仙台のぞみ教会
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その中ですぐれているのは愛です。
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2019年9月29日「イエスは主」(ローマ10:1~13)
神を知るということは重要なことであるが、私たちは自分の知識の中で神様を理解しようとして、自分中心の理解をしがちである。イスラエルの歴史は、神様に対する誤解が悲惨な歴史につながったものであった(→「旧約聖書を読んでみよう」の「失われた十部族」参照)。ローマ人への手紙が書かれた時代、彼らの多くが福音を受け入れることができず、替わりに異邦人が救われていた。では、彼らに対する神様の約束はご破算になったのか。それについてパウロは「そんなことはない」と述べている。
今日は第一に、神様に対する誤解について見ていきたい。パウロは、イスラエルが救われるなら「のろわれる者となることを願う」(ローマ9:3)とまで述べたほど、同胞の救いを願っていた。さらに「彼らが神に対して熱心であることをあかしします。」(10:1)と彼らの宗教的熱心さを認めてはいた。彼らはたしかに熱心であったが、本当の神様を知るという根本のこところに問題があった。パウロ自身、過去に自分の熱心さをふり返って「その熱心さは教会を迫害するほど」(ピリピ3:6)であったと自戒している(→「新約聖書を読んでみよう」の「目からウロコ」参照)。自己中心的な熱心さはしばしば危険なものとなる。イスラエルの民が律法を守る生活を熱心に追い求めていたのは、「自分自身の義を立てよう」(ローマ10:3)としたもので、それは神の義とは相反するものであった。そもそも福音とは、神様中心の世界に突然招き入れられることであるが、私たちは心の中に神様中心の世界観がきちんと据えられているだろうか。イスラエルの民は律法で救われようとしていたが、その状態をパウロは、モーセの言葉を引用して「律法による義を行う人は、その義によって生きる。」(10:5)と状態だと指摘している。一方聖書は「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」(10:4)と信仰による義を主張している。
第二に、この「信仰による義」について見ていきたい。イスラエルの民は、行いによる義を求めていた。だがパウロは、「だれが天に上るだろうか」(10:6)「だれが地の奥底にくだるだろうか」(10:7)と言ってはいけないと述べている。前者は、自分の力で救われるために何をしたらいいかという発想であり、後者はどうしたら罪を贖うことができるかという発想である。それらはすべてイエス様が成し遂げてくださったものであり、そのような発想は福音の御業を否定することになる。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」(10:8)とあるように、神様はすでに救いについて述べられ、私たちの心に語りかけられているのである。イスラエルの民が神様の祝福の中にありながらも、それを受け止められず悲惨な状態になったが、異邦人である私たちはそれよりもずっと悲惨な状態にあった。そんな罪で満たされた私たちの心にも、神様は直接語りかけられた。私たちは、今の生活がうまくいかないのは、自分の表面的な行いのどこかに問題があると考えがちであるが、問題はもっと根本的なところにある。心の奥深い所で神様が何を語られているか耳を傾けるべきであろう。聖書は「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(10:10)と述べ、救われるためには「あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら」「あなたは救われる」(10:9)と明言されている。自分が理解できないことが多い中で神様に従わなければならない時、神様に対する信頼が求められてくる。その結果は「彼に信頼する者は、失望させられることはない。」(10:11)と、聖書は言うのである。
2019年9月22日「家族の救い」(使徒16:16~34)本城綾子先生
人が日々の生活の中で恐れる最大のことは「死」ではないか。それを避けるために人は健康に気をつけて生きようとするが、それでも死はだんだんと近づいてくる。私たちはなぜ死なければならないのか。もともと神様は、この世を良いものとして作られた(創世記1:31)。そこで人間は神様との親しい交わりを続けていたが、サタンの誘惑にのって神様の命令に逆らいエデンの園の真ん中にあった善悪の木の実を食べてしまった(3:1~7)。この行為によって全人類に罪が入って神様と断絶された結果、人間は死ぬ存在となったのだと聖書は述べている(→「旧約聖書を読んでみよう」の「アダムとエバ」参照)。
