いていることを、たとえを使って話された。この時イエス様は湖の舟の上にいて、大勢の人々が岸辺に集まっていた(マタイ13:1-2)。当時、パリサイ人に代表されるようにイエス様のことばに反発する人々も多かったが、その一方で神様のことばに飢え乾いていた人も多かった。しかし、すべての人がすんなりとイエス様のことばを受け止めていたわけではなかった。それをわかっていたイエス様は、「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いているが聞かず、悟ることをしないからです」(13:13)と言われた。歴史的に神様に愛され多くの恵みを見て、多くのことばをいただいてきたイスラエルの民でも、悟ることがなかった。

 第二に「たとえの中で語られた四つ土地」について見ていきたい。最初に語られたのは「道端に落ちた種」である(13:4)。これは、鳥が種を食べてしまうように、みことばが語られても「悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います」(13:19)という状態である。その悲しみを知るのは、一生懸命蒔いた種を奪われた者(神様や宣教者)だけである。次の「薄い岩地に落ちた種」(13:5)とは、「すぐに喜んで受け入れる」(13:20)のだが根がはっていないため「困難や迫害」(13:21)にあうとつまずく人のことである。なぜなら、その人の中には岩地(古い頑なな自我)が砕かれずに残っているからである。しかし根がはっているならば、困難さえも神様の恵みと受け取り信仰を成長させることができる。第三は「茨の中に落ちた種」(13:7)である。この種は芽も出たし根もはったが「この世の思い煩いと富の誘惑」(13:22)に縛られて、愛や平安などの実をつけられなかった人のことである。最後は「別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった」(13:8)種である。イエス様は、このように「みことばを聞いて悟る人」(13:23)は大きな実を結ぶとおっしゃった。「悟る」とは神様の命令ではない。自由意志を与えられた人間の選択と応答であり、神様は正しい選択と応答を強く願っている。

 第三に「神の国の奥義の理解」について見ていきたい。ここでは群衆と弟子たちが分けられている(13:11)。群衆は「単なる興味」「病気の癒し」「社会状況の改善」など、雑多な思いを持って集まっていたが、「神の国の到来」を求めて来ていた人は極めて少なかった。また群衆は「何か自分自身が変わらなければいけない」とは考えず、イエス様の力で何とか状況を変えてほしいと思っていた。群衆は天の御国の奥義を知ることが許されていない(13:11)のは差別ではない。まず弟子たちが福音を伝え、そして弟子たちを通して、雑多な思いを持ってやってくる群衆に神の国の到来を伝えていくビジョンを語っているのである。そして、福音を述べ伝えるそのビジョンは、現代の弟子たる教会に期待されている。

2023年2月26日「へりくだりの祈り」ヨシュア記(5章1~15節)

【140字ダイジェスト】

困難な状況にあるとき、私たちは自分の力が足りないことを嘆きがちである。しかし、そんな時こそ、神様のみこころに歩めるよう祈るが必要がある。増水期のヨルダン川を渡ることも、敵地で割礼を受けさせることも無謀に思われたが、この時のヨシュアが、いかに主の働きを深く信頼していたのかがわかる。

 困難な状況にあるとき、私たちは自分の力が足りないことを嘆きがちである。しかし、そんな時こそ、神様のみこころに歩めるよう祈ることが必要である。十字架を前にしたイエス様が、ゲッセマネで祈られたことを思い出したい。

 今日の聖書箇所のヨシュアの行動からも、学ぶところがある。40年間を荒野で過ごしたイスラエルの民は、モーセの死後、新しいリーダーのヨシュアに率いられていた。神様に示された約束の地は、水が溢れるヨルダン川の向こう側であった。人間的に考えると、増水期の川を横断するのは明らかに無茶な計画で、全く力量が足りない状況である。しかし神様の導きに聞き従い、契約の箱を祭司たちが担いで川に入ると、流れが止まった。自分たちの努力ではなく、堰き止められて干上がった川を歩いて渡ったのである。現実の中にあっても、主がともにいてくださる証しであった

 川を渡り終えると、神様は荒野で生まれた男子に割礼を受けさせ、その後彼らは、川を背にした形でエリコの草原で過越のいけにえを献げる。攻め込まれると逃げ場のない緊迫した時間であっただろう。これは個人レベルでの契約の再確認を意味している。危険な状況の中でも、神様との契約を確認することに重きが置かれた。

