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2023年03月~2023年07月

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2023/06/25

2023年6月25日「主イエスの二つの御姿」(マタイの福音書17章1~13節)

​【140字ダイジェスト】

ペテロたちは、山上でイエス様の御姿が変わり神様の声を聞くという奇跡を体験した。だが彼の言動を見ても奇跡の目撃で人は変わらないことがわかる。一方、神様の声はイエス様の十字架の運命を知りながら愛を持って見守るという。私たちの救いは奇跡の体験ではなく、自らの罪の自覚と十字架にこそある。

 今週、近隣の小学校の街並み探検で教会に来る。事前の小学生の質問のひとつに、教会についている十字架は何のためにあるのかというのがあり、どう伝えるべきか考えている。今日は、先週、イエス様が十字架のことを告げられた場面の続きである。

 第一に「天から啓示された栄光のイエス様」について見ていきたい。イエス様が十字架のことを告げられて「六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」(マタイ17:1)という記述がある。普段のイエス様は私たちと変わらない姿だが、この時は姿が一変し(17:2)、さらにモーセやエリヤとも語り合っていた(17:3)。だが、なぜイエス様は、反対派の祭司長や律法学者にこの光景を見せ論破しなかったのか。奇跡に驚けば、そのときは神様に服従するかもしれないが、心から悔い改めることはない。それは神様が数々の奇跡を示しながら、結局は不信仰の道を歩んだイスラエルの歴史が証明している。さらにペテロは「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ」(17:4)と頓珍漢なことを言っている。たしかに神様の栄光の中にいる素晴らしさはあるが、その栄光に入るためには自分の罪の問題の自覚なしにはいられない。

 第二に「弟子たちに対する天からの啓示」について見ていきたい。このとき弟子たちは、三人が光り輝く雲に覆われるのを見た。そして雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」(17:5)という声を聞いた。ペテロは、後に、この経験を人々に語っている(Ⅱペテロ1:16-18)。ここで大切なのは、神様ご自身が「これはわたしの愛する子」と言っている点である。当然、神様は「愛する子」が、これらか人々から苦しみにあわされて十字架につけられることを知っており、イエス様も祈りのうちに神様に自分の気持ちを語っているはずである。神様は、イエス様が採ろうとする十字架への道と人々の贖い、愛を持って見守っていられた。だからこそ神様は、私たち人間に「彼の言うことを聞け」と言っておられるのである。

 第三に「預言の成就としてのイエス様の姿」について見ていきたい。弟子たちはイエス様と日常の生活を共にしてきた「近い人」という印象しかなかった。だからこそひれ伏し、恐れたのだが(17:6)、その彼らのもとにイエス様の側から彼らのもとに歩み寄って触れられた(17:7)。聖なるイエス様側からの関係の回復の瞬間である。イエス様は、さらに「あなたがたが見たことを、だれにも話してはいけません。人の子が死人の中からよみがえるまでは」(17:9)と言われた。おそらく彼らはイエス様の命令は守ったが、その意味するところは分からなかった。五感で感じる奇跡は素晴らしいが、それが必ずしも信仰にはつながるということではない。唯一それを成し遂げるのは、みことばを通して自らの罪を自覚することになる。ただ弟子たちは律法学者たちが解釈した救世主のイメージとかけ離れていることに疑問を興したが(17:10)、イエス様は、旧約聖書のみことばは弟子たちが拒否したい救世主像を表していると述べた(17:11₋13)。私たちも、みことばが示す十字架の意味と救いの道をきちんと受け止める必要がある。

2023/06/18

2023年6月18日「自分の十字架を負って」(マタイの福音書16章21~28節)

【140字ダイジェスト】

イエス様のいう「自分の十字架を負いなさい」の「十字架」を「自分の人生の課題や困難」と捉える人が多いが、これは違う。「自分の十字架」とはみことばによって明らかにされる死に至る「自分の罪」であり、自分の意思でイエス様に従うことによってのみ、その罪が贖われ永遠のいのが得られるのである。

 キリスト教会のシンボルの十字架は、実は極刑のシンボルで忌まわしいものでもある。しかしイエス様は、我々に「自分の十字架を負いなさい」とおっしゃっている。今日の箇所は、イエス様をキリスト(救い主)と告白した、先週のペテロの告白と強い関連がある。

 今日は第一に「イエス様の十字架預言」について見ていきたい。イエス様は弟子たちに「ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないこと」(マタイ16:21)をはっきりと示された。しかし、これを聞いた弟子たちは、自分たちの考えていた救世主像とはあまりにもかけ離れていたため大変に驚いた。イスラエルの民にとっての「救い主」とは、自分たちをローマの圧政から解放しイスラエルの栄光を取り戻してくださる方であった。だからイエス様がエルサレムに行けば、反対勢力が一掃されると考えていた。だから、この弱気なことばを聞いてペテロは、イエス様をわきに連れて諫めた(16:22)。だが、それは自分の考える救世主像でしかない。イエス様は「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(16:23)と叱責された。前の箇所で「天の御国の鍵を与える」(16:19)と言われたペテロは、ショックを受けただろう。人間からしたら「それがなぜ救いになるのか」と思うが、そこに人知を超えた神様の意図がある。

 第二に「自分の十字架を負って従うこと」について見ていきたい。イエス様は弟子たちに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(16:24)と言われた。この時点でも弟子たちは、生業を捨ててついて来ている。何を捨てよというのか。イエス様は、わたしについて来たいと「思うなら」と言われ、自発的な意思を求めている。では「十字架」とは何か。ある人たちは「自分が抱えている困難や障害」と考えているが、それはイエス様の言う十字架ではない。この十字架とは、そのような「人生の課題」などではなく、みことばによって示される「罪人としての自分の姿」である。だから自分の罪を認め、罪を隠して取り繕っていたこれまでの自分を捨てて、自発的に心の中にイエス様を受け入れなさいと言うことである。そこにイエス様に従い、神様の愛のうちに生き方がある。だからイエス様は「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです」(16:25)と言われる。

