仙台のぞみ教会
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2024年4月~2024年6月
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2024年6月30日「キリストの宣言」(マタイの福音書27章1~10節)
今週の水曜日から新札が発行される。新札発行は偽札を防止するために、定期的に最新の技術で新しくされる。偽札の咲く作成や使用は重罪である。偽札に関わらずお金で失敗する人は、いつの時代も多い。今日の箇所は、イエス様を密告してお金を得たが、悲惨な結末に至ったユダの話である。
今日は、第一に「ユダの裏切り」について見ていきたい。真夜中にイエス様を捕えて裁判を行った最長や長老たちは、最初からイエス様を死刑にすることに定められた裁判を行った。その裁判は、ユダヤの最高権威である最高法院が「イエスを死刑にするため」(マタイ27:1)に協議し、誰もそれに異議をはさまない異常な裁判だった。さらに当時はローマの支配下にあったので、最高法院の結論である死刑を認めてもらうためにローマの総督に身柄を移した(27:2)。ところで、イエス様を祭司長たちにわずかなお金で売り渡したユダは、中庭で身を隠していたペテロとは違って、最高法院側について一部始終を見ていたと思われる。そして、その一部始終を見ていたユダは後悔の念にさいなまれ、「銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。『私は無実な人の血を売って罪を犯しました。』」(27:3-4)と最高法院に申し出た。だが、イエス様を殺したかった祭司長たちがユダの校内の気持ちをくむことはなく、「我々の知ったことか。自分で始末することだ」(27:4)と突き放した。注目すべきは、ユダは「後悔」したが、当事者であるイエス様の前に進み出て「謝罪」はしなかった点である。彼の行動は、内々にお金を返して罪悪感を軽くしようという、自分勝手なものであった。自分勝手なだけでなく、自分の犯した罪に向き合わずに隠そうとすることは、前に進もうとすることを阻んでしまった。
第二に「罪の代価が持つ悲惨」について見ていきたい。イエス様を売り渡したユダは、祭司長たちにも突き放され、精神的に追い詰められてくる。孤立した彼は、ユダヤ社会では至聖な場所である神殿にそのお金を投げ込み、「出て行って首を吊った」(27:5)という行動をとってしまった。もともとユダは「お金のためなら何でもする」という人物ではなく、「貧しい人に施しをする自分」像を持っていた(26:8-9)。しかし自分の行動は、理想としている自分像とは大きく離れたものとなり、その結果、こんなことをしてしまった自分に愕然としたことであろう。そして自分の想像とは全く異なる人生の締めくくり方をしてしまった。使徒の働きでは、もっと悲惨な死に方をしたと書かれている(使徒1:18)。「弟子となしたまえ」(新聖歌404)の4番は「ユダにはなるまじ」から始まる。罪ある私たちは、みな「ユダになる」可能性がある。だからこそみことばから離れてはならない。
第三に「最悪の中に働くみことばの成就」について見ていきたい。「みことばの成就」というのは、あらかじめ語られた神様のことばは、神様の御心や計画に従って必ず行われるという神様の約束の確かさを表している。祭司長たちはユダが投げ込んだ銀貨を汚れたものとみなし、神殿に入れる代わりに異邦人のための墓地の代金とした。古代イスラエルでは、土地は神様のものであり、売買する場合は50年の一度のヨベルの年には元の持ち主に返さなければならないという決まりがあった。しかし異国人の死体が埋まった土地を返されて、ヨベルの年以降、元の持ち主が再び畑として使用するのは難しい。その「異邦人のための」特殊な売買が、驚くことに、この時点から650年前に「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの子らに値積りされた人の値である。主が私に命じられたように、彼らはその金を払って陶器師の畑を買い取った」(マタイ27:9-10)と預言されていた。さらにゼカリヤ書には、真の牧者を神様が立てることと、イスラエルの民がその牧者を銀三十枚と値踏みし「陶器師に投げ与える」ことも預言されていた(ゼカリヤ11:12-13)。この最悪の状況も、すべて神様の御業の中にあり、その血の代価が異邦人のために広がっていくという神様の計画の手の内にあった。
2024年6月23日「キリストの宣言」(マタイの福音書26章69~75節)
【140字ダイジェスト】
ペテロは、このとき神様への呪いをかけてイエス様を否定した。著者のマルコは、後にカトリック初代法王に位置づけられた彼を貶めたかったわけではない。私たちは「あのペテロ」でさえ陥った人間の罪の本質や弱さを自覚し、その罪をも覆いつくす神様の愛や預言の確かさにこそ目を向けるべきなのである。
私たちの人生には思わぬ失敗があるが、その失敗にどう向き合うかで人生の意味も変わってくる。失敗という泥沼に足を取られてもがいているときは、自分の立ち位置を再確認する必要がある。そんな時に御言葉によって立つことが重要である。今日はペテロがイエス様を否定するという場面である。
今日は第一に「探られたペテロの内心」について見ていきたい。このときイエス様は、大祭司の家で行われた最高法院で辱めを受けていた。ペテロは、大祭司の庭でそれを見ていた。そんなペテロの挙動に不信を抱いた召使の女は「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね」(マタイ26:69)と声をかけた(→聖書の舞台(国・場所)のか行「ガリラヤ地方」参照)(→聖書の舞台(国・場所)のな行「ナザレ」参照)。この時点で女はペテロを捕えようとか、報告しようという様子は見られなかった。だがペテロは、イエス様の仲間であるとばれるのを恐れていた。大祭司たちがローマ兵を送って来たとき勇敢に戦おうとしたペテロであるが、その後の展開で自分たちが勝手に思い描いていた「政治的革命家」ではないことに直面し、イエス様に対する信頼の糸がぷっつり切れてしまったのだろう。私たちも信仰の初期は、キリスト教に対する勝手なイメージや思いが先行することが多い。しかし、やがて様々な困難を通して自分の勝手な思いを否定され、イエス様に対する関係を深め、信頼を深めていく。
第二に「ペテロの口によるイエス様の否認」について見ていきたい。ペテロは皆の前で「何を言っているのか、私にはわからない」(26:70)とイエス様を否認している。誰も「イエス様の仲間」を捕えたり避難したりする様子はない。だが信仰を失ったペテロは、自己保身が優先され人々を恐れるようになる。さらに別の召使いの女が、周りの人たちに「この人はナザレ人イエスと一緒にいました」(26:71)と言った。おそらく「召使の女」というのは、この場で社会的に最も弱い立場である。しかしペテロは恐れのあまり「誓って」否定した。これは「神様に誓って否定する」という重大な行動である。つまり、先の「何を言っているかわからない」という誤魔化しレベルではなく、自らイエス様の関係を断ち切ってしまうという意図的な選択だった。ペテロはその場を立ち去ることもできるが、イエス様の去就が気になって仕方がない。でもイエス様の仲間と思われたくないという自己保身の気持ちもある。そんな、信仰を失い、人を恐れるようになったペテロにとって、召使いらの何気ない言葉が心をえぐるものとなっていた。さらに三度目の問いかけに対しては「嘘ならのろわれてもよい」(26:74)とまで述べている。日本においても「誓う」という行為はある。国会や裁判所での宣誓は、法的な罰則を伴う。だがペテロが誓ったのはそんなレベルではない。自己保身のあまり「生ける神ののろいを受ける」誓いまでしてしまった。冷静に考えると不利な状況から一時逃れすることと、神の呪いを受ける誓いとどちらが深刻か言うまでもない。昔「奥歯の痛みに耐えかねて、奥歯を拳銃で撃ちぬいた」人の話を聞いたことがあるが、神様の否定はそれ以上である。だが私たちも、そんな愚かな選択をしてしまうこともある。