 そして、ヨシュアのまえに一人の人が抜き身の剣を手に持って立っていた。ヨシュアは歩み寄り、その人が神の軍の将として遣わされたのを知ると、顔を地に付けて伏し拝み、「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」(ヨシュア5:14)とたずね、さらに履き物を脱いで、徹底してへりくだりの態度をとる。この場面から、彼がどのように主が働かれるか深く信頼しているのがうかがえる。

 問題に囲まれたり、困難な状況に置かれると、私たちはそればかりに気を取られてしまいがちである。しかし、神様のみこころをへりくだって受けとめるとき、神様は次への道を私たちに備えておられ、新しい歩みを祝福してくださる。

2023/02/26
2023/02/19

2023年2月19日「主にある方向転換」申命記(1章1~11節)

【140字ダイジェスト】

イスラエルの民は「約束の地」を与えるという神様の言葉に従わず、38年間も現状にとどまった。私たちの前にも神様が与えられると約束された多くの民がいる。もし目前の現実を見て恐れるならば、停滞したイスラエルの民と同じである。だから私たちの教会も、神様を信じて福音を広げていく必要がある。

 今年の教会の年間聖句は「向きを変える」こととした。例えばヨットの場合、向きを変えるときに舵を切るだけでなく、風に対してどういう姿勢をとるかが重要である。同様に、私たちも神様との向き合い方が重要になってくる。

 今日は、第一に「再出発への召し」について見ていきたい。エジプトを脱出したイスラエルの民は、一度はシナイ半島を南下してホレブ(シナイ山あたり)で神様から律法を受けた。そして「約束の地」を与えると神様は約束された。しかしイスラエルの民は、十一日(申命記1:2)しかかからない距離を38年間も動かずにいて、出エジプトからようやく40年目に出発した(1:3)。神様は、彼らが留まっていたホレブで「あなたがたはこの山に十分長くとどまった。あなたがたは向きを変えて出発せよ」(12:6-7)と命じられた。神様は命じられたとおりにせよ「畏れてはならない。おののいてはならない」(1:21)。しかし民は「あなたがたは上って行こうとはせず、あなた方の神、主の命令に逆らった」(1:26)なのである。

 第二に「ビジョンの再構築」について見ていきたい。エジプトにいたときは奴隷だった民が、神様の約束により自分たちの土地を持つことができるというビジョンを見出した。神様が共にいてくださり、素晴らしい土地が与えられるというビジョンがあったからこそ、苦しい荒野での生活に耐えられた。しかしビジョンには、神様への信仰がないと空虚なものとなる。しかし民は、カデシュ・バルネアでモーセが斥候を命じたときに、素晴らしい土地だったが、彼らより強い民族が支配していたため意気消沈し、エジプトに帰ろうと泣き出した(民数記13:7-14:4)。カレブとヨシュアだけが神様の命じたとおりに攻め上ろうと主張したが、多くの民は、これまで民を救い導いてきた神様への信仰を失ってしまった。そしてカデシュ・バルネアで何十年ものあいだ停滞してしまった。そして38年間の時間をおいて、神様は「見よ、わたしはその地をあなた方の手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは主があなたがたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、彼らとその後の子孫に与えると誓った地である」(申命記1:8)と再び語りかけたのである。大事なのは、神様のせいにした「無鉄砲」ではなく、神様の導く先へと信頼をもって畏れずに出発することである。

 第三に「新しい教会の出発」について見ていきたい。旧約聖書の意味と新約聖書の意味は密接に関連しているが、それを曲解してはいけない。旧約聖書で領土を打ち取るという命令は、福音によって世界の果てまで福音を述べ伝えることが「神様の領土を広げる」ことである。私たちもイスラエルの民のように「相手が強すぎてとても福音を伝えることは無理である」という畏れを抱くことで、停滞をもたらすことがある。しかし神様は、私たちにビジョンを与えられている。私たちひとり一人に与えられた役割は個人や時代によってことなるが、そこには全体として役割が与えられている(Ⅰコリント11:12)。福音が明かされた新約聖書の時代、私たちは文字通り「土地を取る」ことではなく、神様の福音を広げていくことが教会に求められている。私たちは目前の現実を見て畏れるならば、停滞したイスラエルの民と同じであろう。神様は「その地をあなた方の手に渡し」(申命記1:8)、キリストの愛が広がっていくビジョンを分け合い、キリストの愛のうちに生かされていきたい。

