仙台のぞみ教会
いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中ですぐれているのは愛です。
2023年9月24日「天の御国の報酬」(マタイの福音書20章1~16節)
【140字ダイジェスト】
イエス様は、夕方一時間しか雇われなかった人々に同じ賃金を払った雇い主に、他の労働者が不満を持ったたとえ話をされた。しかし価値があるのは「私たちの労働」ではなく、本来必要のない私を召して一方的に恵みを与え、私に生きる意味を与えてくださった「神様の恵み」であることを忘れてはならない。
キリスト教信仰では「神様の方向に向かって生きる」という目的がある。17世紀に書かれた『ウエストミンスター小教理問答書』は、「人の生きる目的は何か」と問い、「神の栄光を表し、神を喜ぶこと」と答える問答から始まるで。では、その目的の先に何があるのか。
今日は、第一に「天の御国の報酬」について見ていきたい。ペテロはイエス様に「私たちはすべてを捨てて、あなたにしたがって来ました。それで、私たちは何をいただけますか」(マタイ19:27)と問うた。今日は、その答えに関わる箇所である。イエス様のたとえ話はぶどう園の労働者の話であった。「一日一デナリ」(20:2)は当時の標準的な賃金であった。仕事を見つけるために朝早くから仕事を待っていた労働者は、主人に見いだされ契約を交わした(20:1-2)。神様に見いだされることは、奴隷的な契約ではなく神様の恵みである。しかし先のペテロの問いは自分の利益しか見ていない。私たちも日常生活の中でペテロのように問うのではなく、神様に見いだき契約していただいた恵みを忘れてはならない。
第二に「それぞれが召される働きの違い」について見ていきたい。ぶどう園の主人が9時に市場に行くと、「別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た」(20:3)とある。彼らはその日の労働に与るために何かをしていたわけではない。しかし怠け者というものではなく、「雇って欲しくても雇われず、どうしようもなかった」(20:7)のである。その彼らを見出して契約したのは、ぶどう園の主人の方であった。主人はなぜ、夕方近くになってからも労働者を雇いに行ったのか。たしかにぶどう園の収穫の時期には人手が必要だが、何もできずに立ち尽くしている人びとを「ぶどう園に送る」ことが主眼ではなかったか。私たちクリスチャンは、神様に見いだされて神様のために働く存在である。しかし「天の御国が忙しすぎて、私の力が必要だったから」ではない。何もできずに立ち尽くしている私を召し、天の御国で働く幸いを与えたかったのである。そして神様の恵みは、クリスチャン歴が長かろうが短かかろうが、働きが大きかろうが小さかろうが、等しく与えられようとしている。
第三に「喜びを失望に変える比較」について見ていきたい。ぶどう園の主人は、一日の労働の終わりに労働者に報いを与えようとした。そして「最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい」(20:8)と監督に命じた。そのとき、夕方5時に来て一日分の賃金を受け取った労働者を見た他の者は期待したが、主人から支払われたのは同額であった。それまでは、今日の労働が得られた喜びにあふれて仕事をしていたはずなのに、自分一人で想像したものと比較した結果(20:10)、その一日の出来事に不満を漏らすこととなった(20:11)。しかし価値があるのは「私たちの労働」ではなく、仕事がなく立ちすくんできた私に仕事を与えてくださった「神様の恵み」である。神様は、「神様のぶどう園」で働くという、素晴らしい人生を与えてくださった。そして神様の思いは、不平を言う私たちに「友よ」(20:13)と呼びかけ、「私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです」(20:14)というものなのである。これが私たちひとり一人への神様の思いでもある。すべては神様のものであり、そこに主権がある(20:15)。しかし神様は、本来必要のない私たちを召し、働きを与え、恵みを与えようとされているのを忘れてはならない。
2023年9月17日「キリストが願うこと」(テサロニケ人への手紙第一5章16~18節)
【140字ダイジェスト】
「すべてのこと」に感謝することは難しい。それでもパウロは、いつも喜び、祈り、感謝しなさいと勧める。なぜなら自分ではわからなくても喜び、祈り、感謝することで神様との関係に気づくようになること。そして神様との関わりの下で人間関係を見直すことができれば、新しい道が開けるというのである。
先日、テレビで学校帰りの子どもが「お母さん喜んでくれるかな」と歩いている様子が放映されていた。信頼関係があるところには、相手に喜んでもらいたいとの思いがある。神様に従うということは、批判者が言う「主体性がない」とか「奴隷的だ」というものではない。
今日は、第一に「いつも喜ぶ」について見ていきたい。パウロはこの手紙の中で「喜び」ということを何度も書いている。紀元50~51年のテサロニケの街はローマの支配下の苦しみの中にあり、その状況の中で福音が語られ、人びとは喜びをもってみことばを受け入れた(Ⅰテサロニケ1:6)。パウロは、テサロニケの住民から追われ後ろ髪を引かれる思いで教会を離れた。この時点で彼は、400キロ離れたコリントの街から手紙を書いている。パウロはその後、一番弟子のテモテを遣わしてこの教会の状況を知って喜び、この手紙を書いた。一方、テサロニケの教会の人も人びとに追われたパウロを案じていたに違いない。そのパウロからの手紙には「いつも喜んでいなさい」(5:10)と書かれていた。私たちも日々の不安や悩みもあるだろうが、神様にある喜びが原点にあることを忘れてはならない。さらにパウロは、教会の秩序について語っている。「兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人たちを重んじ、その働きのゆえに、愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい。また、お互いに平和を保ちなさい」(5:12-13)と書いている。パウロはテサロニケ教会の創設者であるが、今、神様が立てている牧者を尊重して欲しいと、他の教会員と同じ立場で「お願いします」と言う。