第三に「主イエス様のことばによる転換」について見ていきたい。ペテロの裏切りは四福音書のすべてが記述している。マタイの福音書だけは、これ以降、イエス様の復活の場面でもペテロの名前はない。それは著者マタイが「ペテロの裏切りを許せなかったから」という理由ではない。マタイも同じようにイエス様を裏切った。マタイの福音書は、最後の晩餐のときに「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」(26:33)と言い切った。しかし、その仮面は、イエス様の預言の通りの条項の中で粉々に打ち砕かれた。著者マタイが福音書を書いたとき、ペテロは初代協会のリーダーとして活躍していたが、彼はペテロを貶めたいのではなく「あのペテロさんでさえ」という人間の罪の本質を語りたかったのではないか。ペテロの罪は許されないように見えるが、その罪をも覆いつくす神様の愛と、その預言の確かさにこそ目を向けるべきなのである。
2024年6月16日「キリストの宣言」(マタイの福音書26章59~68節)
未信者の方は、しばしば「神様がおられるなら超常現象を見たい」「戦争の際にやって来て救ったらよいのではないか」という。しかし、そうなると信仰が上辺だけのものになり、やがて「神様を便利に使う」ことを考えはじめ、その結果、神様との愛と信頼の関係は育たなくなるのではないか。
今日は第一に「最高議会に蔓延していた殺意」について見ていきたい。聖書は「祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするためにイエスに不利な偽証を得ようとした」(マタイ26:59)と書いてある。これまでイエス様と対立してきたのはパリサイ人であり(→聖書の舞台(人物・組織)のは行「パリサイ派(パリサイ人)」参照)、支配者階級であるサドカイ派はあまり関わっていなかった(→聖書の舞台(人物・組織)のさ行「サドカイ派(サドカイ人)」参照)。しかし、今回は大祭司や最高法院による死刑判決がなされた。ローマ支配下では、宗教的裁判は最高法院の審議で判決を下すことができる(→聖書の舞台(人物・組織)のさ行「サンヘドリン」参照)。そして、そのような重要な裁判が真夜中に行われ、それは「死刑ありき」の裁判という異常な事態であった。さらに、死刑のための偽証を行う証言者たちが集められた。だが「多くの偽証人が出てきたが証拠は得られなかった」(26:60)という。
第二に「イエス様によるキリストの宣言」について見ていきたい。証拠がない中で最後に二人が進み出て(26:60)、以前イエス様がエルサレムで言った(ヨハネ2:19)、「わたしは神の神殿を壊して、それを三日で立て直すことができる」(マタイ26:61)との発言を証言した。これに対して大祭司は、「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているのは、どういうことか」(26:61)と詰め寄り、イエス様を「神殿の破壊者」と仕立てようとした。しかしイエス様は、黙っていた(26:63)。そこで大祭司は「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか」(26:63)との問いかけをした。偽の証言に対しては一切弁明をしなかったイエス様は、「おまえは神の子キリストなのか」という問いに対しては答え、「あなたが言ったとおりです」(26:24)とはっきりと答えられた。大祭司にとって、「人が神の子である」「人が救い主キリストである」という発言は、到底受け入れられなかった。しかし「イエス様が神の子キリスト」であるという前提で大祭司の行為を見てみると、大祭司の方こそ神様への最大の冒涜をしていることになる。そしてイエス様は、旧約聖書で預言されたキリストの再来をきちんと説明している(26:64)。それが最高法院全体が見えなくなっていたのである。
第三に「神様を冒涜する罪」について見ていきたい。イエス様のことばを聞いた大祭司は、最高議会の他者の前で「衣を引き裂く」という、最大の怒りを示すパフォーマンスをして「この男は神を冒涜した。なぜこれ以上、承認が必要か。何と、あなたがたは今、神を冒涜する言葉を聞いたのだ」(26:65)と述べた。もしかして、このとき大祭司は「もし、この男が本当に神の御子だったらどうしよう」と頭をよぎったかもしれない。しかし彼は、怒りを表現しながら自分で死刑を宣告することなく、最高法院の他の議員に「どう思うか」(26:66)と問いかけている。実際に「彼は死に値する」(26:66)と答えたのは、最高法院全体の議員たちであり、最高法院全体が死刑を決定したことになる。最初の偽証に対しては、その言葉を審議して証拠能力が十分ではないと考えてきた。しかしイエス様のことばを最高法院の70名は、一切吟味せずに脊髄反射的に死刑判決を下した。もし吟味しだすと、自分たちが冒してきた大変な過ちを暴かなくてはならなくなる。彼らは、その気持ちに蓋をし、イエス様を愚弄しだした(26:67-68)。そこにはユダヤの最高権威としての最高法院の威厳も品位もみられない。実はペテロは大祭司の中庭にいて裁判の行方を見ていた。ペテロは、不正に満ちた地上の裁判を受けながら、実際には天の神様にご自身を委ねられていたと後に述べている(Ⅰペテロ2::21-23)。神様は沈黙し、現実社会は罪の力に圧倒されるように見えることもある。しかし神様は、私たちの思いをはるかに超えたレベルで働いておられる。そして罪に迷える羊を、イエス様の十字架を通して救おうとされている。
2024年6月9日「神の沈黙と聖書の成就」(マタイの福音書26章51~58節)
【140字ダイジェスト】
大祭司たちは綿密に計画を立て夜中にローマ兵をともない力で押し寄せてきたが、イエス様はそれには抵抗されなかった。彼らは計画の成就を自分たちの賢さだと考えたが、それは人間の愚かさの表れであり、すべては神様の手の内にあった。聖書は神様の沈黙が「預言の成就」のためにあったと指摘している。
先週自動車メーカーの不正検査が明らかになった。これに限らず、私たちの社会は「うわべだけを取り繕えばよい」という風潮がある。だが「隠されたものが明らかになった」らどうなるか。先週はユダの裏切りの場面であったが、同時に弟子たちの信仰がうわべだけの者だったことも明らかになった。