2023/02/12

2023年2月12日「神の家族である教会」マタイの福音書(12章46~50節)

【140字ダイジェスト】

イエス様を心配しに遠くからやってきた家族を、イエス様は「だれでしょうか」と言われた。それは冷たい言葉ではない。キリスト教は家族愛を大切にするが、それは自己愛やエゴとしての愛ではなく、罪ある私たちを「兄弟姉妹」と呼んでくださった大きな神の愛の中に受け止められたものだというのである。

 最近、よく教会の実情を調査するアンケートを求められる。しかし、そこに教会員の数や洗礼者数を問う項目があるが、ふと「教会は数なのか」と考えてしまう。それよりも教会は、この時代に「神様の求めるみこころは何か」を見失わずにいたい。

 今日は、第一に「家族に理解されていなかった神の国の宣教」について見てみたい。このとき、故郷のナザレから50キロ離れたカペナウムに「イエスの母と兄弟たちがイエスに話をしようとして」(マタイ12:46)やってきたとある。ナザレの町では、「あの大工のイエスが急に変わった」と驚かれていた(13:55)。マルコの福音書には、イエス様がおかしくなってしまったと身内が連れ戻しに来たと書いてある(マルコ3:21)。イエス様を心配してやってきた「家族愛」が、神の国の宣教と対立してしまっている。戸口で入れずに見ている母や兄弟は、本当にイエス様のことを心配しているのであろう。キリスト教は「家族愛」を大切にしている。だが神様のみこころを自分のレベルに引き下げて考えてはならない。私たちは自分を主にするのでなく、へりくだって神様のみことばを受け取らなければならない。

 第二に「神の家族の中心はイエス様である」点について見ていきたい。イエス様は、身内が来ていると言ってくれた人に対して「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」(マタイ12:48)と言われた。一見、冷たいことばのように聞こえる。だが、このことばが他の福音書にも記録されているということは、そこに非常に重要な意味があると考えられたからである。すなわち「神の国」とは「血肉や血統」によって与えられるのではないこと、そして一般には最高と思われる親子愛以上の究極の愛があることを表している。そして本当に心配をする母マリアの言葉は、神の国の実現には何の役に立たないというのである。もちろん家族がバラバラになるような信仰があってはならない。しかし、家族のまとまりは、まず「神のことば」が中心にあって、そこでまとまる必要がある。それがあって初めて家族の愛が確立し、ひとり一人のあゆみも確立するのである。イエス様は「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです」(12:49-50)と、はっきりと手を伸ばされておっしゃられた。人間的には何の縁もゆかりもない群衆、そして罪ある私たちに対して、神様であるイエス様が「兄弟姉妹」であると言われた。私たちは「神によってキリスト・イエスのうちに」(Ⅰコリント1:30)ある。それが福音のめぐみなのである。そして福音は家族愛を否定しているのではなく、もっと大きな「神の愛」のうちに包み込まれている。決して「家族をとるか、信仰をとるか」ではない。

 第三に「神の家族としての教会」について見ていきたい。イエス様は「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです」(マタイ12:50)とおっしゃった。イエス様は、自分が「神のみ子」であるとはっきり宣言しながら、私たちを「兄弟姉妹」と位置付けてくださったことの意味は大きい。この「みこころ」とは、功徳を積むことではない。ましてや「神のみこころである」という権力者の言葉に従って戦争をすることでもない。福音=神の前に悔い改めてイエス様の十字架と復活を受け入れ、信仰に歩むことである。そんな私たちは、すでに「神の家族なのです」(エペソ2:19)。

2023年2月5日「時のしるしヨナ」マタイの福音書(12章38~45節)

【140字ダイジェスト】

よく「奇跡を見れば信じられる」という人がいるが、人は奇跡を見て信じるのではなく、神様のみことばへの信頼によって信仰するのである。イエス様は、神様に背く時代ほど奇跡を求めるが、新約聖書の時代にはイエス様の復活と永遠のいのちいう奇跡しか与えられていないとヨナの話になぞらえて語られた。