 第三に「まことのいのちを見出すことと終末との関係」について見ていきたい。自分の思い通り生きて、死で自分の人生が終わると考えている人は多い。だが聖書は、神様の御前での本当の終末があると述べている。そこでは「神様につながるいのち」の有無が問題となる(16:26)。私たちの「いのち」は罪のため自分の物となっておらず、それを「買い戻す」ことは「永久にあきらめなければならない」(詩編49:8)とされている。だから人間は永遠に罪の中に囚われることになる。それを私たちの代わりに支払って、買い戻してくださるのがイエス様の十字架なのである。神様は旧約聖書の律法に「ヨベルの年」を設定して、どれだけ負債が大きくとも神の恵みによって負債がなかったことになるのを示された。私たちも十字架を、私たちの罪の負債を無しにしてくれる恵みだと気づくべきであろう。

2023年6月11日「生ける神の子キリスト」(マタイの福音書16章13~19節)

【140字ダイジェスト】

「自分の信仰の立っている土台」は、私たちが神様との関係を築く上で重要である。イエス様が尋ねられたとき、ペテロは「あなたは生ける神の子キリストです」と答えた。しかし彼にそれを告白させたのは、人間的な知恵からではなく神様の掲示である。イエス様は、その告白を土台に教会を建て上げられた。

 多くの日本人は宗教というと「家の宗教」で答える傾向がある。そこでは、しばしば伝統的儀式が重んじられ「自分が何を信じているか」は気に留めていない。しかし、私たちは神様との関係を考える際に「自分の信仰はどこに立っているのか」こそが重要となる。

 今日は第一に「イエスとはだれのことか」について見ていきたい。イエス様一行が「ピリポ・カイザリア地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった」(マタイ16:13)という。ピリポ・カイザリアはヘロデ大王の支配地の北のはずれにあり、ユダヤ教よりもローマ皇帝崇拝の強い地域であった。イエス様の問いは、パリサイ派やサドカイ派の影響が薄い民衆が、イエス様をどう捉えているかというもので、弟子たちは「バプテスマのヨハネ」「エリヤ」「エレミヤ」だと答え(16:14)、民衆は神様から送られてきた預言者だと期待していた。しかしイエス様は、そんな評判を置いておいて弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」(16:15)と問うた。弟子たちは当然、イエス様を「信じて」ついて来たのだが、(預言者・宗教家・革命家・慈善家など)その信じている内容がバラバラであった。それは私たちにも言えることである。

 第二に「イエス様に対するペテロの応答」について見ていきたい。そんな中、ペテロははっきりと「あなたは生ける神の子キリストです」(16:16)と答えた。多くの宗教の神が死んだ/虚像としての神であるが、私たちの信じている神様は「生きて働いている神様」なのである。それが神様から示されていたペテロに対して、イエス様は「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです」(16:17)と彼の正式な呼び方を使って最大限に喜ばれた。これはペトロの「模範解答」を気に入ったわけではない。天におられる神様がそれをペテロに明らかにされた事実に喜びを感じた。一方、ペテロはイエス様に褒められたことは喜んだが、彼のその後の行動を見るとペテロがその発言を理解していたわけではなかった。だが神様がペテロのうちに働かれたことこそが祝福となった。信仰の告白は、人間的な知恵や経験によってたどり着くものでなく、神様による啓示が与えられることこそが重要なのである。『メイドインジャパンのキリスト教』(M.R.マリンズ、トランスビュー)には、日本人が内村鑑三に代表される影響力のある人物を通した信仰について論じている。彼は「実父」や「武士道」に受けつつキリスト教信仰を構築したが、イエス様はみことばの上に信仰を建てるように言われた。

 第三に「この岩の上に建てる教会」について見ていきたい。イエス様は「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」(16:18)と宣言された。カトリックは歴史的にこのことばを根拠に、ペテロを初代とする教皇の権威を絶対視した。しかし、イエス様が言われたのは、ペテロが「あなたは生ける神の子キリストです」(16:16)と言った信仰の告白を土台として神様に集められた人の群れを「わたしの教会」(16:18)として建て上げる。そして「わたしの教会」と言われたとおり主権はイエス様にある。その群れである教会は、イエス様の主権により「よみの門もそれに打ち勝つことはでき」(16:18)ないものとなり、神様により地上と天をつなぐ「鍵」(16:19)となるというのである。私たちの教会は、そのような存在としてイエス様の主権で建て上げられたものなのである。

2023/06/11

2023年6月4日「問われる人生の土台」(コリント人への手紙第一3章1~16節)

【140字ダイジェスト】

コリント教会の分裂の原因は、生まれたままの「肉の性質」から離れていないことにあるとパウロは言う。本来、教会はキリストのからだであり、その部分であるひとり一人の信仰の成長により全体が成長していく。教会に対立や問題がっても、神様という土台をもとに心を一つに信仰を成長させるべきである。

 先週はペンテコステ礼拝であった。聖霊が与えられるということは、神様がともにおられる確証でもある。この聖霊は「真理の御霊」であり、聖霊がおられることは「神があなたがたとともにおられる」ことであり、目に見えなくても私たちの確かにおられる。