今日は第一に「捕縛時のイエス様と弟子たちの対比」について見ていきたい。聖書は、「イエスと一緒にいた者たちの一人が、見よ、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした」(マタイ26:51)と書いてある。ヨハネの福音書は、祭司長や律法学者たちとその下役たちだけでなく、「一隊の兵士」(ヨハネ18:3)、すなわち600百人のローマ兵であり、この群衆に対して剣で切りかかった人物はペテロだと述べている(18:10)。しかしイエス様は、「剣をもとに納めなさい、剣を取る者はみな剣で滅びます」(マタイ26:52)と述べ、弟子たちの行動を止めている。イエス様は弟子たちに、「わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐ私の配下に置いていただくことが、できないと思うのですか」(26:53)と述べているように、力で対抗できなかったわけではない。だが、それでは罪のない御子として犠牲のささげものとなり、十字架の救いを実現しようとする神様の計画は実現できない。自分たちを力で支配し、異邦人として忌み嫌っていたローマ兵の軍事力を利用しようとした大祭司たちや、剣で対抗しようとしたペテロとは、まったく異なった考え方である。
第二に「イエス様の捕縛とみことばの成就」について見ていきたい。イエス様は力で対抗できないわけではない。「しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう」(26:54)と述べている。特にマタイの福音書は、「この神様の計画の成就」を大きなテーマとしている。この福音書はイエス様の系図から始まり、イエス様の誕生が書かれ、「このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった」(1:22)と述べている。それは人間の哲学や悟りではなく、また運命や偶然などでもない、人間の知恵の外にあって神様が計画された出来事なのである。こう聞くと「私たち人間には自由や選択の機会はないのか」と考える人もいる。だが私たちは、神様のご計画に対して自由な選択肢が与えられている。例えば、「わたしは毎日、宮で座って教えていたのに、あなたがたはわたしを捕えませんでした」(26:55)とあるように、不満があれば質問したり、みんなの前で糾弾したりすることもできた。だが彼らはそれをせず、夜半にローマ兵を引き連れて数と力で押し寄せた。そこには人間の愚かさの表れと同時に、人間の浅知恵をも飲み込んで進んでいく神様の壮大な業が働いている。マタイの福音書は「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです」(26:56)とはっきりと述べている。
第三に「神のことばに立っていない弟子集団」について見ていきたい。聖書は「そのとき弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった」(26:56)と述べているが、「そのとき」とは何か。イエス様が群衆と戦わないことを選んだときである。政治的な革命家像をイエス様に期待していた弟子たちを支えてきたものが一気に崩れた瞬間であった。つまり弟子たちの信仰は、神様のみことばではなく、自分たちの身勝手な思い込みや期待に立っていたことが分かろう。それでもペテロは、イエス様を慕う心からか「遠くからイエスの後について、大祭司の家の中庭まで行った」(26:58)と書かれている。だが、駆け寄って運命を共にするのではなく、遠くにいてイエス様を捕えようとした下役と一緒に座っていた(26:58)。そして、その後のイエス様の否認につながっていく(26:71-74)。だが、いずれもイエス様によって預言されていたことの成就であった。人の手によって立てられた計画と、神様が立てられた計画のどちらが成就したのか。私たちは確かな神のことばに立って行動する必要がある。
2024年6月2日「時を受けるイエス」(マタイの福音書26章42~50節)
【140字ダイジェスト】
「ユダの裏切りはイエス様を十字架につけるための必要悪だ」と解釈する人もいる。しかし、イエス様は彼を名指しで糾弾していない。イエス様はユダの計略に陥ったわけでも暴力に屈したわけでもない。イエス様が捕らえられたという事件は、旧約聖書以来示されてきた神様の愛が成就した「時」なのである。
6月10日は「時の記念日」とされている。聖書には「神様の時」「終末の時」が来ると、何度も繰り返されている。先週の箇所では、ペテロたちが「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないとは決して申しません」(マタイ26:36)と言ったが、それは崩壊していく。
今日は第一に「イエス様のゲッセマネの祈り」について見ていきたい。聖書には「イエスは再び二度目に離れて行って、『わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたの御心がなりますように』と祈られた」(26:42)と書いてある。一回目の祈り(26:39)と変わったわけではない。人間の罪に対する神様の怒りをご自身が請け負うことを、再び自覚した祈りである。「罪ある人が裁きを受けず、他人が罰を受けてよいのか」という人もあるが、これは神の法廷であり、人が背負いきれない罪の罰なのである。神様が愛する御子に、すべての人間の罪を背負わせるというのは、人知の及ばない神様の意味がそこにはある。そして旧約聖書には、その神様の遠大な計画がそこここに示されている。アブラハムに「ひとり子イサクを犠牲に捧げよ」(創世記22:2)との命令も、そのひとつである。人の罪を背負えるのは、罪のないイエス様しかいない。それは同じ祈りを三度繰り返したイエス様(マタイ26:44)も充分わかっていた。だが苦しみの中では、同じ祈りを繰り返すしかない。祈りの繰り返しは愚かさを示すものでなく、父なる神様との真剣に向き合いその御心に従う祈りである。
第二に「イエス様が受け止められた状況」について見ていきたい。三度の祈りが終わった後、イエス様は弟子たちのところに来て「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪びとたちの手に渡されます」(26:45)と述べた。ほとんど同じ場所にいて、苦しみもだえて祈っているイエス様と、眠気に負けて弟子たちとの対比が浮かび上がる。イエス様を取り巻く世間の不穏な状況やイエス様の悲しみの様子を見ていた弟子たちは、ただ、のん気に構えていたわけではいない。しかし霊的な目が開かれず、神様の時が迫っている状況だとはわからなかったのである。そんな弟子たちに、イエス様は「見なさい。時が来ました」(26:45)と述べている。だが、この「時」は、単に「大勢の人がイエス様を捕えに来た」という状況を指すのではなく、「神様の約束が成就する時」を指している。この状況を支配していたのはユダでも大祭司たちでもなく、神様なのである。信仰というのは、現実に起こりつつある状況に目を奪われるのではなく、そこに働く神様の業を見ていくことである。
第三に「罪びとたちに渡されたイエス様の姿」について見ていきたい。このときの状況について「イエスを裏切ろうとしていた者は彼らと合図を決め、「わたしが口づけするのが、その人だ。その人を捕まえるのだ」と言っておいた。それで彼はすぐにイエスに近づき、『先生、こんばんは』と言って口づけした」(26:47)と書かれているが、ユダが数時間前に食事の席から出て行ったわずかの間に、綿密な計画が立てられたわけである。さらに親愛の表現が、偽りの言葉と裏切りを示す行為となっている。そんなユダに対して、イエス様は「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」(26:50)と返された。肝心なことは、イエス様はユダの裏切りを充分に知っていた点である。だがイエス様は、最後の晩餐の席でも、この場面でも名指しで彼を糾弾せず彼を受け入れている。そして聖書は「そのとき人々は近寄り、イエスに手をかけて捕らえた」(26:47)と書いている。祭司長や長老も「ユダの裏切りによってイエス様を支配下に置いた」と考えただろう。しかし、イエス様はユダの計略に陥ったわけでも、人々の暴力に屈したわけでもない。自分を裏切った人々や捕えた人々も含めた人間の罪をすべて受け入れて、彼らや私たちへの神様の怒りを受け止めただけである。イエス様が捕らえられたという表面的な事件も、神様の目から見たら、旧約聖書以来延々と示された神様の愛が成就した「時」なのである。