私たちは普段インターホンが鳴って知らない人が来た場合、誰なのか身分証を確認するだろう。何かのしるしを求めるのは、安全に生活のするためには有効である。しかし、信仰の上で考えるとどうなのだろうか。人の真実さは何によって計られるべきなのか。

 今朝の聖書箇所はパリサイ人→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「パリサイ派(パリサイ人)」参照がイエス様にしるしを求めた場面である。先週までの箇所で、会堂で教え癒しを行うイエス様の人気をねたんだパリサイ人たちは、たびたびイエス様を批判し論争を吹きかけてきた。そんなパリサイ人たちを、イエス様は「まむしの子孫たち」(マタイ12:34)と呼んだ。そして「おまえたち悪い者に。どうして良いことが言えますか」(12:34)と述べた。イエス様の厳しいことばを受けて、自分たちこそ律法を守って行動している「良い人」だと思っていた、パリサイ人は相当に憤ったことだろう。そして彼らは何らかの証拠を出させて、イエス様を訴える口実を見つけようと「先生、あなたからしるしを見せていただきたい」(12:38)と、わざわざ慇懃に「先生」と呼び掛けている。パリサイ人たちは「神の子と自称するなら、奇跡を見せてくださいよ」と皮肉たっぷりに述べたのである。これに対してイエス様は「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、与えられません。ただしヨナのしるしは別です」(12:39)と、一見すると難解に思える答えをされている。ここでいう「姦淫」とは性的な意味ではなく、他の神々に仕えたり、本当の神様に向かって的外れな行動をとることをいう。イエス様は、神との契約への真実な応答が求められるのに、信仰の内側はおろそかになっているのではないか。そういう人に対しては、神様の奇跡(しるし)はないというのである。そして、この時代に唯一与えられる「ヨナのしるし」とは、三日間大魚の腹の中にあって生きて戻ってこられたヨナのような、三日目によみがえるイエス様の復活のことである(12:40)。

 しかし、イエス様は続けて「ニネベの人々が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです」(12:41)とおっしゃられた。ニネベの町の人々は、何もヨナが大魚の腹から戻った奇跡を見たから、ヨナの言うことを信じたのではない→「旧約聖書を読んでみよう」の「ピノキオのモチーフ」参照。ヨナが預言する神様からの警告を受け入れて悔い改めたから滅びを免れたのである。そういう意味で、素直に神様のことばを受け入れたニネベの人々は信仰の模範だというのである。またイエス様は「南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです」(12:42)とも述べている。ソロモン王に会いに来た「シェバの女王」(Ⅰ列王記10:1)も、ソロモン王によって語られた神様の知恵とことばに耳を傾け信頼したのである。そして彼らは、ヨナやソロモン王をとおして語られた神様のことばに信頼して悔い改めたのに、なぜ、おまえたちパリサイ人たちは神様そのものであるイエス様が語られることばに耳を傾けないのかというのである。

 人間はみことばを聞きながらも、何か形のあるものを求めがちになる。パリサイ人のように、どんなに熱心に律法を学んでも神のことばに目を向けなければ、心は空虚なままである。毎日の生活の中でみことばに信頼し、そこに生かされていくものでありたい。

2023/02/05

2023年1月29日「最悪とされたことば」マタイの福音書(12章19~37節)

【140字ダイジェスト】

人間は神様に対する無知ゆえに神様を冒涜したり、誘惑に負けて罪を犯したりする。確かに私たちには選択する自由を与えられているが、聖霊が私たちの心に働きかける導きに意識的に逆らう生き方を続ける罪は大きい。心をかたくなにせず聖霊の導きに心を傾け、神様の愛を体現する生き方を選んでいきたい。

 暖かいと思われた今期であるが、一月になって寒波が来た。旧約聖書のヨブ記には「あなたは雪の倉に入ったことがあるか」(ヨブ38:22)とある。たしかに寒さは辛いが、それよりもつらいのが人の心の冷たさである。私たちは、愛の業でそれを克服しなければならない。