 今日は、第一に「信仰の自己点検」について見ていきたい。パウロはコリントの教会の人に「兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するように語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました」(Ⅰコリント3:1)と述べた→「新約聖書を読んでみよう」の「エーゲ海旅行」参照。「兄弟たち」と呼び掛けているのでクリスチャンであるが、彼らはまだ「肉に属する人」で「御霊に属する人」にはなっておらず、信仰のごく初歩にいるのだ(3:2)と述べている。しかし、信仰の成長のためには「固い食物」(3:2)=信仰にある試練や問題を与えられ咀嚼して飲み込む必要がある。そこに聖霊の導きによる「信仰の成長」の恵みがある。コリント教会の分裂の根本的な原因を、生まれたままの「肉の性質」から離れていないことにあるとパウロは言う(3:3-4)。本来、教会はキリストのからだであり、その部分であるひとり一人の信仰の成長によって全体が成長していくようになるのである。

 第二に「聖霊による成長」について見ていきたい。コリント教会では、まるで投票のような議論が起こっていた(3:4)。しかしパウロは「アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です」(3:5-6)と言い切った、確かに教会形成の初期には、パウロやアポロの働きは大きかった。しかし教会員は、その背後にあった神様の働きを考えてはいなった。かつて弟子たちはガリラヤ湖で嵐にあったとき、必死に水をかい出す弟子たちを横目に寝ていたイエス様に対して「同じように水をかい出すべきだ」と主張した(マタイ8:24-27)。同じように「自分たちは一生懸命やっている」ものの神様の働きをどんどん小さくするような働きがある。しかし、そうではなく「成長させたのは神」(Ⅰコリント3:7)であることを忘れてはならない。そして私たちが、「生まれたままの性質」を「聖霊による導き」に置き換えていく、その過程が「信仰の成長」なのである。

 第三に「問われる人生の土台」について見ていきたい。コリント教会の人びとは「パウロにつく」とか「アポロにつく」とか言いあらそっていた(3:4)。しかしパウロは「私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です」(3:9)と述べている。私たち競争相手でなく「同労者」であり、そのひとり一人の成長が教会全体の成長につながる。徳丸町キリスト教会の牧師は、新会堂を建てあげた過程で様々な対立や問題があったが、その過程で心を一つにして成長したと証ししている。その心を一つにした土台は、神様の恵みであった。だが、私たちはその素晴らしい土台の上に「どのように建てるか」(3:11)は私たちに任されている。しかし神様は、私たちが立派な神殿(3:16)を建て上げることを期待し期待し素晴らしい土台を与えてくださった。だからこそ、私たちは聖霊に導かれて「上の宮」(3:16)にふさわしい人生を建て上げなければならない。

2023/06/04
2023/05/28

2023年5月27日「神の御霊による啓示」(コリント人への手紙第一2章1~12節)

【140字ダイジェスト】

「死者が復活する」ことや「十字架につけられた者をあがめる」などは、ギリシア哲学的には愚かな話だと思われ、人間的な知恵を語り人間的な寛容さで人々を受け入れることが教会の役割だと思われた。しかしパウロは、福音の知恵は人間の知恵をはるかに超える聖霊によって啓示された神の知恵だと語った。

 今日はペンテコステ礼拝(聖霊降誕祭)である。私たちは聖霊の働きなしでは罪の自覚もできず、人間的な思いで信仰となる。「コリント人への手紙」は、使徒パウロがエペソに滞在しているとき、そのような状態にあったコリントの教会に書いた手紙である。

 今日第一に「聖霊の現れを第一にしたパウロの決意」について見ていきたい。当時コリントは、港湾都市として景気が良い活気にあふれた街であった。第二回伝道旅行でコリントを訪れたパウロは、その直前に訪れたアテネで行ったようにギリシア哲学のスタイルに沿いながら福音を語っていたが、欲望あふれる経済都市コリントでは、そのスタイルが通じないと考えた。そこで彼は、人間的な「説得力のある知恵のことば」(Ⅰコリント2:4)でなく、自分の弱さや恐れを隠すことなく(2:3)聖霊の力で語って来た(2:4)。この手紙では、そのように聖霊の力で福音を宣べて伝えできて、聖霊の導きによってひとり一人が信仰が導かれ、コリントの教会が出来ていった原点を思い出すように書いた。

 第二に「聖霊によって啓示された神の知恵」について見ていきたい。パウロは「私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした」(2:4)と手紙に書いている。人間的には「知恵のことば」で人々を説得して人々を導くと考えがちだが、本当の信仰の形成や成長は「人間の知恵によらず、神の力によるもの」(2:5)であるという内的な確信が基盤となっているというのである。使徒の働きには「皆が同じ場所に集まっていた」(使徒2:1)ときに聖霊が下ったとあるが、それは物理的に集まっていたことだけでなく「いつも心を一つに祈って」(1:14)聖霊が注がれることを待ち望んでいたことを意味している。聖霊は漫然と注がれるのではなく、罪を自覚して神様の恵みを信じて待ち望み、聖霊を受け入れる心の準備があるところに注がれる。そして聖霊を受け入れるためには、それによって罪が許され聖霊がともにいてくださる確信が生まれる。パウロは、ギリシア的な修辞法によって弁論で勝利するのではなく内側の確信がなければ、神様に従う教会の成長やひとり一人の信仰の成長はないと主張しているのである。

 第三に「知恵のことばとしての十字架」について見ていきたい。経済都市コリントでは、ギリシア的な考え方や経済都市ならではの享楽主義がはびこっていた。コリント人への手紙第一の6章以降には、コリントの教会にはびこっていた悪弊が列記されている。しかしコリントの教会は、このような人を許容し受け入れることが教会の役割だと考えていた。そんな教会にパウロは手紙を書き、福音の語る知恵は「この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです」(Ⅰコリント2:6-7)と書き送った。ギリシア哲学に沿えば、「復活」や「十字架につけられた者をあがめる」ことはナンセンスに思われる。しかし、それは人間ではなく「神の知恵」であると語る。それは科学主義の現代に生きる私たちにも通じる戒めである。「神の知恵」を自分の考えに従って解釈してしまうと、聖霊が語りかける奥義や、そこに生きる恵みをとり逃してしまう。私たちはみことばによって信仰に生きるべきである。