第二に「絶えず祈りなさい」について見ていきたい。「絶えず祈りなさい」(5:17)とは、24時間祈りなさいと言うことではない。しかし、日々の生活の忙しさの中で祈りを忘れがちにはなっていないだろうか。では「祈れない」ことの第一の理由は何か。それは「祈らない」ことである。たとえ自分の祈りがたどたどしくても、貧しい祈りであっても良い。むしろ、「祈らない」ことが問題なのである。パウロは、いつも神様に感謝して祈っていた(1:2)。彼は、心配なこと、不安なこと、気遣うことがあれば、一人ひとりの顔を思い出しながら、それを祈りにしていた。「もう祈るしかないですね=あきらめるしかないですね」と、多くの人は「祈り」を間違った意味で使っている。しかしクリスチャンの祈りはそうではない。さらにパウロは、教会の中で重要視されている人びとのためにも祈り(5:14)、祈りを通して神の御前の関係を築こうとしていた。私たちも、それを忘れてはいけない。 第三に「すべてのことにおいて感謝しなさい」について見ていきたい。感謝することが大事だとわかっていても「すべてのこと」に感謝することは難しい。だがパウロは、それを充分承知の上で勧めている。困難な中にあって「とても感謝なんてできない」と思えば、自分の思いが大きくなり、その感情に閉じこもってしまう。太宰治の短編小説『駆込み訴え』は、シナゴーグに逃げ込んだユダの訴えから始まっている。自分の殻から見ると、イエス様でさえこんな風に見える。私たちはそうではなく、神様との関わりの中で人間関係を見直さなければならない。その糸口となるのが「感謝する」ということである。自分ではわからなくても喜び、祈り、感謝することで、神様との関係に気づき、新しい道が開けるのである。
2023年9月10日「針の穴を通るらくだ」(マタイの福音書19章23~30節)
【140字ダイジェスト】
財産は神様の祝福の結果だと思っていた弟子たちにとって、「金持ちが神に入ることは難しい」ということばは衝撃であった。だが、それは「富を不要だ」と言っているのではなく、自分勝手な価値観をリセットして神様に従う、そんな神の国の大きな恵みの中に招こうとしているイエス様のことばなのである。
福音書に記されているイエス様の教えは、当時の人が漠然と考えていた神の国とは大きく異なり人々に戸惑いを与えた。先週見た金持ちの青年のように、純粋に神の国を求めながら従来の生き方を捨てられなかった人も多かった。
今日は、第一に「らくだが針の穴を通るような救いの難しさ」について見ていきたい。イエス様は金持ちの青年が立ち去った後、弟子たちに「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が易しいのです」(マタイ19:24)と述べられた。らくだは馬に比べて狭いところを通ることができたが、さすがに「針の穴」は不可能に見える。当時の「金持ち」は、ローマ帝国に寄り添って蓄財をしている者も多かったが、この金持ちの青年は律法に従って生きようとしてきた。当時のイスラエルの人びとからすれば、金持ちは「神の祝福の結果」であり、弟子たちもイエス様に従っていけば「イスラエルの革命」後は地位や財産を得られると思っていた。だから弟子たちはこのことばにショックをうけ、「それでは、だれが救われることができるでしょう」(19:25)と尋ねた。こんな弟子たちに、イエス様は「じっと見つめて言われ」、「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます」(19:26)と、弟子たちへの愛を持った語りかけをされた。イエス様は富だけでなく人間中心の価値観は、どんどん肥大化していく。そして、その分だけ神様の支配される領域が減じていく。残念ながら届かなかったが、前回、イエス様は青年に富や自分の価値観を一度リセットして、神様を受け入れなさいと神の国に招かれたのであった。弟子たちは「人には不可能だ」と思ったが、イエス様は「神にはできる」と招いておられる、そして自分を縛っている様々な価値観から脱して神様にある新しい生き方を選ぶように勧めておられる。
第二に「主に従いゆくものへの報い」について見ていきたい。イエス様のことばは、「イスラエルの革命」後は地位や財産を得られると思っていた弟子たちにとってイエス様に従う目標を失ったに等しい。そこでペテロは、すべてを捨てた「私たちは何をいただけるでしょうか」(19:27)と尋ねた。実は私(牧師)は、教会で「報い」という言葉を聞くのに違和感があった。なぜなら教会は「愛」を標榜しながら、結局は自己中心的な「報い」を求めているのではないかと誤解していた。しかし「報い」とは自分の欲望の欲するものを求めるのではなく、自分を捨てて神様が一方的に与える多くの「恵み」の中に生きる生活を送るということである。後に使徒パウロは、神様に従って生きる生き方を知ると自分が大事だと思っていたものが「ちりあくた」でしかなく、そうしたものに縛られていたこれまでの人生の時間すべてが「損と思っている」と言った(ピリピ3:8)。後のパウロに比べると、この時点のペテロの信仰は未熟に見える。だが、そんなペテロをイエス様は批判するのではなく、「人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます」(19:28)と言われた。だが、この時点の弟子たちには、ほとんど理解できなかったであろう。しかし歴史を通して、その神様の約束は明らかにされている。そして、これは弟子たちだけでなく、イエス様を信じたすべての者に約束されている(19:29)。そういう生き方に、私たちは招かれている。
2023年9月3日「永遠のいのちへの渇き」(マタイの福音書19章16~22節)
【140字ダイジェスト】
永遠のいのちを得るために何が足りないかと尋ねに来た金持ちの青年は、イエス様に「全財産を売り払ってついて来なさい」と言われすごすごと帰って行った。このことばは、幼いころから律法を守ってきたと自負していた青年の欠けに気づかせ、神様に拠り頼む新しい関係を築く生き方に招いたものであった。
行き先を調べず場当たり的に旅行に行くと失敗するように、人生においても意味や目的を定めて生きることが重要である。聖書では「永遠のいのち得る」ことを語っているが、これは「不老不死」と言う意味ではなく、神様のいのちのうちに生きることである。