つぎに日本人が持っている死後の世界観について考えたい。第一に、人は死とともに完全に消滅するという考え方で、私(本城先生)の父も戦争体験を通してそのような考えを持つようになった。第二は輪廻転生である。もし、それが真実であれば死んだ人はどこかで転生しているので、それを崇拝することは意味がなくなる。第三は先祖崇拝であるが、もしそうなら死んだ家族への崇拝を怠れば、死者は生きている家族を祟るという恐ろしいことになる。どれが本当なのだろうか。一方、聖書には「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(へブル9:27)こと、そして「わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。」(エレミヤ21:8)と書かれている。本来、神様は愛の方であるので人間が滅ぶことを望んでいないが、「いのちの道と死の道」のどちらを選ぶかは、私たちにゆだねられている。ルカの福音書16章には、死んでハデス(→「聖書の舞台(国・場所)のは行「ハデス」)に落とされて苦しみにあっていた金持ちが、生きている家族が同じ道に陥らないように死後の世界から誰かを送って知らせて欲しいと願ったがかなえられなかった話がある(16:27~31)。私たちは、生きている間にいのちの道を選ぶ必要がある。死んでハデスに投げ込まれた人の末路と(黙示録20:14)と、いのちの道を選らんだ者の(21:1~7)差は大きい。「御子を持つものはいのちを持っており、神の御子をもたないものはいのちを持っていません。私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」(Ⅰヨハネ5:12~13)とあるように、生きているうちにイエス様を信じて救われることが、いかに大切な選択か分かろう。
最後に、今日の中心聖句である「主イエスを信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)を見ていきたい。伝道旅行の途中だったパウロは、ピリピの街(→「新約聖書を読んでみよう」の「エーゲ海旅行」参照)で、占いをする女奴隷から占いの霊を取り去った。しかし、それによってもうけを失った女奴隷の主人たちによって、パウロと同行者のシラスは訴えられ投獄されたが、その牢獄で神様のみちびきによって看守とその家族を救いに導いた。パウロは看守に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)と伝えている。主イエスを信じるだけで救われるとは何と簡単なことか。そして、救われたものは、次に家族や友人に神様のことを伝え、救われた喜びを伝えることが期待されている。先に述べた刹那的な死生観を持っていた自分(本城先生)の父も、母も、長い祈りと宣教の末に救われた。それは神様が成し遂げてくださることである。みなさんも、ぜひ、あきらめずに家族のために祈りつづけ、神様のことを宣べ伝えて欲しい。
2019年9月15日「陶器師と土」(ローマ9:14~24)
聖書は神は愛であると語っているが、その愛は「神が愛なのに、なぜ私は苦しむのか」「なぜ愛される人と愛されない人がいるのか」の様にたびたび誤解されている。そのように道を見失った時にこそ、私たちには聖書がある。前回、私たちが「神の民」とされたのは、「神ご自身の約束」によるものであり、そこに確かな神の選びの確かさがあることを見てきた。そのことが充分に理解されていないと誤解やつまずきを生む。
今日は、第一に「人をあわれまれる神」について考えていきたい。「あわれみ」として神様の深い愛が示されたことが最初に詳しく語られているのは、ヤコブの生涯についてである。同じ両親から生まれたヤコブの双子の兄エサウは、ヤコブとは全く違う生涯を送った。その違いは彼らの生き方ではなく「神の選び」から来るものであった(→「旧約聖書を読んでみよう」の「イスラエル」参照)。同様にイスラエルの民が「神の民」とされたのは、神様方の一方的な「あわれみ」からだとパウロは主張している。神様は、モーセにも「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」(ローマ9:15)と述べ「人間の願いや努力」(9:16)は一切関わりがないことを示された。だから「神の民」として選ばれた理由を「人間的な条件や資格」から捉えることは、生ける神様を人間の頭の中で決めつけてしまう危険をおかすと聖書は述べている。