2023年5月21日「時代の空模様」(マタイの福音書16章1~12節)

【140字ダイジェスト】

人は観天望気をして予定の行動を変えたり、時には命を守る行動を行う。しかし神様が人間に発し続けている「天からのしるし」や旧約聖書の意図については目を瞑っている。これらは罪を自覚し神様の声に耳を傾けないとなかなか分からない。だからこそ、死につながる罪の問題にこそ目を向けるべきである。

 NHKの連続テレビ小説「おかえりモネ」で、主人公が気象予報士になった動機として「天気予報は命にかかわる」というものがあった。しかし、どんなに警報がなされても、それを気にかけない人もいる。私たちは神様の示されることに目が開かれているだろうか。

 今日は第一に「時の空模様」について見ていきたい。この時、イエス様は「マガダン」にいた(マタイ15:39)。そこに「パリサイ人たちやサドカイ人たち→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「パリサイ派(パリサイ人)」参照)(→「聖書の舞台(人物・組織)」のさ行「サドカイ派(サドカイ人)」参照が、イエスを試そうと近づいて来て、天からのしるしを見せてほしいと求めた」(16:1)。これ対して、イエス様は、あなたがたは「空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか」(16:3)と答えられた。律法を厳格に守ろうとするパリサイ人と、モーセ五書だけを信じて世俗主義的なサドカイ人は宗教的には対立していたが、この時は、イエス様を試すという点で一致していた。彼らは民衆の中で人気が高まっていたイエス様を引きずり下ろそうと、イエス様に「天のしるし」を求めた。これに対してイエス様がたとえられた観天望気も、いわば「天のしるし」を見て行動を判断することである。イエス様は、彼らが宗教的な「天からのしるし」を見ることのできる知識があるのに、命にかかわる信仰上の「空模様」については目を瞑っているというのである。神様はそんな人間も愛され、すぐに来るイエス様の十字架と三日目の復活をなぞり、ニネベを救ったヨナの行動で見せたではないかとイエス様は主張している(16:4)。しかし、信仰の目が開かれていないと理解できない。

 第二に「時代の悪い影響を受けていた弟子たち」について見ていきたい。イエス様は頑迷なパリサイ人やサドカイ人と決別し、湖の対岸に行かれた(16:4)。そこでイエス様は、弟子たちに「パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい」(15:6)と言われた。パリサイ人たちは、表面上はいいことをしているように見えて、神様に頑迷な態度を取っている。だから弟子たちにその影響力が及ばないように警告をした。だが弟子たちは、その言葉をまったく違った受け止め方をして議論となった(16:7)。たしかに旅のための食糧がないことは、時には命にかかわる。だが罪の問題は比較にならないほど大きい。だが弟子たちは、罪の問題にまったく関心を持たなかった。罪の自覚がないと、いずれパリサイ人たちのような原理主義に陥ってしまう。私たちは神様が常に示している罪の問題をきちんと自覚して、観天望気のようにいのちを守る行動を選択する必要がある。

 第三に「信仰を立て直すこと」について見ていきたい。イエス様は、パンの問題を議論している弟子たちに「信仰の薄い人たち」(16:8)と呼び、過去に二回見せたパンの奇跡を思い出すように言われた。当然、直前の出来事なので(14:17-21、15:33-38)弟子たちはよく覚えているはずである。しかし、弟子たちはそのことの意味をよく分かっていなかった。「信仰が薄い」とは、信仰が表面的なもので時代の空気に流されやすいことを言われたのである。そんな弟子たちに、イエス様のなされた奇跡の中で、神様とどういう関係を持ちどういう恵みがあったかを気付かせ、信仰に立ち戻させようとしたのである。私たちも、神様が自分自身になしてくださった業と恵みを繰り返し繰り返し呼び起こし、日々信仰を新たにしていくことがことが大切である。

2023/05/21

2023年5月14日「拒絶を破る求め」(マタイの福音書15章21~28節)

​【140字ダイジェスト】

不可解に見えるイエス様の行動の背後には、神様の意図と計画がある。このカナンの女も、イエス様の拒絶の中で、自分は救われるに値しない人間であるが神様の恵みに信頼し拠り頼むのだとの信仰を貫いた。彼女は民族でなく信仰ゆえ「イスラエルの家の失われた羊」と認められ異邦人宣教の先駆けとなった。

 草花を育てるには土を耕して種を植えるなどの手順があるが、福音を育てるのも同様である。福音を話すにも受け取るにもその「土壌」が必要で、神様は長い時間をかけてイスラエルという土を耕された。そこに異邦人のカナン人の女が来た。今日はその箇所である。

 聖書を読んでいると、時々、「おや」と思うことがある。しかし、そこには神様の大きな意図がある。今日の箇所でイエス様と弟子たちのところに「その地方のカナン人の女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます』と言って叫び続けた」(マタイ15:22)。ツロとシドンの地方は異郷の地で神様のことは語られておらず、また、この時の弟子たちは、宣教のためではなく疲れをいやすための休息の時期であった。だから弟子たちは、この女がみことばを求めてきたのではなく病気の治癒だけを求めて来ていたと考え、自分たちも変な女と一緒に見られると考えて「あの女を去らせてください」(15:23)とイエス様に言った。一方、イエス様も「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません」(15:24)と説明し、異教徒への宣教の時期ではないと言われた。そこには神様の大きな計画があった。