今日は第一に「自分の義を前提とした求めの限界」について見ていきたい。このとき、ある青年が「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19:16)と尋ねてきた。この人は若さも財産(19:22)も社会的な地位(ルカ18:18)も持っていながらそれに驕らず律法に従って生きてきたが、それでもなお自分には神の前で何か欠けていることを感じていた。彼は、イエス様に「良い先生」(マルコ10:17)と呼び掛けて「良いこと」(マタイ19:16)について訪ねてきた。だが、これらの言葉には彼自身が「良い」と認めることを、自分が評価していることに気づいていない。そこには神様の視点や神様との関係について思いを馳せることなく、何か「資格試験」のように考えている姿勢が見え隠れする。そこには神様に対する信頼や信仰はない。
第二に「人の欠けを明らかにするみことば」について見ていきたい。彼は自分がやってきたことは正しいが何か不足があり、それを補えばいいと考えていた。おそらく青年は「戒めを守る」ことについて99%は守れており、残りの1%が分かれば「完全」になると考えていた。だからイエス様に「戒めを守りなさい」(19:17)と問われたとき「どの戒めですか」(19:18)と質問した。そこでイエス様は、十戒の後半にある人間関係についての戒めだけを話され(→「旧約聖書を読んでみよう」の「モーセの十戒」参照)、本当に実践しているか問われた。だが「イエス様なら何か素晴らしい指摘をしてくださる」と期待していた青年は、ありきたりの答えしか返ってこなかったことに対し「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか」(19:20)と答えた。たしかに青年は幼いころから律法を守る生活をしてきたのだろうが、律法は神の御国に入るための「条件」ではないし、自分を「完璧に律法を守っている」「律法を守るから罪人ではない」と考えること自体、聖書の意図や律法の精神に反している(ガラテヤ2:16)。律法は私たちの罪をあぶりだし悔い改め、それによって神様に拠り頼む新しい関係を築くためにある。だが、この青年は律法を守ろうとしている自分を義とする生き方を手放せなかった。
第三に「完全さを目指す信仰」について見ていきたい。この青年にとって戒めは、自分の義を示すツールでしかなかった。そんな彼の根本的なズレについて、イエス様は「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい」(19:21)と述べられた。何も、キリスト教がこういう生き方をマストとしているのではない。「自ら積み上げてきた生き方を基盤に、律法によって自分の義を自認しようとしている青年」に対し、イエス様は律法によって青年の偽善を浮かび上がらせ、自分の考えを覆して神様を信頼できるのかと問われたのであう。イエス様のことばは、律法をすべて守っていると言いながら、貪りによって隣人愛も示せない青年の姿が浮かび上がらせた。この青年は去って行ったが、自分の生き方が打ち砕かれるところから、神様との新しい関係が築けるのである。
2023年8月27日「子どもを呼ばれる主」(マタイの福音書19章13~15節)
【140字ダイジェスト】
すべてを捨てイエス様に従ってきた弟子たちでも、律法を守っていると自負しているパリサイ人でもなく、イエス様は幼子たちこそが天の御国の住民だと祝福した。だが天の御国に入るのは神様側の召しであり、私が小さくて不完全な者でもその「存在」を喜びイエス様は祝福される。それが神様の御心である。
夏休みが終わって、町に子どもたちが返ってきた。今は社会情勢上学校の前でトラクトを配布することは難しくなったが、子どもたちにみことばを語っていきたい。今日は、子どもの召しに関してイエス様が語ったことについての箇所である。
第一に「子どもたちの接触を叱った弟子たち」について見ていきたい。その直前にパリサイ派(→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「パリサイ派(パリサイ人)」参照)の人びととイエス様の論戦があってとげとげした雰囲気の中へ、親たちが幼い子どもたちを連れ祝福を求めにやってきた(マタイ19:13)。弟子たちにとっては律法の論争をしている自分たちの行動は「高級」であり、その場に来た親子のたちの行動は「場違い」に見えた。弟子たちは、自分の論理が先走って本当に大事なことを見落としてしまった。私たちもそんなことがあるのではないか。
第二に「子どもたちを呼び寄せたイエス様の姿」について見ていきたい。そんな弟子たちに、イエス様は「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです」(19:14)と言われた。たしかに弟子たちはイエス様を気遣って「邪魔」をする親たちを叱った(19:13)。弟子たちからすると、当然、幼子は聞くこともなく邪魔でしかなかったであろう。当時の考え方は、大人とちがって子どもとは「不完全な人間」「律法も理解できない人間」でしかなかった。だがイエス様は、幼子を連れてきた親にではなく「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません」(19:14)と言われた。過度な律法主義に陥っていた当時のユダヤ人の子ども解釈とは異なり、聖書や神様自体は決して子どもをないがしろにしていたわけではない。実際、イスラエルが霊的に堕落していった時代に、まだ幼かった預言者サムエルが神様に直接呼ばわれ(Ⅰサムエル3:4)、イスラエルの霊的復興の召しを受けた(3:19-20)。私たちは、その人の経験や能力しか見られない。しかし神様の視点に立つと、子どもたちの能力だけでなく、そこに働く神様のわざがあることを忘れてはならない(マタイ19:14)。