2024年5月26日「イエスの悲しみの祈り」(マタイの福音書26章31~41節)
【140字ダイジェスト】
祈りによって多くの奇跡を起こされたイエス様の悲しみの中で祈られる姿は、弟子たちにとって衝撃であった。だが神様から見放される悲しみの極みで祈ったイエス様の望みは、神様の御心に従うことであった。先立つイエス様とともに、私たちは新しいいのちに移され弱さを抱えながら立ち直ることができる。
クリスチャンにとって祈りは、神様の交わりのときで信仰生活の中心でもある。イエス様も神様と交わり多くの人のために祈っていたと聖書には書かれている。しかし、ここでは悲しみの中での祈りであり、弟子たちには理解できないものであった。
今日は第一に「イエス様が弟子たちのつまずきを予告された」ことについて見ていきたい。聖書は、イエス様が「あなたがたはみな、今夜私につまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる。』と書いてあるからです」(マタイ26:31)と預言されたが、これは旧約聖書のゼカリヤ書にすでに預言されていたことである(ゼカリヤ13:7)。これに対してペテロは、他の弟子の前で「たとえ皆があなたにつまずいても」(マタイ26:33)と大見えを切った。しかし、自信満々のペテロに、イエス様は「あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います」(26:34)と預言した。この時間は夜半で、鶏が鳴く時刻には間がない。その短い時間で三度も裏切りの言葉を掃くと言われたペテロは、プライドを刺激され「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないとは決して申しません」(26:36)と言った。どれだけ確信を持っても揺らいでしまう自分がいることに気づいていない。私たちも同様ではないか。これに対してある人は「人の弱さは仕方がない、運命ではないか」という。だが神様は、そうした弱さに働かれ恵みを与えてくださることに注目したい。イエス様は「しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤに行きます」(26:32)と述べていた。つまり弟子たちはつまずくが、先立つイエス様のよみがえりで新しいいのちに移され、弱さを抱えながら立ち直る恵みにあるというのである。
第二に「イエス様の悲しみの祈り」について見ていきたい。その後、イエス様は「弟子たちと一緒に」(26:36)ゲッセマネに行き、悲しみもだえながら祈られた(26:27)。政治的な救世主だと考えていたイエス様がエルサレムに入城したのに、イエス様がこんな状態になったことについて、弟子たちは戸惑ったのではないか。しかしイエス様は、それを弟子たちに隠さなかった。それは、すべての人間の罪の身代わりとなって父なる神様の怒りを一身に受け、神様と断絶される悲しみであった。神様との関係が深ければ深いほど悲しみが大きい。イエス様といえども「わが父よ。できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(26:39)と祈らずにはいられなかった。以下に悲しみが大きかったことだろう。だがイエス様は、続けて「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望むままに、なさってください」(26:39)と祈った。極限の悲しみの中でイエス様が祈った望みは、神様の御心に従うことである。私たちも状況が大変な時ほど「これだけは譲れない」と考えてしまう。だがイエス様は、「父なる神様が望むことが最善である」という確信と信頼があったのである。
第三に「祈ることへの励まし」について見ていきたい。この悲しみの祈りから戻って来たイエス様は、弟子たち(ペテロとヤコブとヨハネ)が眠っているのを見た。彼ら三人は、山上で栄光の姿になったイエス様と、イエス様に声をかける神様の声を聞いた三人である(17:1-8)。だが、この時のイエス様にその面影はなかった。私(牧師)は、夜遅かったという理由以上に、悲しみつつ祈るイエス様を見ていられなくて目をつぶっていた結果、眠りに落ちてしまったのではないかと想像する。今日の次の箇所であるが、イエス様は三度彼らのところに戻っている。それは「三度否定する」(26:34)と対応する。イエス様は悲しみの中に祈りながら、弟子たちを心配している。「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです」(26:41)ということばは、私たちの弱さを理解しつつも、弱さの中に祈りを働かせたイエス様の私たちへの思いやりと導きのことばではないか。
2024年5月19日「御父による聖霊」(使徒の働き2章14~33節)
【140字ダイジェスト】
十字架前夜、預言通り三度イエス様を否定したペテロが、聖霊の働きによって別人のように福音を語り始めた。それはイエス様の復活によって、私たちは死を超えた希望につながっているというものである。この預言は旧約聖書全体を通じて示されてきた神様の契約と計画によって与えられる確実な恵みである。
今日は聖霊が下った「ペンテコステ(五旬節)」(→聖書の舞台(生活・習慣)のは行「ペンテコステ」参照)を記念する礼拝である。聖霊が働かなければ聖書を理解できないし、信仰生活も成り立たない。今朝の箇所は、教会の人々が聖霊を受けたときにペテロが語った説教の部分である。聖霊が働いて語られることばには、非常に力強いものだった
今日は第一に、「聖霊は預言されていた」ことを見ていきたい。聖霊が下ったときに人びとは異言を語り始めたとき、人々は驚き当惑して「酒に酔っているのか」と驚いた(使徒2:13)。このことを人々に語り掛けるためにペテロはヨエルの予言を取り上げた。旧約聖書の中で「ヨエル書」はマイナーで、ヨエル自信もどんな人物かあまり分かっていない。この「ヨエル書」のテーマは、終末の預言である。ヨエルはいなごの襲来による自然災害を語っているが、それは同時に外敵によるイスラエルの侵略を指す。ヨエルは「主の日」「全能者による破壊の日」(ヨエル1:15)が来ることを預言している。しかし、それは破壊のための破壊ではなく、神様への立ち返りの機会なのである(2:12)。ペテロが取り上げたヨエルの預言には、異邦人も含む「すべての人」にも、男女や年齢に関わらず聖霊が注がれることが語られていた(使徒2:17)。