 第二に「主の取り扱いによる神の恵み」について見ていきたい。たしかに民族としてのカナン人の女は「イスラエルの家の失われた羊」ではない。しかし「信仰」という視点から見れば、カナン人の彼女も「失われた羊」であることに変わりない。彼女は「イエスの前にひれ伏して」「主よ、私をお助けください」(15:25)と言った。この「ひれ伏す」とは姿勢のことではなく「礼拝する」という言葉が使われている。彼女はイエス様を「病気を癒す呪い師の一種」と捉えているのではなく、「神様」「救い主」と捉えて自分の抱えている痛みをさらけ出した。これに対してイエス様は、さらに「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです」(15:26)と比喩を使い、今は「イスラエルの家の失われた羊たち」(15:24)を救う時期であると述べた。女性は叫び続け、弟子たちにはウザがられ、どうにもならなくてイエス様の前に出て礼拝し、勇気を出して述べた言葉を拒絶された。それでも彼女は「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」(15:27)と言った。彼女の言葉には「自分は神の恵みに与れるような存在ではない」しかし「そんな私でも神様は恵みを注がれているという確信はある」という神様に対する信頼が見られる。そしてパン屑ほどの恵みでも、それが注がれれば大きな恵みがあると信じている。神様を信頼し、神様の大いなる恵みにすがることがどれほど大切かわかろう。その信仰が、異邦人である私たちを「イスラエルの家の失われた羊たち」ならしめる。

​ 第三に「信仰者に注がれる神様の祝福のことば」について見ていきたい。イエス様は「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように」(15:28)とおっしゃった。カナンの女は、イエス様の拒絶のことばの中で、本当の信仰にいたった。そこには異郷のご利益的な癒しではなく、神様の恵みに対する確かな信頼があった。彼女は異郷の地の住民であったが、イエス様に「主よ。ダビデの子よ」(15:22)と明確に述べ信仰に生きる市政があった。翻ってイスラエルの民(15:8)、そして私たちはどうだろうか。

2023/05/14

2023年5月7日「神に喜ばれる働き」(テサロニケ第一の手紙2章1~8節)

【140字ダイジェスト】

パウロは初代教会で献身的に宣教の働きを行ったが、人に喜ばれたいとか認められたいとかいう気持ちで行っていたのではなかった、また彼は神様の権威を振りかざすのではなく、神に仕え神に喜ばれる生き方をすることを望んだ。そして愛をもって語りかけ、人々が神様の御前に育っていくことを望んでいた。

 心が通じないと何をしても意味がなくなる。礼拝も同じで、神様と心を通わせられない形だけの礼拝は意味がない。今日のテサロニケ人への手紙は、新約聖書の一番初期に書かれたもののひとつであり、初期の教会の様子がよくわかる。

 今日は第一に「福音宣教は神から出た働きである」ということについて見ていきたい。ユダヤ人にとって、パウロが言う「イエス様が神様である」という話は受け入れられなかったし、パウロの福音宣教が神様から出ているというのも受け入れられなかった。しかしパウロは「私たちの神によって勇気づけられて、激しい苦闘のうちにも神の福音をあなたがたに語りました」(Ⅰテサロニケ2:2)と神様から出ていると確信して、決して揺るがない。これが福音宣教に働く人々の励ましとなるのである。

 第二に「福音宣教の働き」について見ていきたい。パウロは「私たちの勧めは、誤りから出ているものでも、不純な心から出ているものでもなく、だましごとでもありません。むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです」(2:2-3)と述べている。パウロたちの献身的な働きに対して、何か人を喜ばせて特をしようとしているのではないかと疑う人々もあった。たしかに世の中には、人に喜ばれる仕事も多く、それはそれで尊い働きである。しかしながら、人に認められることが喜びとなるのであれば、人に求められなくなると働きに対する意欲は低下してしまう。しかしパウロの根本には「キリスト教徒を迫害してきた自分は人に喜ばれるような人間ではない」という思いがある。だが「神様によって変えられ、神様によって福音を語ることを委ねられた」との思いがある→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「パウロ(サウロ)」参照。それゆえに「人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうと」(2:3)という思いがある。今日は、礼拝後に盛岡みなみ教会で佐藤まなか先生の伝道師就任式があるが、そこには人ではなく神様のみこころが表れている。私たち教会は、そのことを、信仰をもって受け止めていく必要がある。

​ 第三に「神に喜ばれることの中に示されているモデル」について見ていきたい。パウロは、宣教するだけでなく自らをモデルとして提供したいと思っている。パウロは「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者となりました」(1:6)と言っている。だが、それは自らを上に置き権威を振り返すことではない。むしろパウロは「キリストの使徒として権威を主張することもできましたが、あなたがたの間では幼子になりました」(2:7)と言っている。そして神様に倣って「自分の子どもたちを養い育てる母親のように、あなたがたをいとおしく思い、神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています」(2:7-8)と言っているし、父親のように厳かに育てると言っている(2:11-12)。たしかに子育てには多くの苦労が伴う。しかし最も大事なのは「子どもが育つ」ことである。教会に使えることも多くの苦労が伴うが、大切なのは教会の一人一人が育つことである。私たち教会の業は、私たち一人一人が神様に会って育つようにとの、神様の愛が表れている。

2023/0507
2023/04/30

2023年4月30日「良い業に隠された罪」(マタイの福音書15章1~11節)

【140字ダイジェスト】

律法を民族のアイデンティティとしていたユダヤ人たちは、律法の根底となる神様のみこころを忘れ、人間的な口伝律法を増やして道を逸れた。いくら聖書の知識があっても儀式を繰り返しても、それは神様のみこころを離れた偽善でしかない。自らの罪を悔い改め、イエス様に拠り求めるところに救いはある。

 先日、仙台のキリスト教の集まりで、宗教と国の権力が結びついた外国についての話題があった。キリスト教も、宗教改革以前や第二次世界大戦下など、聖書よりも伝統や教義を上に置く状態にあったこともある。だからこそ今、私たちは聖書の権威を固く保ちたい。