 今日、第一にみたいことは「パリサイ人の悪意による批判」について見ていきたい→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「パリサイ派(パリサイ人)」参照。ある時、イエス様のところに「目が見えず、口もきけない人が連れて来られた」(マタイ12:22)。注意したいのは「これらの障害=悪霊によるもの」ではない。この人については悪霊によって障害が起こされていたのである。イエス様の奇跡は、福音の本質を表すものである。私たちもイエス様に救われる前は、「罪に対して目が開かれず」「神様を賛美する口もなかった」点で同質である。この時、癒やしの現象を見た群衆は「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか」(12:23)と思うようになった。しかし、一方でパリサイ人たちのようにますます心をかたくなにした(1:24)。彼らは現実を認めると自分たちの生き方を変えなければならなくなるので、自分の考えを優先してしまった。

 第二に「神の国は到来している」ことについて見ていきたい。パリサイ人の主張の背景には「神の国はまだ到来していない」という前提がある。だからこそ、自分たちは神の国の到来まで旧約聖書の律法にこだわるべきと考えている。そういうパリサイ人から見たら、イエス様やイエス様に救い主を見出す群衆の考えは、我慢できないものであった。イエス様はパリサイ人の考えを読み取り、その矛盾を指摘した(12:25-26)。さらにイエス様がサタンによって追い出しているなら、当時の医療的な「悪霊の追い出し」もサタンによって追い出していることになる(12:27)。「なのに、あなたたちパリサイ人たちはそれを認めているのか」と、彼らの二重基準を指摘している(12:27)。そしてパリサイ人たちは、「神の国はまだ来ていない」と固執し、偽善的な行いや形式的な儀式を重ねている。これに対して、イエス様は「もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」(12:28)と宣言し論破した。どちらの考えに拠るかで、私たちの世界の見え方や生き方は大きく変わってくる。イエス様は「略奪」という強い言葉で私たちの住む世界の転換を表現された(12:29)。

 第三に「聖霊を汚すことばの危険性」について見ていきたい。「御霊に対する冒瀆は赦されません」(12:31)とイエス様は述べた。それはイエス様=人の子→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「人の子)」参照に逆らうことばを口にするより、大きな罪であると言っている(12:32)。人間は神様に対する無知によって神様を冒涜したり、外的な圧力や誘惑に負けて罪を犯したりことがある。だが、私たちが与えられている自由意志や選択する自由を、あえて聖霊が自分たちの心に働きかける働きに意識的に逆らう生き方を続ける罪は大きい。私たちはその罪の重大さを自覚する必要がある。厳格な宗教的生活を送っていたパリサイ人たちは、表面的には模範的な生活をしていたかもしれない。しかし、ここまでイエス様や救いを必要とする人たちに対するパリサイ人たちの言動は、神様の愛を体現したものとはいいがたい。イエス様は「良い人はよい倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します」(12:35)と言われた。私たちも心をかたくなにせず聖霊の導きに心を傾け、神様の愛を体現する生き方を選んでいきたい。

2023/01/29
2022/01/22

2023年1月22日「安息日にみる回復」マタイの福音書(12章9~14節)

【140字ダイジェスト】

イエス様が会堂で癒しを行おうとしたとき、パリサイ人たちはイエス様が安息日についての律法を破っていると非難した。神様を見上げていない熱心さは、礼拝を単なる儀礼に貶め私たちの心を神様から離してしまう。私たちも、今ここで心が本当に神様に向いているか問い直し、再出発をしなければならない。

 今年の当教会の目標は「向きを変えて出発せよ」であるが、これは「今までの方針を変えて新しいことをせよ」という意味ではない。「向きを変える」とは、世の中の様々な困難に左右されていた自分が、神様だけを見て神様の方へ向きを変えることである。この聖句は、エジプトから出たイスラエルの民が、目前の困難を見て38年間カデシュバルネアに留まってしまった後に、再び神様を見上げて立ち上がり出発した故事にちなんでいる。神様を見上げることのない形だけの礼拝が混とんを巻き起こした時代は、預言者イザヤの時代にもある。イザヤの時代、イスラエルが多くの侵略者によって何度も蹂躙されていた。そのとき、神様は決まりきった儀式に陥っていたイスラエルの民の礼拝を憎まれた(イザヤ1:13-17)。預言者イザヤの口を通して、神様は神様に向かう真実の礼拝を民に求めている。