第三に「御国を受け継ぐ子どもたち」について見ていきたい。イエス様は「天の御国はこのような者たちのものなのです」(19:14)と述べられた。この「天の御国」というのは、旧約聖書から預言されている「御国」であるが、ユダヤ人や弟子たちの関心は「誰が天の御国の住人として認められるか」「どうやったらそこの住人になることができるか」であった。すべてを捨ててイエス様に従ってきた弟子たちは「当然、私たちは天の御国の住人となり、そこでどれだけの地位につけるか」と考えていた(18:1)。だが、イエス様のことばは「この子どもたちが将来、天の御国の住民となるかもしれない」ではない。イエス様の従っている弟子たちでもなくも、律法を守っていると考えているパリサイ人でもなく、「律法も守ることのできない幼い子どもたち」が「すでに天の御国の住民」であるという。弟子たちにとってはショックだっただろう。だが天の御国の住民となるのは神様側の召しであり、小さくて不完全な「子どもたちの存在」を喜びイエス様は祝福されたのである(19:15)。イエス様は人間の経験や能力ではなく、不完全な私たちの存在そのものを喜び信仰の成長を期待されている。私たちは、そこに神様の御心が示されていることを受け止めていかねばならない。
2023年8月20日「創造における性の役割」(マタイの福音書19章1~13節)
【140字ダイジェスト】
イエス様に論争を吹きかけてきたパリサイ人は、結婚や離婚を律法における手続き論として捉えた。これに対してイエス様は、神様が両性をどのようなものとして創造され結び合わされたかという本質論で説明された。結婚も離婚も人間の思惑ではなく、神様が私に求められた関係性として向き合うべきである。
今年はコロナも収まり「結婚ブーム」となったが、同時に離婚も増えている社会問題となっている。今朝の箇所は、イエス様がパリサイ人たちに対して離婚について話された個所である。この問題はパリサイ人(→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「パリサイ派(パリサイ人)」参照)を含めたユダヤ人の間でも、律法(→「聖書の舞台(生活・習慣)」のら・や・わ行「律法」参照)の解釈が分かれていた。
今日は第一に「創造の秩序においての結婚」に注目したい。パリサイ人たちは「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか」(マタイ19:3)とイエス様に問われた。そもそも申命記(申命記24:1-4)は、離婚のための手続きを定めることが本質ではない(24:4)。このように律法の細かな解釈にこだわる彼らに対し、イエス様は神様の創造のわざそのものから説明された(マタイ19:4-5)。そのそも「創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』」(19:4)たため男女は本質的に違うが、それが一体として支えあうものとして神様が創られた(19:5)。夫婦の一体性は神様が創られたものであり、親子の関係よりも勝るものである(19:6)。この神様が創られた関係性を人が引き離してはならない(19:6)。その本質をパリサイ人たちは「離婚の手続き」と矮小化して議論していた。
第二に「人の心のかたくなさに対応する神様の働き」に注目したい。創造の本質を話されたイエス様に対して、パリサイ人たちは「それでは、なぜモーセは離縁状を渡して妻を離縁せよと命じたのですか」(24:7)と、申命記に書かれた条項(申命記24:1-4)の権威を振りかざして反論した。当時のパリサイ人たちは、申命記の「妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり」(申命記24:1)の解釈について、大きく二つに分かれていた。ひとつは姦淫などの律法上の大きな罪のことを意味するという解釈と、もうひとつは「妻を気に入らなくなった」というだけが離婚の理由とできるという解釈である。しかしパリサイ人たちは、どちらにせよ「律法の手続きに則って離縁状を渡せばよい」と考えていた。その証拠に、ヘロデ王が妻を離縁して兄弟の妻を娶ったとき、それを糾弾していない(マルコ6:17-18)。一方、イエス様は、人びとの頑なさに緊急避難的に離縁状を認めただけで、「はじめの時からそうだったのではありません。あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです」(マタイ19:8-9)と離婚の本質をズバリと指摘した。結局、本質を見落としたパリサイ人たちの議論は、自分たちの論理にはまって身動きできない状態だったとわかる。
第三に「主の召しである結婚と独身」について見ていきたい。このイエス様の議論を聞いた弟子たちは、妻が気に入らなくても離婚ができず、それを強行することが姦淫の罪になるとは、あまりに結婚のハードルが高いと考え「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しない方がましです」(19:10)と言った。あまりに男尊女卑的な自分勝手な考えである。どんな異常な状況であっても「クリスチャンは離婚できない」と言うわけではない。しかし、どのような場合でも人間的な思いを優先させて関係を断つのではなく、神様の御心を求める姿勢を忘れてはならない。独身でいることも、「人から独身者にさせられた」(19:12)場合も、そこに神様がどう働いているかを考え求めることが必要である。そして、その状況を受け入れられることが求められているか(19:12)、祈りつつ備えるべきである。
2023年8月13日「心からの赦し」(マタイの福音書18章21~節)
【140字ダイジェスト】
クリスチャンは自分で返済できない罪の負債を、神様の一方的な恵みによって赦していただいた罪人である。だから私たちも信仰者の交わりにおいてこの愛に生き罪のお互いに赦しあう。イエス様の十字架は神様の慈しみによる心からの赦しであり、それを実践することで赦されている自分の存在も理解できる。
多くの人は赦しには限界があると考える。ペテロは、主イエスに「7回までですか」という問うた。そこにには、赦し続けることへの不安が先行している。それに対し主イエスは、赦しを数えることの無意味さを指摘された。『わたしは7回までとは言いません。7回を70倍するまでです。』
その赦しを教えるため、主イエスは天の御国のたとえを語られた。譬えによると、家来たちは、みんなそれぞれに不正の富を蓄えていた。その中で一番私腹を肥やしたのが1万タラントの借りのある者である。その家来に王は返済を迫った。
私たちは、それぞれに神の前に罪という負債を負っている者である。その清算のときがあり、そこでは返済が迫られる。
「彼は返済することができなかったので、その主君は彼に自分自身も妻子も、もっているものも全てを売って返済するように命じた。」
家族皆が奴隷に売り渡されるということある。それで家来はひれ伏して主君を拝し、「もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします」と言った