 今日は、第一に「イエス様のことばに対抗するパリサイ人や律法学者」たちについて見ていきたい。彼らはエルサレムからガリラヤにやって来て(マタイ15:1)、「なぜ、あなたがたの弟子たちは長老たちの言い伝えを破るのですか。パンを食べるとき、手を洗っていません」(15:2)と述べた。これは衛生面と言うより宗教的な儀式としての手洗いである。ユダヤ人のアイデンティティは「律法」であり、それを破ることは、彼らにとって許せなかった。だがイエス様は「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか」(15:3)と問い返された。そしてイエス様は、十戒の中の「父と母を敬え」を例に、律法を守ることが逆の結果を招く例を説明された。当時、ユダヤ人の作った律法では神様への「ささげ物(コルバン: κορβαν)」と宣言したものは父や母といえども誰も手を出せなくなった。だから父や母に取られたくない物は、「コルバン」を宣言して取られないようにする姑息な方法がまかり通った。だからイエス様は、口伝律法→「聖書の舞台(生活・習慣)」のら・や・わ行「律法」参照によってユダヤ人たちは「自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまいました」(15:6)のだと言われた。

 第二に「信仰者の中に隠された罪」について見ていきたい。イエス様の言われた「偽善者」とは、もともとギリシア語の「演じる」という意味である。そしてイザヤのことばを引用して「この民は口先でわたしを敬うがその心はわたしから遠く離れている」(15:8)と「見事に預言しています」(15:7)と言っている。パリサイ人や律法学者たちは「人間の命令を、教えとして教え」(15:9)ているが神様のみこころから離れている(15:8)と言うのである。そのような礼拝は、儀式の形が整っていても、神様のみことばをいくら知っていて「彼らがわたしを礼拝しても、むなしい」のである。

 第三に「イエス様が群衆に話されたことば」について見ていきたい。イエス様は群衆に向かって「聞いて悟りなさい。口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです」(15:10-11)とおっしゃられた。口伝律法にはたくさんの食べ物の禁忌があった。たしかに健康面や衛生面を考えれば、悪い食べ物を食べたらお腹を壊す。だから私たちは食べ物に気を使う。しかし私たちは自分の口から出る言葉に、どれほど気を付けているのだろうか。人を汚したり傷つけたり、悪い影響を与えるのは、私たちの口から出る言葉である。マルコの福音書の7章では、さらに詳しく書かれている。イエス様は「人から出てくるもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出てきます。淫らな行い、盗み、殺人、館員、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです」(マタイ720-23)とおっしゃった。私たちは、それらの罪に築かずに人を傷つけている。それを見つめ悔い改めるために、この汚れた私たちの心に来てくださるのがイエス様である。イエス様によって、私たちの口からは感謝と賛美が出てくるようになる。その業をおぼえていきたい。

2023年4月23日「恐れを取り去る要石」(マタイの福音書14章22~33節)

【140字ダイジェスト】

湖の上を歩いてきたイエス様を弟子たちは幽霊だと見間違えた。湖の上を歩いて来いというイエス様のみことばを求めたペテロも、風や波を見て怖くなり沈みかけた。恐れは私たちの信仰を迷わせるため、みことばにしっかりとより立って歩みたい。そして、そんな弱い私たちにイエス様は手を差し伸べられる。

 世間には「成功するための本」の類が多い。成功をつかむには失敗からでなく成功した人から学ぶべきであるという考えが多い。しかし聖書には「失敗」が多く書かれている。特に恐れは信仰を失わせてしまい大きな失敗を生む。

 今日は、第一に「イエス様を幽霊と見間違った弟子たち」について見てみたい。この時、イエス様は「弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた」(マタイ14:22-23)あとに「一人で山に登られた」とある。群衆は奇跡を見て自分たちの王にしようとの熱気があったが(ヨハネ6:15)、イエス様はその群衆を解散させた。弟子たちも興奮状態だっただろう。しかしイエス様からも群衆からみ離れて舟に乗った弟子たちは、暗くなるに従い興奮も冷め、波と風に疲れていた。そのイエス様が波の上を歩いて近づいてきたのである(マタイ14:25)。自然をも従えるイエス様の業を見てきた弟子たちならば湖の上を歩くことも予想されたはずなのに、彼らは「『あれは幽霊だ』と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ」(14:26)。それは恐れのあまりイエス様を「あれはバプテスマのヨハネだ」(14:2)と怯えたヘロデ王よりも頓珍漢な見方である。とすると、弟子たちは目に見える業だけを見て、イエス様の本質を見ていたのだろうか。

 しかし、そんな弟子たちにイエス様は「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」(14:27)と話しかけられた。自分を見失って恐れの中にある弟子たちに、イエス様はみことばをもっと対応された。私たちもイエス様から「恐れることはない、わたしはここにいる」というみことばを聞くことが大切である。このみことばに対して、ペテロは「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」(14:28)と述べている。彼は「歩かせてください」という奇跡を求めたのではなく、「私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」(14:28)とイエス様のみことばを求めみことばに従いたいと願ったことがわかる。それに対して、イエス様は「来なさい」とのみことばを贈られた(14:29)。私たちも現実の中で、自分で決めてあきらめたり恐れたりするのではなく、イエス様がみことばをかけてくださることを待つことが必要である。だがペテロは途中で「強風を見て怖くなり」沈みかけた(14:30)。私たちもイエス様との関係は、絶えず見つめなおして離れるべきではない。しかしペテロの弱さは私たちの弱さと同質である。だがイエス様は「イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた」(14:31)と、いつくしみ深く手を伸ばされた。そこにイエス様の本質がある。私たちはみな弱さを抱えている。