 今日は、イエス様がその時の「安息日の礼拝」の在り方をどう見ていらっしゃったか考えていきたい。イエス様が会堂に入られたとき「片手の萎えた人」(マタイ1:10)がいた。会同にいたパリサイ人は、イエス様に対して「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」(1:10)と質問した。パリサイ人たちは、安息日に「いかなる仕事もしてはならない」(出エジプト20:10)という神様の命令を拡大解釈して、いっさいの労働だけでなく「何歩以上あるく」とか、現在なら「電気のスイッチを入れる」ことも禁じられるべきだとした。パリサイ人たちは、イエス様がその人を癒されたら「律法を破った」、癒さなければ「人々の信頼を失う」と考えて意地悪く質問したのである。神様の律法に則って生きているのはイエス様でなく我々(パリサイ人)であるというのである。これに対してイエス様は穴に落ちた羊の救出を例にして(マタイ12:11)、パリサイ人たちの心に問いかけた。イエス様はパリサイ人たちの心の底を知っていながら、その議論を拒否されることはなかった。イエス様は、そこには安息日を設定した神様の根本的な意味、すなわち穴の中に落ちていた私たちが引き上げられ、神様に向かい会う日であるということ。そして神様の目に「人間は羊よりはるかに価値」(12:12)ある存在であるという神さまの思いも伝えている。そしてマタイの福音書は、「イエスはその人に『手を伸ばしなさい』と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになり、もう一方の手のように良くなった」(12:13)と書いてある。さらにイエス様はむやみに奇跡を起こしているのではない。その直前の、みことばを人々がより理解するために行われている。

​ この時、人々は会堂には集まっていた。しかし、そこではイザヤの時代と同様に、神様の愛に応え、神様と向かい合うという意味が失われていたのである。私たち自身の礼拝はどうだろうか。聖書には「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためである」(12:17)と書いてある。イスラエルが他国に蹂躙されていたイザヤの時代、ローマに支配されて神様に対して迷走していたイエス様の時代、本物の礼拝の意味は失われていた。現代も、先が見えない混とんとした時代といわれている。そんな時代に私たちは、何に希望を見出せばよいのであろうか。私たちはこんな時代だからこそ、変わることのない神様の愛に応え、神様の方向に向き合うという「本当の礼拝」を守ることが必要ではないか。

2023年1月15日「安息日の主」マタイの福音書(12章1~8節)

【140字ダイジェスト】

当時のユダヤ人は律法を厳格に守ることを民族の誇りとする一方、人為的に加えられた解釈や後付けの律法が人々の日常生活を縛っていた。安息日もそうであった。しかし本来の安息日なら人が心も身体も癒されて整えられ、神様に静かに向き合い関係を回復させることである。それが神様の望まれる姿である。

 先週、整備を怠り酷使したためか車が故障した。日頃のメンテナンスは重要である。神様は、私たちが神様の前に整えられ癒されるために「安息日」→「聖書の舞台(生活・週間)」のあ行「安息日」参照をつくられた。神様が天地創造をされたときから、神様の前に休みをとり神様との関係回復をすることが必要とされた。

 今日の箇所でイエス様一行は、安息日に麦畑を通ったとき麦の穂を摘んで食べた(マタイ12:1)。当時の律法では、落ち穂を拾ったり少々の麦を摘んだりすることは社会保障的な意味があり窃盗にはあたらなかった。だがパリサイ人たち→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「パリサイ派(パリサイ人)」参照は、これを「安息日に仕事をしないという律法」(出エジプト20:8)に違反していると糾弾した。バビロン捕囚後のイスラエルは、自分たちのアイデンティティを「神様からの律法を守る」ことに見出した。さらに「口伝律法」という伝承的な律法も増えてきた。そこからすると弟子たちの行動は「収穫」と「脱穀」という二つの仕事をして、安息日の禁を犯したというのである。当時、「口伝律法」も含めた律法を厳格に適応させようとする動きは、人々の普通の生活を阻害してきていた。