そんな悲惨な状態の家来に転機となったのが、王の憐みであった。27節
「家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。」
主イエスの十字架による罪の赦しがここに示されている。主イエスは神の愛によって私たちの罪をすべて聖めてくださった。
強調されなければならないのは、赦しの根拠は神の憐みにあるということである。決して人の側から用意されたものではない。
この家来は、その喜びに満たされたのもつかの間、自分の兄弟の中では態度を一変させてしまう。それは彼から100デナリを借りた仲間に会ったときであった。28節
「ところが、その家来が出ていくと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人をつかまえて首を絞め、「借金を返せ」と言った。」
借金を返せと強く迫ったことは彼の当然の権利とも言える。けれども王から受けた憐みを実践する感覚がなかった。王によって救われた者であるのに、自分の仲間の中でその憐みを生かすことができないということ。そして自分の権利だけを主張している。この家来は仲間の人を牢に閉じ込めた。そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえがわたしに懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか』
兄弟の間で罪を赦すというのは、商売上の取引きではない。条件下で赦しを設定をしていたら、赦しはどこまで行っても成立することはないであろう。
主の祈りでは、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しました」とある。6:12
赦しを兄弟という信仰者の交わりの中で生かされなければならない。それを実践していくときに、私たちは自分が神からの赦しが如何に大きなものかを知る。
2023年8月6日「主の名による集まり」(マタイの福音書18章15~20節)
【140字ダイジェスト】
罪の問題が入ると教会の交わりを破壊してしまうためできるだけ早く取り除く必要があるとイエス様は言う。加害者が罪を自覚するのは難しいし、被害者にしても罪を指摘することは勇気がいる。だが罪の問題に向かい合い心を一致して神様に祈ることで神様の働きを実感し、成長した交わりを得る喜びもある。
ともに礼拝をささげる集まりの、今、この瞬間に神様はおられる。困難な場合があるのは神様が不在だからではない。むしろ、その中に神様が働いておられることを実感したい。
今日は、第一に「兄弟の中における罪の問題」について見ていきたい。罪の問題が信仰の交わりを破壊してしまう。だから、その罪の問題をできるだけ早く取り除く必要がある。イエス様がここで取り上げられたのは、客観的に見て明らかに罪と分かる問題である。ダビデは部下の妻に横恋慕し、部下を最前線にわざと立たせて死なせ(Ⅱサムエル11:2-17)、そのことをごまかした(11:25)。その結果、ダビデの罪が国家を揺るがして神様はダビデの王国を滅びにいたらせた(12:10-13)。人間の集まりである教会も罪が入り込むことは避けられない。だからこそイエス様は、それをできるだけ早く取り除くように言われた。しかし加害者が罪を自覚するのは難しい。被害者にしても相手の罪を指摘することは勇気がいる。だからイエス様は相手の罪を裁くのではなく、まず「行って二人だけのところで指摘しなさい」(マタイ18:15)と述べている。クリスチャンは罪を許された存在だが、罪がないようにふるまうのではない。私たちは自分自身で罪を完全に贖うことはできないが、神様の前に加害者が罪を自覚するそのお手伝いを兄弟姉妹ができるという。その行為は、お互いの拒絶や恐れに陥るのではなく「その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります」(18:15)という新たな交わりの喜びがあるとイエス様は言う。
第二に「罪の指摘を受けながら受け入れない場合」について見ていきたい。イエス様は「もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」(18:16)と言われる。一対一で相手の罪を指摘する場合、私たちはしばしば感情的な裁きの姿勢に陥りがちである。しかし、それではその人に罪を自覚してもらうのは難しい。その場合、証人を立てて客観性を持って指摘し、自覚してもらうしかない(18:16)。それでもダメなら「教会に伝え」(18:17)、一定の戒めが行われる。しかし、このような戒規は懲罰や分離のためにあるわけではない。教会の戒規は、その人が罪を自覚し立ち直る(回復)を待ち望んだ処置なのである。これは世の刑罰とは異なり「一定の期間が過ぎればよい」というのではなく、その期間の中で行われる回復のプロセスを重視している。しかし、その重要な回復自体を拒絶するなら「彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」(18:17)とイエス様は言われる。
第三に「心を一つにすることの大切さ」について見ていきたい。私たち教会の紙の家族としての交わりは地上のことではあるが、それは同時に「何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ」(18:18)とイエス様は言われる。その一方で、地上で神様の恵みや交わりを自分から拒絶し「解く」ならば「天でも解かれます」と言う(18:18)。だからこそ教会は、それぞれ異なる人々が「どんなことでも地上で心を一つにして祈る」(18:19)なら、そこに神様は確実におられる(18:19-20)。そして、その交わりと祈りを神様が喜び、ともに神様がおられることが「天におられるわたしの父はそれをかなえて」(18:19)くださることで、実感として神様の働きを確認できる。私たち教会は、心の一致を阻害する交わりの中の罪を取り除き神様に祈ることで、そのことを経験していくことが大切なのである。
2023年7月30日「つまずきを取り去る熱意」(マタイの福音書18章8~14節)
【140字ダイジェスト】