第二に「聖霊による認罪」について見ていきたい。ペテロが預言をしたときに、五旬節で集まった大勢の人たち「イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです」(2:22-23)と突きつけ、自分たちが罪深い存在であることを表した。通常「ナザレ人イエス」と表現するとき、それは「田舎者イエス」という侮蔑を含んでいた。しかしペテロは、イエス様が貧しいナザレの地に生まれ、私たちの中で生きられたことは神様の選ばれた計画であったと述べている(2:23)。イエス様の十字架を見聞きしたのは「過越の祭り」に際してエルサレムに来た「敬虔な」ユダヤ教であり、ここに集まって人々は「過越の祭り」から「五旬節」まで滞在していた人も多い。彼らは「敬虔な」ユダヤ人を自負していたかもしれないが、その彼らに向かって「神の御子を十字架につけて殺したのだ」と言い放ったのである。罪は自分ではなかなか気づかない。見えなければ自分は「それほど悪い人ではない」と考える。だが神様の目から見た私たちの罪の存在は、聖霊が働かなければ自覚することができない。多くの人は「イエス様が十字架につけられたが、私がしたわけではない」と考えていただろう。しかし、イエス様の十字架が私の罪のためにあったということは、聖霊によって指示されなければ永遠に分からないだろう。
第三に「希望を生み出す聖霊」について見ていきたい。さらにペテロは「しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです」(2:24)と述べて、十字架の死の先に復活の希望があると述べている。多くの人々は、「死の瞬間」にしか関心がなく、苦しみもなく他人に迷惑をかけることなく死ぬことが理想だと考えている。しかし「罪の結果として死につながれている状態に置かれていること」自体が悲惨なのである。ここでペテロは詩編(詩編16:8-9,11)を引用して、私たちが罪と死から解き放たれ永遠のいのちにつないでくださったことが、神様の本当の計画であり恵みなのである。私(牧師)は、最近仏教徒と話す機会があった。しかし多くの経典などがあるが、それを裏付ける歴史や証言がない。これに対して、いかに聖書が何重にも神様の契約を保証しているか。私たちは「よみに捨て置かれず」(使徒2:31)というのは、私たち自身が復活のイエス様の証人であり、そのイエス様が約束された聖霊を神様から私たちに注いでくださったというのである。私たちは、このように確実な保証で約束された永遠の希望がある。
2024年5月12日「聖餐と契約」(マタイの福音書26章26~30節)
【140字ダイジェスト】
ノンクリスチャンでも聞いたことのある「最後の晩餐」は「過越の祭り」の食卓であると同時に、イエス様は「わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで」と弟子たちとの再臨を預言されている。神様による罪の贖いと永遠のいのちの契約は、大昔から今まで変わらず私たちの前に備えられている。
教会は神の家族でありキリストのからだであるので、誰一人「いらないひと」は存在しない。しかし、教会外はまったく異なる価値観があり、傷ついたり誘惑に陥ったりすることがある。では教会内には問題がないかというと、人間的な問題は教会内にもある。だから愛のうちに成長する必要がある。
今日は第一に「聖餐式は出来事」について見ていきたい。「最後の晩餐」は教会に来たことのない人でも聞いたことのある言葉であろう。クリスチャンであれば、本日の箇所(マタイ26:26-29)は聖餐式ごとに聞いている。だがこれは、私たちがイエス様の十字架の意味を追体験するという重要な意味がある。このとき食したパンとぶどう酒は「過越の祭り」の食事である。「過越の祭り」とは、エジプトで奴隷だったイスラエルの民が、神様によって奴隷から解放されたことを祈念する祭りである(→「聖書の舞台(生活・習慣)」のさ行「過越の祭り」参照)。イスラエルの民を奴隷から解放するときに、神様は大量の羊の血を門柱に塗るように命令した。神様は、その羊の血がある家を罰せずに通り過ぎた。つまり「過越の祭り」は「罪ある人間を罰することを、羊の血による贖いで神様が過ぎこされた」ことを意味する。そして、その代価は「割かれるパン=イエス様の肉体」「注がれるぶどう酒=イエス様が流された血」である。罪ある私たちは、神様の前に立って祈ったり頼ったりする前に、イエス様の十字架によって罪を贖われなければならないと忘れてはならない。
第二に「罪の赦しという新しい契約」について見ていきたい。イエス様は「罪は贖わなければならない」というメッセージ以外に、「神様は契約によって私たちを導かれている」ことを伝えている。「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」(26:28)と述べているが、イスラエルの律法による「契約」は割かれた動物の間を通り「もし破ったらこのように咲かれてもよい」と誓う、命がけの約束である。つまり神様は「いのちがけで罪ある人間を救いに導くのだ」という一方的で大きな愛による約束を誓われたのである。最近、うち(仙台のぞみ教会)の学びに来る求道者の一人に仏教徒がいる。話していて気づいたことは「仏教は、宗派ごとに拠って立つ経典が違う」ということであった。一方、聖書は旧約新約あわせて66巻あり、1,600年にわたって40人以上の手で書かれたものであるが、その指し示すことは驚くほど一致している。それはイエス様による救いである。自分(牧師)は、高校生の頃「罪は人の価値観によって様々なである」と考えていたが、教会に行き出して「罪」の意味が分かり始め自分がいかに罪人か考えるようになった。そんな頃、松原湖のバイブルキャンプに誘われて行ったところ、初めて聖書のことばを反発せずに聞くことができた。罪は「自分の感じ方」でも「露見しなければ無いのと同じもの」でもない。神様の前にあって私たちの中に確実にある。しかし神様はそれを贖い道も用意された。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:9)。
第三に「終末と再臨の希望」について見ていきたい。このときイエス様は「わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません」(マタイ26:29)と述べられた。これは弟子たちととる最後の食事であると同時に、天の御国に招いて再びまみえることが預言されている。私たちも同様に、死を超えた永遠のいのちがあり、そこで再びまみえることを聖書は約束している。旧約聖書に書かれたイスラエルの民への神様の取り扱いの歴史は、神様の約束の確かさを論証している。死の向こうを信じない人は「死ぬ瞬間」のことのみを考えている。だが問題は「死の向こう側をどう生きるか」「そのために今をどう生きるか」にある。私たちは、このイエス様の招きのことばよって招かれ、天の御国での再会が約束されている。その約束の意味を噛みしめるのが、聖餐式なのである。
2024年5月5日「ユダの裏切り」(マタイの福音書26章14~25節)
【140字ダイジェスト】
太宰治は「宿命から逃れられないユダがかわいそうだ」という立場から小説を書いた。しかしイエス様は、ユダの裏切りを知りながら他の弟子たちと同様に接し、最後の晩餐のときも他の弟子に知られないようにユダに最後の立ち返りを求めている。ユダは自分の罪に向き合い、その愛に応答するべきであった。
信頼していた人物に裏切られた経験はあるだろうか。世間では大谷翔平選手の通訳の裏切りが世界的な話題となった。聖書の中にもたびたび裏切りの場面がある。前回、高価な香油をささげた女性の話を学んだが、今回はそれとは正反対のユダの裏切りのシーンである。