 先日、フランスの大統領が自死を認める発言をした。大統領の発言は、フランスの有名な老齢の映画監督がスイスで安楽死を選んだことに影響されたといわれている。しかし私たちの生は失敗続きでみっともないものである。死にたくなるような時も多々ある。しかし、そこからいのちの主を見上げていくことが重要なのである。イエス様は、そのような情けない私たちにみことばをかけ、沈みかける私たちの手をしっかりと握ってくださる。奇跡の業で熱狂を生んだ場所にいた私たちがイエス様との関係の本質ではない。私の弱さやみっともなさの中に、イエス様はいて、そこから関係が築かれてくるのである。

2023/04/23

2023年4月16日「本当の豊かさ」(マタイの福音書14章14~21節)

【140字ダイジェスト】

人里離れた場所で群衆に食べ物を与えるよう命じられた弟子たちは、自身の力で解決しようしたが、わずかの食べ物しか見つけられなかった。だがイエス様は、戸惑いながらもイエス様のもとにそれらを届けた「信仰」を良しとされた。私たちは自分の力でなく、神様に活かされていることを忘れてはならない。

 先週、佐賀宣教に関する報告会があった。その中で、かつて博多港に入港した世界中を周って宣教している船の話があった。入江牧師は、そこで貧しいモザンビークから来た方と話し「福音は私たちの希望だ」と話していらっしゃったのが印象的だったそうである。

 今日は第一に「イエス様が群衆を深くあわれまれた」ことについて見たい。この時、イエス様はヘロデ王の様子や(マタイ14:1-2)、ヨハネの処刑の話(14:12)を聞いていた。イエス様の活動が広がるにつれ、ヘロデ王は心には平安がなくなり恐れが広がっていた。一方、イエス様の活動に従っていた群衆に対しても、イエス様は深くあわれまれた(14:14)。日本語の「憐れむ」はどこか上から目線に聞こえるが、これは「深く共感し悲しみに寄り添う」という意味である。ヘロデ王だけでなく、イエス様のところに集まった目の前の群衆も平安はなく、何らかの問題を抱えていた。この時のイエス様は、十字架による救いはまだ先の時期であったが、それでも群衆を見捨てずに悲しみに共感して救いの業をなされた。

 第二に「群衆の必要のために用いられた弟子たち」について見ていきたい。この時、一行は静かに神様に祈り向かい合う「リトリート(退修会)」のために「人里離れたところ」にいた。しかしイエス様を求める群衆は、そんな場所にも大勢押しかけていた。弟子たちは「ここは人里離れたところですし、時刻ももう遅くなっています。村に行って自分たちで食べ物を買うことができるように、群衆を解散させてください」(14:15)とイエス様に申し出たのは、常識的には「良い判断」だろう。だがイエス様は、それに反して「彼らが行く必要はありません。あなたがたがあの人たちに食べ物をあげなさい」(14:16)と言われた。驚いた弟子たちは、それでも群衆の中で食糧を買うお金や食べ物を調べた(マルコ6:37-38)。その結果、出てきたのは「五つのパンと二匹の魚」(マタイ14:17)だけだったので、できないことの理由付けとしてイエス様に報告した。弟子たちは、(1)群衆の問題を解決するのは自分たちではない、(2)群衆の中で問題を解決しなければならない、(3)それをイエス様に持って行っても何の意味がないと、三つの思い込みをしていた。しかし「神様にものを持っていく」というのは、礼拝行為であり神様に問題を開くことである。そこを外してはいけない。

​ 第三に「祝福へと変えられた五つのパンと二匹の魚」について見ていきたい。問題を抱えて集まった一万人を超える群衆が持っていたわずかの食糧は、自分たちの貧しさを象徴するものであった。しかし、「こんなものが何になるか」と思いながらも、弟子たちは「それを、ここに持ってきなさい」(14:18)と言われたイエス様のことばに従った。「信仰」というにはあまりにも弱々しい従い方である。だが、そのわずかの信仰をイエス様は良しとし、弟子たちがあきらめて捨てようとしていたものを祝福して手渡した。それを弟子たちが受け取った瞬間から、莫大な祝福の業として展開した。その結果「人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二のかごがいっぱいになった」(14:20)のである。かつてイスラエルの民にマナ→「聖書の舞台(生活・習慣)」のま行「マナ」参照が与えられたのは(出エジプト16:15)、単なる食糧問題の解決ではないし、またイエス様のパンと魚の奇跡も同様である。これらは単なるあわれみ以上に、私たち人間が神のことばによってのみ生かされていることを知るためなのである。

2023/04/16

2023年4月9日「復活の希望」(マタイの福音書28章1~10節)

​【140字ダイジェスト】

イエス様の十字架で希望が消えたと思った女たちは、墓での絶望の先に神様の与えられた「希望」を見た。その希望は「達成したい夢」ではなく、はるか昔から語られ客観的な事実として確かめられた確実な約束である。イースターにあって、イエス様の十字架による復活が私たちに得られた恵みを感謝したい。

 今日はイースター礼拝である。主の復活は歴史的出来事であり、それによって私たちは「希望」を持てることとなった。この「希望」とは「達成したい夢」ではなく、それはどのような時代にあっても廃れることのない確実な約束なのである。

 今日は第一に「深い悲しみの中でなされた神様の業」について見ていきたい。聖書には、「さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った」(マタイ28:1)と書いてある。このマグダラのマリアは悪霊に取りつかれて希望を失っていたところをイエス様に救われた人物であり(ルカ8:2)、もう一人のマリアも子どもたちがイエス様の弟子の母親であり社会的には弱い存在であった(マタイ27:56)。この社会的には虐げられてきた二人はイエス様に出会って希望を見出した。だが時間が立つにつれ状況が不利になり、そしてイエス様の十字架によって絶望へと変わってしまった。そして今、イエス様はとても動かせないような大きな石で封印された墓に入れられ→「聖書の舞台(生活・習慣)」のは行「墓と埋葬」参照、ローマ兵によって墓が監視されていた。絶望、悲しみ、あきらめしかない状況で、それでも彼女らはイエス様の遺体の手入れをしたくて墓に行った。しかし論理的には無駄でしかない行動を起こした二人を通じて、神様は絶望の先に復活の業という「希望」を表された。