イエス様は「あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい」と言われたが、本当に肉体を傷つけよと勧められたわけではない。つまずきを過小評価し「大した問題ではない」「みんな同じようなものだ」と軽く扱わず、罪の原因に対し真剣に取り組まなければならないというのである。
高齢者施設ではつまずきに注意している。つまずくことによって健康な生活が一転してしまうからである。信仰生活の「つまずき」も同様である。前回、イエス様は子どもようにならなければ天の御国には入れないと述べた。今日の箇所は、その続きである。
今日は、第一に「小さい存在を軽んじることの問題」について見ていきたい。イエス様は「わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうががよいのです」(マタイ18:6)と述べた。ギリシア語の「つまずき」は「罠の餌をつける棒(σκανδαλιοv):スキャンダルの語源」という意味があり、生活の中の目に見えない小さな「罠」と考えればよい。特に小さい者を軽んじて信仰上つまずかせることは、世の法律では裁きの対象にならないことも多いが、イエス様は「石臼を括りつけられて海に沈められるよりひどい罰を受けるほどだ」と表現された。つまずかせた者は「つまずいた者が悪いのだ」と自己弁護しがちだが、イエス様は「つまずきをもたらす者はわざわいです」(18:7)とまで述べた。他人をつまずかせることは軽いことに見えるが、それによってつまずいた人は信仰の道を大いにはずれ永遠の滅びにいたる。
第二に「つまずきの対象をとして示されたもの」について見ていきたい。イエス様は「あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい」(18:8)、「もしあなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい」(18:9)とまで言っている。だが、イエス様は本当に肉体を傷つけようと勧められたわけではない。私たちはつまずきの根本原因に対して過小評価し「大した問題ではない」「みんな同じようなものだ」と軽く扱いがちである。しかしイエス様は、そのような罪の原因を軽くとらえず、それに向かい合って取り去ろうと真剣に取り組まなければならないというのである。宗教改革を行ったカルバンは、信仰の五基準を示した。その頭文字をとってTULIP(全的堕落:Total Depravity、無条件的選び:Unconditional Election、限定的贖罪:Limited Atonement、不可抗的恩寵:Irresistible Grace、聖徒の堅忍:Perseverance of the Saints)と表現されているが、そのトップに来るのは私たちの「全的堕落」をあげている。私たちは「私はそんなひどい人間でない」と自己弁護しがちであるが、「私は神の前にどうしようもない存在である(全的堕落)」ことを、まず認めることから本当の信仰が始まる。
第三に「小さい者をつまずきから救う神様の御業」について見ていきたい。イエス様は「あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか」(18:20)と述べた。羊飼いの喜びを強調したルカの福音書(ルカ15:6)と異なり、マタイの福音書は「九十九匹に対して小さい一匹の価値」に焦点を当てている。イエス様は、理屈からすれば九十九匹は大事であるが「一匹を捜しに行く人の気持ちもわかるでしょう」と言うのである。私たちは小さなことは無視して閉じ込めてしまう。しかし神様は、このような小ささの中に働いてくださる方だというのである。それは私たちのような小さな罪人を捜し出し、救いに導いて下さった神様の姿でもある。だからこそ私たちも小さなつまずきに真剣に向き合いたい。
2023年7月23日「真ん中に立つべき人」(マタイの福音書18章1~7節)
【140字ダイジェスト】
天の御国を世の価値観から捉え「誰が偉いか」と話していた弟子たちに、イエス様は子どもを呼び寄せて彼らを諭した。この子が特別だったわけではなく、自分の経験や価値観で凝り固まっている大人たちに、「未経験な子どものように素直に」神の御言葉を受け入れる、従順さやへりくだりが必要だと示した。
7月30日は、仙台市議会選挙の日である。選挙の得票数は当落だけでなく、議場での席順を決める根拠となり議員の格につながる。多くの人は集団の中で自分がどの位置にいるのかを気にする。では神の国の中で一番偉いのはだれなのか。
今日は第一に「弟子たちが問いかけた点の御国での偉さ」について見ていきたい。聖書には「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか」(マタイ18:1)という議論が起こった。自分の生活を捨ててイエス様に付き従い神の国で一定の地位や報いを受けたいと思っていた弟子たちにとっては、この問題は常々の関心事であった(マルコ9:34)。ここで「偉い」とは、一般には「権力構造の中の順序」を言う。つまり弟子たちの発想には、天の御国もこの世の権力構造と同様に力による支配があるとの前提がある。しかしイエス様は、圧倒的な力によって支配しているわけではない。イエス様は、世の権力者のように集団の中で特別な待遇を受けようと弟子たちから搾取していたのではなく、へりくだり弟子たちと同じものを着たり食べたりしていた。一方弟子たちは、世の価値観の中に留まっていたため、イエス様の十字架の後に一時的に進行が揺らいでしまった。私たちも、世の価値観ではなく天の御国の価値観で行動したい。
第二に「呼び寄せられた神の民」について見ていきたい。そんな弟子たちに、イエス様は「一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて」「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません」(マタイ18:3)と言われた。弟子たちにとっては、自分たちが天の御国に入れないということは考えてもいなかった。しかし実際は、神の民とは「神様に呼び寄せられる」ことが前提である。このときイエス様が呼び寄せて「真ん中に立たせた」のは、当時の一般的な考え方として社会的に一人前の人間とは扱われなかった「子ども」であった。イエス様を中心とした集団の中での「自己実現」を考えていた弟子たちに対して、イエス様は、神様の方向に向きを変えなければ「決して天の御国に入れません」(マタイ18:3)と言うのである。もちろん、この子どもの信仰が特別だったわけではない。イエス様は、自分の経験や価値観で凝り固まっている大人たちに、自分の意思を働かせて「未経験な子どものように素直に」神の御言葉を受け入れる、その従順さやへりくだりが必要だというのである。