第一に「裏切りと欲」について見ていきたい。聖書には「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行って、こう言った。『私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。』すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った」(マタイ26:14-15)とユダの裏切りを書いている。「イスカリオテ」とは「カリオテ出身の」という意味である。多くの弟子たちは田舎であるガリラヤ出身であるが、ユダは都会のカリオテ出身で一行の中では少し浮いていた。さらにヨハネの福音書では、一行の金入れを預かり、しかも使い込みをしていたと書かれている(ヨハネ12:6)。ユダがイエス様を裏切った理由は裏切りたかったのか、単に報酬が欲しかったのかは分からないが、「私に何をくれますか」(マタイ26:15)という卑しい言葉を吐いている。さらに祭司長たちが提示した「銀貨三十枚」というのは奴隷の買取り値段であり(出エジプト21:32)、「イエスごときに大金を使うべきでない」と考える祭司長たちの見下しがあった。それで応じたユダは、ナルドの香油をささげた女性と比べてもイエス様のことばに日常的に触れていたはずなのに、イエス様のことばを聞くことをやめてしまい、その結果、イエス様に冷めてしまっていた。
第二に「イエス様による祭りの備え」について見ていきたい。一般に、不慣れな場所で祭りの最中に大勢が食事をとる場所を用意するのは困難である。しかし、イエス様は「都に入り、これこれの人のところに行って言いなさい。『わたしの時が近づいた。あなたのところで弟子たちと一緒に過越(→「聖書の舞台(生活・習慣)」のさ行「過越の祭り」参照)を祝いたい、と先生が言っております』」(マタイ26:18)と言われた。当然、イエス様が予約をしていたわけではない。しかし神様の視線からは、その「とき」に向けてすべてが整えられていた。この食事の際に、ユダが裏切りについてイエス様が語った。ある人々は、ユダがそのような「宿命」にあって、宿命から逃れられないユダがかわいそうだと主張する(太宰治「駆込み訴え」など)。だが神様の契約は変わらないし、ユダの気持ちの移ろいに即して計画を変える訳ではない。ユダの選択の結果なのである。
第三に「ユダの罪の自覚」について見ていきたい。食卓でイエス様は「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります」(26:22)と弟子たちに言った。聞かされた弟子たちは、どれほどショックだっただろう。だから弟子たちはイエス様に「主よ、まさか私ではないでしょう」と問うた(26:22)。それに対してイエス様は「私と一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります」(26:23)とはっきりとユダを名指しした。ヨハネの福音では、さらにはっきり指し示した(ヨハネ13:26)。しかし不思議なことに、他の弟子たちは「誰が裏切り者だ」というのは分からなかった。だから弟子たちはユダに対して追及を行う行動話していない。ただ指摘されたユダ自身だけが、自分の罪を自覚できるようにイエス様は促していた。ユダに課せられたのは、自分の罪を自覚した上で、どのように自分の罪に向かいあうべきか判断し、神様に立ち返るかであった。実際、イエス様は、ユダが未来で自分を裏切ることは分かっていたし使い込みなども分かっていたが、他の弟子たちと異なる扱いをせず、ともに旅をし、食事をし、教え導いていた。だから、このシーンはイエス様の糾弾ではなく、ユダに最後の立ち返りを求めている、愛ゆえの行動ではないだろうか。私たち自身も、神様が何を私たちに語り掛け、どのように罪に向き合うように促されているのか、考えるべきであろう。他の弟子たちが分からない中で迫ってきたイエス様のように、神様は私たち個人にも向き合ってくださっている。
2024年4月28日「最上のささげもの」(マタイの福音書26章1~13節)
【140字ダイジェスト】
捧げものはどの宗教でも見られるが、強制となったり、その価値を人間的な尺度で計るようになると、歪んだ信仰となる。弟子たちは女性の行為を「高価な香油の無駄使い」と批判したが、その行為は彼女ができる最上のものをイエス様に捧げ、「十字架の死」の先にある永遠のいのちにつながるものであった。
信仰者が宗教にささげものをすることは、どの宗教でも見られる。だが、そのささげものの価値を人間的な尺度で計り、ささげもの自体が目的となって強制となると、本来の信仰の意味が歪んでしまう。今日の箇所は、高価な香油をささげた女性を非難する弟子たちの弱さが浮き彫りにされたものである。
この時、イエス様は「ベタニアで、ツァラトに冒された人シモンの家」(マタイ26:6)におられ、食卓に着いておられた。当時のイスラエルは「ツァラト」という病気に冒された人の家に入ることは汚れた行為であり、ましてや食卓を囲むということは考えられなかった。しかしイエス様は、あと二日で十字架にかけられるという時期であり(26:2)、さらに「そのころ、祭司長たちや民の長老たちはカヤパという大祭司の邸宅に集まり、イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した」(26:3-4)という緊迫した状況にあった。その状況のなかで、社会から隔絶された最も弱い人のところを訪ねられ、寄り添ってともに食卓を囲んでいた。だが「ツァラトに冒された人シモン」を癒やしたという記述もなく、その一方で「ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやってきた。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ」(26:7)という、一見、人間的には非常識な行動がクローズアップされている。この香油は、ソロモン王にも愛されるほど高価なものであった(雅歌1:12、4:13)。この女の人の最大限の感謝、賛美、貢献であり、また香油を注ぐことは葬儀の準備でもあった。「300デナリの高価な香油」を無駄使いしたと思っている(マタイ26:8-9)弟子たちの中で、彼女だけがイエス様の十字架の預言を理解し、自分にできる最大限のささげものをしたのである。
第二に、「弟子たちの憤慨」について見ていきたい。マルコの福音書では「何のために、こんな無駄なことをするのか。この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに」(26:8-9)と言ったのはユダだと記しているが(ヨハネ12:4)、マタイの福音書では「弟子たちはこれを見て、憤慨していった」(マタイ26:8)とある。つまり言葉を発したのはユダであるが、他の弟子たちも同じように考えていたと弟子たちは後に振り返ったというのである。この時の弟子たちは香油の値段だけしか見ておらず、貧しかったであろう彼女がした行為の大きさが見えていなかった。しかし彼女にとっての香油は「貧しい生活の中での換金できる財産」ではなく、それをはるかに超えた「自分としてイエス様にできる最善のこと」であった。そのことを忘れたときに、信仰やささげものは歪んでしまう。川口葉子姉妹は『宗教研究』(85巻)に、1970年の大阪万博に建てられた「キリスト教館」の話を寄稿していた。そのとき「福音を語る」ことに対することに反対が起こり、「人類の友愛」的なテーマに曲げられた。このときの弟子たちも「貧しい人たちに施しができたのに」(26:9)と述べた。一見立派なものであるが、イエス様の十字架の犠牲と救い、永遠のいのちという「福音」の本質から離れていた。