 これに対してイエス様は、二つの事例からパリサイ人たちへ反論された。「ダビデと供の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか」(マタイ12:3)読んだことがないのかを問うた。律法の専門家を自認するパリサイ人たちは、旧約聖書の第一サムエル記の21章のこのエピソードは知っていた。この記述は、ダビデも祭司も律法を軽視したのではなくその意図を理解した上で、臨在のパンを食べることが神様に許されたという文脈である。

 もう一つの例は「安息日に宮にいる祭司たちは安息日を汚しても咎を免れる、ということを律法で読んだことがないのですか」(12:5)というものである。これは安息日に祭司たちがする作業を説明した民数記の記述のことである(民数記28:9-10)。「安息日には何ら作業をしていけない」というパリサイ人たちの律法解釈からすると、「祭司たちが安息日に律法違反を犯している」ことにはならないか、というのである。イエス様は律法を軽視しているわけではなく、本来、私たちが「安息日に生かされている」ということの意味をもう一度考えなさい。そして安息日の、神様の前に癒され神様との関係を回復するという本来の意味を取り戻そうとさせたのである。

 さらにイエス様は「『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう」(12:6₋7)と述べられた。神殿での儀式について、律法はその規定を細かく定めていた。だが神様が「わたしが喜びとするのは真実の愛、いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである」(ホセア6:6)と述べられていた。神様が求められていたのは、自らの悔い改めと、神様を知ること、そして愛をもって私たちが交わることである。パリサイ人がやったように、律法の規定をもって人々の生活を縛りさばくことは神様の御心ではない。さらにイエス様は「人の子は安息日の主です」(12:8)と宣言された。「人の子」とはイエス様のことであり、創造のときに安息日を定めた創造主であるというのである。

 ユダヤ教では、安息日の土曜日に集会があった。しかしパウロは、週の初めに集会をして聖餐式をし(使徒20:8)献金を募った(Ⅰコリント16:7)。それが現在の日曜礼拝となった。

2023/01/15

2023年1月8日「いつまでも残る愛」(コリント人への手紙第一13章1節~13節)

【140字ダイジェスト】

新約聖書成立以前の初代教会の時代は、神の預言や異言を語る人が目立ったが、パウロは「愛」がないと意味がないといった。教会員の対立が目立ったコリントの教会に対して、「愛」とは概念でなくお互いに示す行動に表れると言った。私たちも神の「愛」のうちに留まってお互いに交わり成長すべきである。

 愛とは何か。聖書が示す愛は、一般に説明される愛の概念とは少し違う。神様が私たちをどのように愛してくださったのか。今日は盛岡の教会で聖餐式があるが、そこに表れた神様の愛とはどんなものか。今日はそれを考えていきたい。

 今日は第一に「調和を保つ愛」について見ていきたい。聖書には「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです」(Ⅰコリント13:1)と書いてある。「異言」とは初代教会でしばしば起こった現象で、頂上的な力で語る言葉である。しかし教会外の人から、この「異言」は「異常な現象」であると思われた。現在でも「異言」を求める教会もあるが、「異言はやみます」(13:8)とあるように一時的なものであった。また神様の御心を語る「預言」も神様に関する「知識」が深まっても、それは充分ではない。教会の中に「愛」がないと、他人を傷つけ分裂を生むことになる。「たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても」(13:3)それは自分の行動を誇るだけの行動に陥ることもある。それでは私たちは何もできなくなってしまう。確かに自分の中から湧き上がるような愛であればそうだろう。だが、私たちは「愛」を神様から賜物として与えられている。

 第二に「愛の特性」について見ていきたい。神様の「愛」とはどういうものであろうか。ギリシア文化の影響下にあったコリントでは、観念的なものを尊び日常を軽んじていた。だが「愛」は観念的なものとして定義されるものではなく、行動の中で現わされる。当時のコリントの教会は、神のもとに集まりながらお互い仲たがいし分裂していた。その彼らにパウロは「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません」(13:4)から続くことばを伝え、「愛」は教会の交わりの中で問われるのだと主張した。私たちは身体の健康については健康診断などでチェックを怠らない。しかし「愛」についても、行動の中で、聖書が語るチェック項目の中で自らを省みる必要がある。私たちは「すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます」(13:7)としつつ、信じて伸ばさなければならない。そして自分の不甲斐なさや限界に甘んじるのではなく、神様の「愛」を信じて成長すべきである。