第三に「子どものうちにおられるキリスト」について見ていきたい。イエス様は、これらのことを通して、弟子たちの考える「偉さ」を否定した。そして「だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです」(18:4)と、逆説的におっしゃった。ここで誤解すべきでないのは「何もできないこと」「何も知らないこと」が偉いのではない。このへりくだりとは、処世術としての「へりくだり」とは似て非なるものである。求められているのは、へりくだりの中で神様の御言葉を受け入れ、自我を神様に明け渡し自分を通して神様の御心を実現させることである。このとき呼び寄せられた子どもは、弱く未熟な存在であったが、そこにイエス様が働いていた。私たち自身も弱く未熟な存在であるが、互いにそれを受け入れることはイエス様を受け入れることなのである(18:5)。
2023年7月16日「人々のための証し」(マタイの福音書17章24~27節)
【140字ダイジェスト】
私たちクリスチャンは社会の中で常に信仰の証しが求められている。だが福音を伝える際に未信者の立場に立った見方も理解する必要がある。自分たちの論理がどれほど正しくても、直ちに相手に理解されない場合、自分たちの信仰を曲げることなく知恵によって相手に納得していただくこと解決が求められる。
仙台市内にキリシタン殉教碑があるが、先人は弾圧の中で福音を証し続け殉教した。明治期になって禁教が解かれた後も、私たちは社会との接点において常に証しが求められている。社会の中で福音を伝えるには、未信者の立場に立った見方も理解する必要がある。
今日は第一に「神殿礼拝とイエス様との関係」について見ていきたい。イエス様一行がカペナウムに着いたとき、「あなたがたの先生は神殿税を納めないのですか」(マタイ17:24)と問われた。イエス様の評判が広がるにつけ、「あの人たちは神殿税も納めていないのに」という批判も広がっていた。神殿税は神殿の維持管理費ではなく、神様から命じられた義務であり(出エジプト30:12-13)、それを払わないことは神様に従わない人々であるとされていた。そもそも神殿は天の神様が地上に来られる「幕屋」であり、ご自分を低くされて人間の間に臨在する場所であったが、イエス様が人となり来られ新たな時代の「神殿」となった。
神殿税を集めていた人は、それを理解できずに忠実に神殿に使えていたことになる。
このような状況ではあるが、イエス様は神様のことばを守ろうと神殿税を集めている人々を頭から否定しようとはされなかった。一方、ペテロの「納めます」(マタイ17:25)は、人々の批判に対する単なる取り繕いでしかなかった。そこでイエス様は「あなたはどう思いますか。地上の王たちはだれから税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからですか。それとも、ほかの人たちからですか」(17:25)とペテロに問いかけている。天の王である神様がクリスチャンを天の御国の子どもたちとされた新約の時代、「感謝」としての父への奉げものはあっても「義務」としての税は必要ない(17:25)。単に「求められたお金を支払うか否か」という問題ではなく、そこには新約の時代の救いにつながる大きな意味が含まれていた。しかし神殿税を集める人を否定して払わなければ、その人たちの信仰を否定することになる。自分たちの論理がどれほど正しくても、直ちに相手に理解されない場合、自分たちの信仰を曲げることなく知恵によって相手に納得していただくこと解決が求められる。
その解決策としてイエス様は、ペテロに「湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」(17:27)と、一定の労働を命じてその中から神様へ喜んで納めるように命じられた。神様は、私たちが本当に必要とされることを見ておられ、どのようにしてその必要を満たしていくかを示される。私(牧師)の知り合いで社会人をやめて神学校に通っていた人がいた。経済的に非常に困窮して卒業時に必要なお金を金策したとき7,000円足りなかったとき、祈っていたら偶然6,700円の払い戻しがあった。さらに部屋を探したら300円が見つかった。本当に神様は、私たちの必要をぎりぎり満たして働いてくれたのだと驚いたことがあった。ペテロも「納めます」と言ったときに財布の中にお金があり、そこから払っていたら神様が、なぜイエス様を地上に送られたかに考えを至らせなかったことだろう。しかしイエス様に問われ、道を示され、そのとおりに行動することで必要を満たされた。そのことで、より一層神様を理解し信頼するきっかけができた。私たちも神様に信頼し、その導きに応えようではないか。
2023年7月9日「愛が生み出す祈り」(テサロニケ人への手紙第一3章10~13節)
【140字ダイジェスト】
ギリシア語で愛は、「アガペー」(神の愛)、「エロース」(男女の愛)、「フィリア」(兄弟愛)に分けられている。私たち自身の愛は短期間に枯れてしまうが、神様からの愛は私たちの中にあふれ出し、尽きることなく私たちを成長させてくださる。その愛は、お互いを思い祈りあう祈りの中に現れてくる。
「互いに愛しなさい」という聖書のことばは、聖書が分からないと変に聞こえる。ギリシア語では、「アガペー」(神の愛)、「エロース」(男女の愛)、「フィリア」(兄弟愛)と愛を呼び分けており、聖書の言う「アガペー」の愛は神様からの尽きることのない愛である(→「新約聖書を読んでみよう」の「アガペー」参照)。