第三に「女の人に対するイエス様の評価」について見ていきたい。イエス様は「わたしに良いことをしてくれました」(26:10)、「わたしを埋葬する備えをしてくれたのです」(26:12)と言われたが、聞いていた弟子たちにとってはびっくりした言葉だっただろう。しかしイエス様は常に、自分が十字架につけられることを繰り返し話していた。さらに直前には、それが「二日後」(26:2)であると預言していた。香油を注いだ彼女が「十字架の死」をあらかじめ確信してこの行為を行ったかわからないが、イエス様のこのことばで確信が持てたし、イエス様がそれを肯定してくださったことから、十字架の死とその先の希望が確信できたのではないだろうか。イエス様も、この「福音」が世界中に広がり永遠に残ることを断言された(26:13)。イエス様の「十字架の死」の先には、死を超えた先の永遠の救いといのちがある。
2024年4月21日「最も小さな者への愛」(マタイの福音書25章31~46節)
【140字ダイジェスト】
「終わりのとき」を考えることは「今をどう生きるか」につながる。イエス様は、ある王のたとえ話を通しれ、終わりのときのために私たちが何をすべきか語られた。私たちは自分の尺度による人間的な愛や善行ではなく、キリストの愛のうちにとどまり、私たちの最も小さな者にこそ仕えることを勧められた。
聖書に示されている神様は、終わりまでを貫く「アルファでありオメガである」(黙示録1:8)である。私たちは「人生の終わりは考えたくない」と思う。しかし、それを考えることは「私たちが今をどう生きるか」につながる重要な問題であり、「終わり」を語る神様のことば時代を超えて不変である。
今日は第一に「終わりのときの神の選び」について見ていきたい。イエス様は、「人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちをともなって来るとき、その栄光の座に着きます。そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、羊を自分の右に、やぎを左に置きます」(マタイ25:31-33)と再臨のときを告げている(→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「人の子」参照)。そのときイエス様は全世界のすべての権威の上に君臨し、すべての人を裁かれる。羊とやぎは、普段は同じようなところで同じように草を食べ、同じように生活しているように見える。しかし、終わりのときには「羊=神の民」とされる点で決定的な違いが生じる。日本の仏教は「死後はすべて仏となる(成仏)」「何度も輪廻転生する」と考えるが、そうであれば信仰は意味がなくなる。聖なる神様は、聖なる民をより分け「世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国」(25:34)を受け継ぐようにおっしゃる。つまり救いの業は人間の性質や善行の結果ではなく、永遠のはじまりから神様が備えられている。私たちは、私の行為に先行して行われる神様の恵みをしっかり受け継ぐ必要がある。
第二に「その中で行われる愛の業」について見ていきたい。イエス様は、王である神様が「あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです」(25:35-36)と述べているという。私たちは「神様」であれば使えようとするかもしれないが、様々な問題を抱え社会から切り離された人には「関わらない」という選択をしがちである。人間的な「愛」や「善行」で対応しようとしても限界がある。しかし、私たちの一番貧しく弱いところにキリストは踏み込んで愛してくださった。そのキリストの愛を反映させることで、それを超えることもできる。そうすれば、私たちは「主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか」(25:37)と自覚することなく愛を為すこともできる。アブラハムも、訪れた三人を御使いだと自覚せずにもてなした(創世記18:1-8)(へブル13:2)。イエス様は「いつ」「どこで」「だれに」とは言っていない。日常の中に溶け込んだ愛の業を為す生き方を求めている。それも力や影響力のある人に対してではなく、「もっとも小さい者たちの一人」(25:40)への愛を求められている。
第三に「愛を失った群れ」について見ていきたい。「それから、王は左にいる者たちにも言います。『呪われた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。』おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』」(25-41-43)とたとえ話は続く。私たちは「罪」を「悪いことをする」ことだと考えるが、聖書は「何もしなかった」ことが「罪」だと主張する。呪われた者たちは「王をないがしろにしていない」(25:44)と主張している。しかし王は、「おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ」(25:45)と言う。人間的には「王」と「最も小さい者」は雲泥の差がある。しかし、それは人間的判断であり、神様は「最も小さい者」も神様の愛のうちにあるという。もし私たちが「キリストに仕えたい」と考えるなら、イエス様が人生をかけて示されたように、「最も小さい者」に仕え、そこにキリストの愛を為すべきであろう。
2024年4月14日「預かったタラント」(マタイの福音書25章14~30節)
【140字ダイジェスト】
『ウエストミンスター小教理問答』は、人生の目標を「神の栄光を表し、神を喜ぶこと」だと述べている。私たちは神様から預かった様々なタラント(才能)を用いて、互いに仕え合うことが求められている。そのような神様の信頼にこたえるとき、神様はさらに大きな賜物を与え、人生を豊かにしてくださる。
私たちは人生の目標をどこに置くのか。『ウエストミンスター小教理問答』では、「人の目的は何か?」にたいして「神の栄光を表し、神を喜ぶこと」だと述べている。私たちの人生がむなしい方向に迷ったり戸惑ったりするとき、私たちは神様にある人生を生きるという立ち位置を忘れてはならない。
今日は第一に「預けられたタラント」について見ていきたい。今日の箇所は、「主人の家で給仕をするしもべ」「花婿を待つ花嫁」につづく三つ目のたとえである。そこに共通するのは「終わりのときはいつ来るかわからないので、常に備えよ」というメッセージである。このたとえでも、主人が旅に出るときに財産を預けたとある。この一タラントは6,000日分の日給に賃金すると言われている。主人は現在の貨幣価値にすると数千万円から三億円の金を預けたことになる。しもべたちに対する主人の信頼や期待は、大変大きかったと言える。また「預かった」とのことであるから、本来、タラントは人の物ではなく神のものである。タラントは、現在「タレント」という言葉になっているように「才能」神様によって預けられたものであり、その多寡はあるものの、私たちは神様から何らかの「才能」を預かっており「その賜物を用いて互いに仕え合いなさい」(ペテロ4:10)と言われている。