 第三に「いつまでも残る愛」について見ていきたい。初代教会の時代、まだ聖書は完成されていなかった。そこでは預言を語る人、異言を語る人、知識のある人は目立ったし、尊敬もされた。しかし。それは一時的なものであり「預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます」(13:8)とパウロは語っている。現在でも、生き生きとした神様との交わりを経験したいと超常的な現象を求める人もある。しかし神様の教会を形成する日々の中でお互いが表す「愛」として、神様の恵みは実現する。パウロ自身も「私は一部分しか知りません」(13:12)と成長途中であること、そして神様が私たちに完全に関わっていらっしゃる「愛」を知るようになりたいと望んでいる。私たちは完全な神様の「愛」に応答していくことで、神様の「愛」に近づく成長が望める。パウロが力を注いだエペソの教会でさえ「初めの愛から離れてしまった」(黙示録2:4)と言われた。だからこそ、私たちも神様の「愛」の中にとどまるために、常にイエス様の十字架の愛に立ち返る必要がある。

2023/01/08

2023年01月01日「再創造の新しさ」(ローマ人への手紙11章30節~12章2節)

【140字ダイジェスト】

一般に献げ物というと何か価値あるものを供えることであるが、キリスト教は自分自身を「神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物」として献げよと言う。本来、罪にまみれて価値のない私が、イエス様の十字架による贖いを受け入れ再創造されて神様との信頼関係が回復される。それを神様は喜ばれるのである。

​ 今年の教会の目標を立てるときに、申命記のみことばが得られた。これはイスラエルの民が荒野での40年のうち38年留まったカデシュバルネアから出て、神様から新たな試練を求められ、神様のみこころ知るためにモーセに率いられ再出発したときのものである。

 今日は第一に「神への従順への転換」について見ていきたい。パウロは「あなたがたは、かつては神に不従順」(ローマ11:30)だったと述べている。神様の選びの民とされ、モーセによって率いられて特別な恵みを受けながら、神様に反抗してきたのがイスラエルの歴史であった。しかし、その民の不従順に対するさばきが、それ以外の民のあわれみとなったというのは不思議なことである。だが、神様の恵みは愛される資格のないものの中に現れる。神様のみこころは、私たちの考えや思いをはるかに超えている。

 第二に「従順による献げもの」について見ていきたい。イスラエルの民は不従順であったが、本来、神様と人との関係は信頼関係によって結ばれるべきで、従順の中でこそ「献げもの」の意味がある。一般に献げ物というと、何か人間的に価値あると思うものを偶像に供えることである。しかし、聖書は「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい」(12:1)と勧めている。これはどういうことか。本来、罪にまみれた私たち自身は、「献げる」に値しないものであった。ましてや「神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物」からは程遠い。しかし私たちはイエス様を受け入れることによって罪を贖い、イエス様に私たちの罪を取り去っていただこうとした。その結果「神の喜ばれる、聖なる」ものとされた。そうやってイエス様を受け入れ、神様と和解し、神様とともに生きることを赦されたことを神様が喜ばれるのである。本当の神様は、人間が物を供えないと困るような存在ではない。神様が真に求めているのは、私たちの悔い改めと神様との和解なのである。

 第三に「神様への従順の中に歩む再創造」について見ていきたい。聖書は「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい」(12:2)と述べている。「この世と調子を合わせる」とは罪と欲に縛られた生き方である。しかし、その結果は「永遠の死」であり、それは自分自身の力で解決できる問題ではない。しかしイエス様の十字架の贖いによって、死から「永遠のいのち」に移された。それによって私たちの生き方や行動が新しくされる。「古い人とその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります」(コロサイ3:9-10)とあるが、神様によって全く新しく再創造されるのである。その結果「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります」(ローマ12:1)というように、神様のみこころが分かるように作り変えられるのである。神様を信じる以前、私たちは神様のことを何かぼんやりとしか見えてこなかった。しかし従順の中で神様のみこころを知り、神様のみこころが分かってくるようになる。人間関係においてもそうであるが反発や不従順の中では相手のみこころは分からない。相手を愛し信頼を置く関係を築くことで、初めて相手の考えや思いが分かる。神様と私たちと関係も同じではないだろうか。

2023/01/01
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