今日は、第一に「祈りにおける交わり」について見ていきたい。パウロは、できたばかりのテサロニケの教会の手紙の中で「私たちは、あなたがたの顔を見て、あなたがたの信仰で不足しているものを補うことができるようにと、夜昼、熱心に祈っています」(Ⅰテサロニケ3:10)と書いている。パウロは、テサロニケ滞在中に町の人からひどい迫害を受けた。しかしパウロは、「どれほどの感謝を神におささげできるでしょうか」(3:9)と書き、喜びをもって祈りをささげている。そして、もう一度テサロニケを訪問したいと書いている(3:11)。実はパウロが手紙を書いているのはコリントで、テサロニケまで400キロはある。もちろん当時は徒歩の旅である。その困難を超えて再訪したい思いは、どんな犠牲を払ってもテサロニケの教会の人たちと顔を合わせ、信仰のために何が必要かを知り(3:10)、自分に何かできることをしてあげたいという愛から出る思いである。そこに、私たちはキリストの愛にある教会の人々の交わりが見えてくる。
第二に「祈りがはぐくむ愛」について見ていきたい。パウロは続けて「私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いに対する愛を、またすべての人に対する愛を、主が豊かにし、あふれさせてくださいますように」(3:12)と書いている。実は13節はイエス様が再臨する遠い未来について語っているが、この12節は現在から遠い未来までの続く愛の話をしている。私たちは「愛」というと一時的な感情や短い期間だけ燃え上がる愛を想像する。しかし、ここで書かれた愛は、神様から湧き出で私たちの心にとどまる「アガペー」の愛である。パウロは、もともとはユダヤ教のエリートで他人に対して厳しく、自分こそが正しいとしてキリスト教徒を迫害してきた冷酷な人物であった。ある時にキリスト教徒を一網打尽にして牢に入れようとダマスコの街に行く途中で復活のイエス様に出会い、罪ある自分の本当の姿に直面させられた。そして、「十字架につけられて死んだイエスが救世主なんてありえない」とは軽蔑していたイエス様の死が、実は自分の罪の贖いのためにあった。神様はこんなどうしようもない自分でも受け入れ、愛してくださったことに気づかされた。このような気づきは、ひとりパウロだけでなく、ここに集うクリスチャンすべてに言える。教会に外から見ると、クリスチャンとは「自分たちが清廉潔白であると思っている、いけ好かない集団」と感じている人もあろう。しかし、そうではない。クリスチャンは、自分でも受け入れられられないような「どうしようもない自分」に直面させられ、それをイエス様の十字架によって贖われ、神様に受け入れられ愛されたことを知っている集団である。だからパウロは「私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いに対する愛を、またすべての人に対する愛を、主が豊かにし、あふれさせてくださいますように」(3:12)と述べている。私たち自身の愛は短期間に枯れてしまうものであるが、神様からの愛は私たちの中であふれて私たちを成長させてくださる。その愛は、祈りの中に現れてくるものである。
2023年7月2日「不信仰な曲がった時代」(マタイの福音書17章14~20節)
【140字ダイジェスト】
「イエス様を信じている」と言いながら、私たちは世の価値観に流され逃げ道や言い訳を探しながら信仰を続けていないか。イエス様の言う「からし種ほどの信仰」も、それを植えて育てなければ大きくはならない。だが神様ときちんと向かいみことばを意識化すれば、神様からの大きな恵みが用意されている。
サングラスの色は、慣れてくるとその色を感じられなくなる。信仰も同じで、不信仰な時代の考え方や価値観に慣れると感じられなくなり、無意識に神様のことばも曲がって捉えられてしまうこともある。そんな不信仰な時代の中で、取り戻す信仰の話である。
第一に「信仰において無気力を感じる」ことについて見ていきたい。クリスチャンの生活の中で、しばしば信仰の無力を感じることがある。ここで群衆の一人がイエス様に「息子をあなたのお弟子たちのところに連れてきたのですが、治すことができませんでした」(マタイ17:16)と訴えた。てんかんは突然発症する病気で、倒れる場所によっては非常に危険でもある(17:15)。その家族が最後の望みとしてイエス様の所に来た時、イエス様は山上にいて不在だったので弟子たちに頼んだが、弟子たちは治すことができなかった。しかし癒しを求めてやってきた家族も、それを治そうとした弟子たちも、周りにいた群衆も、罪の自覚と悔い改めという信仰に結び付いたものがあっただろうか。それは私たちにも言える。
第二に「不信仰を正される主」について見ていきたい。たしかに、この家族がイエス様に縋り付きたかった熱心さは分かる。しかし、そこに信仰はあったのか。別の箇所では、イエス様に対して、父親は「おできになるのなら」(マルコ9:22)と半信半疑な様子がうかがえる。これに対して、イエス様は父親にも弟子たちにも、そして群衆にも「ああ、不信仰な曲がった時代だ」(マタイ17:17)と言っている。私たちが中途半端な気持ちで神様に関わろうとしていることが、神様の愛といつくしみに対してどれほど失礼な態度だろうか。人の思いが先行して勝手に状況を作り上げてあきらめるならば、神様に反抗している人と何ら変わらない。イエス様からすると「いつまであなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか」(17:17)という気持ちも理解できよう。しかし、イエス様はそこで関係を切らず、父親に「その子をわたしのところに連れて来なさい」(17:17)とおっしゃられその子を癒された。私たちも「イエス様を信じる」と言いながら、「おできになるのなら」といつも逃げ道や言い訳を用意してはいないか。そうではなくイエス様の呼びかけに応答した父親のように、信仰の決断をすることが重要である。
第三に「信仰の転換としてのからし種ほどの信仰」について見ていきたい。弟子たちは、なぜ自分たちがいけなかったのかいろいろ考えたことだろう。しかしイエス様は「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません」(17:20)とおっしゃられた。人間的にはできない理由はいろいろ考えられよう。しかしイエス様は、そうではなく信仰の問題だと述べている。「からし種のような信仰」は「あればいい」というのではない。それが土に落ち成長するように、自分たちの中に神様のことばや関係を定着させ、育てていかなければならない。どんな小さなことでも神様のことばがきちんと意識化されなければ、他の価値観に支配されてしまう。だがキチンと神様との関係が定着すれば、神様はどれほど大きなことをなしてくださるのか。私たちは不信仰な時代の価値観に流されず、神様と誠実に向き合っていく信仰が求められている。