第二に「タラントの用い方の問題」について見ていきたい。タラントを預かったしもべたちは、それぞれ異なる用い方をした(マタイ25:16-18)。私たちは神様からそれぞれが大きな賜物を預かっている。その賜物を神様はどう用いて欲しいか考える必要がある。このしもべたちは、主人の心をそれぞれ考えてタラントの用い方を考えた。先の二つのたとえでは、「神様はいつ来るかわからない」というものであったが、このたとえでは「さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした」(25:19)とある。つまり長い時間が立っても神様の御心は変わらないし、しもべたちの主人に対する心がずっと変わらなかったということである。だから主人は、二人のしもべには「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかなものに忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」(25:21,23)とほめている。主人は「よく金儲けした」ではなく、「おまえはわずかなものに忠実だった」(25:21.23)点を評価している。そして、神様の預けた賜物は大きなものであったが、さらに与えられるものは、比較にならないほどの「多くの物」である。私たちは、ひとり一人神様から「タラント」と、それを活かす能力を与えられている。それを私たちの人生の中で、私たちを信頼して預けてくださった神様の御心や期待通りに活かすことが、私たちの人生の目標でもある。
第三に「タラントを用いなかった失敗」について見ていきたい。最後のしもべは「ご主人様。あなたさまは蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。それで私は怖くなり、出て行って、あなたさまの一タラントを地の中に隠しておきました」(25:24-25)と述べた。先の二人のしもべとは主人に対する信頼が全く異なる。そして主人に対して不満、不平、恐れを抱き、まったく自分勝手な思い込みで行動している。彼はタラントを預かっていながら感謝も信頼もなく、主人のことを「厳しい方だと分かっていました」などと断じている。残念ながら神様を知らない多くの方は、このような思いや頑なさを抱いているのではないだろうか。そこには神様と生きる上での信頼や感謝は欠落している。このようなしもべに対して、主人はその自分勝手な主張を断罪して「悪いしもべだ」と評価している。さらに主人は、彼の一タラントを忠実な二人のしもべに分け与えるのではなく、十タラントに増やしたしもべに与えられた(25:28)。たしかに信頼関係が深まった人に、さらに任せたくなるのは自然なことである。私たちは、神様が私たちに預けてくださっている莫大な「タラント」を、神様の信頼や期待に応じて活かす人生は、ますます豊かなものとなる。
2024年4月7日「閉じられる天国の門」(マタイの福音書25章1~13節)
【140字ダイジェスト】
神様は私たちを招き聖霊に満たされる「時」を与えられていた。それは大きな恵みであるが、それを軽んじてはならない。油入れを持っていても油を満たして備えなかったため、花婿を迎えられず主人に締め出された愚かな娘たちの轍を踏むことなく、つねに聖霊で満たされて神様を待ち望むことが重要である。
私たちは天の御国を軽く考えがちだが、イエス様が語られた天の御国は、私たちの想定と異なる部分がある。その時に慌ててしまわないように注意するようにイエス様は勧めている。先週はいつ主人が返って来てもよいように忠実だったしもべの話だったが、今日は備えてなかった花嫁についてである。
今日は第一に「花婿を迎える備え」について見ていきたい。第一段階は親同士の約束、第二段階は婚約式である。イエス様の父ヨセフと母マリアは、懐妊したときこの段階だった。そして第三が、いよいよ夫婦が一緒になる宴で、多くの方を招くために夕刻から始められた。そのために新郎と友人たちは花嫁を迎えに行く儀式があった。このたとえ話は、この段階である。「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持ってきていなかった。賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた」(マタイ25-2-3)。この「賢さ」「愚かさ」は知的能力の話ではなく、価値判断の部分を指している。ともしびを持って待つことを軽く考えた娘たちは油を用意しなかった。これは神様の前にどう判断するかという「個人」だけを指すのではなく、聖書でしばしば「花嫁」にたとえられる「教会」も指している。イエス様がたとえ話で娘の数を五人と五人にしたが、注意していないと私たち自身がどちらに転ぶかわからないとの緊張感を持つ必要がある。
第二に「花婿が来られるときの対応」について見ていきたい。賢い娘たちも愚かな娘たちも、どちらも「花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった」(25:5)と書いてあるが、聖書は寝入ってしまったこと(人間の弱さ)を非難してはいない。しかし、夜中になるまで花婿が来なかったので「もう今夜は来ないだろう」と思っていても、思ってもいないときに花婿(イエス様)は来る。寝入っていたのはどちらの娘たちも同じだったが、両者の違いは「備えて油で満たしていたかどうか」である。聖書は「油を注ぐ」を「聖霊が注がれる」ことであるとしばしば比喩される。クリスチャンは洗礼を受けたのだから「油入れ」は持っている。しかし、そこにたっぷりと「油が注がれている」すなわち「聖霊で満たされる生活を送って来たのか」が命運を分ける。今日、この世の終わりが来るかもしれないし、私自身の死があるかもしれない。しかし「さあ、花婿だ。出迎えなさい」(25:8)という声が来たときに、焦るのか、それとも備えているのか、それが重要である。
第三に「閉じられた門の前での混乱」について見ていきたい。愚かな娘たちは賢い娘たちに「私たちのともしびが消えそうなので、あなたがたの油を分けてください」(25:8)と頼んだが断られた。「なぜ分けてあげないのだろう」と思うかもしれないが、神様との結びつきはその人のものであり、それを誰かに分け与えたり、誰かの神様との関係を譲ったりすることはできない。賢い娘たちは油を「自分で買ってきた」ので、愚かな娘たちは「油は自分で買ってこなければならない(自分自身が神様との関係を築かなければならない)」ことに気づく。しかし夜中に店を開けてもらうのは時間がかかるし、買って帰ってきたら花婿はすでに来ていて戸が閉じられていた(25:10)。同じように私たちに聖霊が与えられるのは、神様に許された「時」があり、その間に私たちは聖霊を受け入れなければならない。「時」を逃した花嫁たちは、閉じられた戸に向かって「ご主人様、ご主人様、開けてください」(25:11)と叫んだが、主人(神様)は「私はあなたがたを知りません」(25:12)と厳粛に申し渡した。本来、愚かな五人の娘たちも神様に招かれていて、花婿を備えて待つ「時」も与えられていた。今の私たちは、そんな大きな恵みの中に置かれている。そんな神様の招きと「時」を軽んじてあいまいなものとしてしまうことは、破滅的な結果をもたらすことをイエス様は強調している。「ですから、目を覚ましていなさい」(25:13)とあるように、私たちはそんな恵みをしっかりと受けて応答しなければならない。