 第二に「みことばの約束によるよみがえり」について見ていきたい。墓に行った二人が見たのは「すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りてきて石をわきに転がし、その上に座った」(28:3)情景であった。番兵も封印された墓もローマ帝国の強大な権力の象徴である。だが神様はやすやすとそれを打ち転がし、その上に御使いを座らせたのである。御使いは、女たちに「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです」(28:5-6)と言った。女たちは「どうしたらいいのか」「どこでイエス様に会えるのか」と思っていたが、御使いは「そのイエス様ではなく、よみがえられたイエス様にこそ希望がある」と言うのである。そのことは「前から言っておられたとおり」すでに大昔から預言者たちのことばとして旧約聖書にも記録され、そしてイエス様自身も語られていた。さらに「さあ、納められていた場所を見なさい」と客観的な事実として確認できることも示した。これほど強い証明があるだろうか。

 第三に「イエス様の復活の確信」について見ていきたい。御使いは彼女たちに「急いで行って弟子たちに」復活を伝えなさい。「私は確かにあなたがたに伝えました」(28:7)と念を押した。その時点で弟子たちは、ローマから隠れエルサレムで籠っていた。しかし御使いは、弟子たちがイエス様と親しく交わり、みことばを聞き、多くの救いがなされた「ガリラヤ」で再び会えると伝えた(28:7)。イエス様に「会う」とは、面と面とを向かい合わせることだけではなく、みことばを聞いて心が開かれることを指す。私たちは今でもイエス様に「会う」ことはできる。それは、みことばに触れて私たちの心が開かれ、私の内側にイエス様がおられるという確信を得ることである。イースターにあって、イエス様の十字架による復活の「希望」と私たちの確信が得られる恵みを感謝したい。

2023/04/09
2023/04/02

2023年4月2日「嘲しの中での救い主」(マタイの福音書27章39~54節)

【140字ダイジェスト】

イエス様のエルサレム入城を大変な熱気をもって歓迎した人々は、その数日後、イエス様を十字架につけた。そこには祭司長たちの妬み、ピラトの保身、そして自らの罪を省みることなく安易に救い主に熱狂し興味を持つ群衆の姿がある。そこに私たち自身も含めた人の罪が現れていることを忘れてはならない。

 今週からイエス様の十字架までの一週間をおぼえて過ごす受難週が始まる。四つの福音書も、イエス様のエルサレム入城から十字架までの一週間に膨大な分量を割いている。

 今日は第一に「人々に捨てられ嘲られていた救い主の姿」について見ていきたい。エルサレム入城の時、群衆は大変な熱気をもってイエス様を歓迎した(マタイ21:9-11)。だが、そのわずか数日後に人々の様子は大きく変わってしまった。祭司長や律法学者たちの妬みからくる策謀も大きかったが、そこに人の罪が現れていた。福音書は、この間の出来事を人間の憶測を排除して事実のみを淡々と記述することで、逆に人間の持つ罪を鮮やかに浮き上がらせている。イエス様の十字架は、いわば神様の「非常手段」であった。だが神様が最大の犠牲を払って人を救おうとした最高の贈り物を、人々は拒んだ。この時の神様の怒りと悲しみは如何ほどものだったか。さらにピラト→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「ピラト」参照は、イエス様に落ち度がないことを知りながら、自分の保身のために民衆にイエス様の処分の判断を丸投げした。その結果、イエス様は十字架に付けられた。聖書には多くの人々の罪深い行動が記されているが、不思議なことにピラトを除いて人々の固有名詞は出てこない。それは、これらの行動が各人物の特性ではなく、私たち人間の根本にある「頑なに神様を拒む」という罪からくるものだからである。

 第二に「神のさばきにつけられたイエス様」について見たい。私たちの罪は、神様の御前に忘れられたり消え去ることは決してない。日本では「死によって償う」とか「死んだら解脱して神や仏になる」との考え方もあるが、それは人間の勝手な思い込みに過ぎない。人間の生も死もすべて神様の御手のうちにあり、その神様が定める罪は死では解決できない。だからこそ私たちは、生きているうちにイエス様の十字架を受け入れることが、罪許される唯一の方法である。十字架の上で、イエス様は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(27:46)とアラム語で叫ばれた。この時、イエス様は私たちすべての膨大な罪に対するひとつ一つの神様の怒りのすべてを注がれていたのである。だが近くにいた人々は、イエス様の十字架の苦しみを見上げながら「この人はエリヤを呼んでいる」(27:47)と頓珍漢な受け止め方をしていたし、あろうことか「待て。エリヤが救いに来るか見てみよう」(27:49)と興味を満たすことしか考えていなかった。私たちも罪の自覚がなければ、たとえイエス様を見上げても救われることはない。

 第三に「救いの契約を貫かれたイエス様」について見てみたい。聖書は、神様が契約に基づいて救いの業をなされてきた歴史が書かれている。イエス様の十字架の出来事も神様の視点から見たら全く違った出来事であった(27:51)。元来、神殿で神様が臨在されたとされる「至聖所」は、祭司が儀式で入ることのできる「聖所」とは幕で仕切られていた。「至聖所」には、大祭司が年に一度特別な儀式のために特別な方法で入ることができるだけだった(へブル9:1-7)。イエス様が息を引き取られたとき神様が「至聖所」と「聖所」を隔てる幕を取り去ったということは、イエス様の犠牲によって私たちが完全に「聖なる民」として受け入れられたことを意味する(9:11-15)。私たちは今、神様の恵みによって特別な立場でなくても、神様の御許で親しく礼拝できる者となった。その恵みは計り知れない。

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