第二に「陶器師と土」としての神様と人間の関係を見ていきたい。救いが神様の一方的な「選び」だとすると、「それならばなぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」(9:19)という疑問が生じるかもしれない。これに対してパウロは、「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。」(9:20)と問い返している。もちろん神様について疑問を持ってよく考えること悪いことではないが、しばしば私たちは、自分が何者か忘れ自分が考える神様のイメージで語ってしまう。そんな私たちにパウロは、陶器師と土の関係を示しながら(9:21)、人智をはるかに超えた神様の考えやあわれみを知りえない人間の立場を考えるべきだと述べている。神様は、不信仰を続けるイスラエルの民を滅ぼして栄光と正義を示すこともできたが、「滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださった」(9:22)上に、「神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださる」(9:23)ために用いられた。そのどこに人間の努力が入り込む余地があったのか。「わが民でない者をわが民と呼び、愛されなかった者を愛する者と呼ぶ」(9:25)と神様は語られたが、本来、私たちは被造物であり愛されない者であった。そのような存在を愛された神様のあわれみやご計画は、私たちの考えをはるかに超えていることを謙虚に受け止めるべきではなかろうか。
最後に「異邦人の中から召される神」について考えたい。律法を守ってきたイスラエルの民から見たら、神を知らなかった異邦人が救われることは、何の努力もしなかった人が難関大学に裏口から合格した様なものだろう。しかし聖書は、イスラエルに律法を与えられたのは、信仰によって「神の義」を求めるためだったのに、律法につまずいてしまったと述べている(9:32)。同様に「御怒りの子」であった被造物でしかない私たちが、神様のあわれみによって「神の民」となったことを、もう一度確認していきたい。
2019年9月8日「選びによる神の計画」(ローマ9:1~16)
牧師の恩師のひとりである天田先生は、新聖歌227番「キリストの愛 我に迫れり」を作曲したとき、キリストの愛が自分に迫りキリストの愛に満たされた経験したという。
ローマ人への手紙の8章で神様の愛を語ったパウロは、「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:39)と感動の言葉で締めくくっている。だが、それに引きつづく今日の9章は、一転、自分の哀しみについて語り始めている。キリスト・イエスの愛が満ちあふれたときにわいてきた時に彼が感じた痛みとは、同胞であるユダヤ人に関わるものであった。パウロの語る福音はユダヤ人の伝統的な宗教観に変革を迫るものであったため、多くの同胞はパウロに対して激しい怒りを感じていた。さらにパウロは、異邦人宣教のために神様に選ばれたことから、見方によっては「パウロは同胞を捨てた」と思われていた。しかしパウロの中には常に同胞への思いがあり、ユダヤ人が本当の意味で福音を理解して救われてほしいとの願いがあった。そのためには「この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」(9:3)と述べている。その直前に「どんな被造物も・・・引き離すことができない」(8:39)と言い切ったパウロが、同胞の救いのためならそれを引き受けてもかまわないと言うのである。現実のユダヤ人は神様に敵対していたが、本来は、神様によって特別な存在として取り扱われてきた民族である(9:4~5)。パウロは、自分を迫害し殺そうする同胞を愛しているからこそ、そんな同胞が自分か満たされた神様の愛に満たされていないことに痛みを感じていた。
第二に、「約束によるイスラエル」について見ていきたい。多くのユダヤ人が福音を受け入れずに神様に敵対している状況に対して、パウロは「神のみことばが無効になったわけではありません。」(9:6)と述べている。彼は、神様がユダヤ人を見捨てたのではないと述べ、ただ「イスラエルから出るものがみな、イスラエルなのではなく」(9:6)、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」(9:7)からだと述べている。ユダヤ人は「アブラハムの子孫」であることを誇っていたが、アブラハムは、イサク以外にも子どもがいて、創世記25章には妻サラの死後には再婚して6人の子どもを得たとある。だが聖書で「アブラハムの系譜」に数えられたのはイサクだけであった(→「旧約聖書を読んでみよう」の「イスラエル」参照)。聖書は血統ではなく、信仰を持ってキリストを受け入れるという「約束の子どもが子孫とみなされるのです。」(9:8)と述べている。
三番目に、「あわれみによるところの選び」についてである。イサクの妻リベカには兄エサウと弟ヤコブの双子がいたが、神様は胎児のうちにヤコブを選んだ(9:11)。もしユダヤ人が主張するように血統が重要であれば、この双子は同じように取り扱われたはずであるが、神様は「まだ生まれてもおらず、全も悪も行わないうちに」(9:11)にヤコブを選ばれた。そのことは人間的には不公平なことのように思える。だが本来、救われることがない私たちが選ばれるのは、人間の努力や思いでは不可能であり私たちが全く及ばない神様のご計画の中で一方的に愛されたからなのである。ユダヤ人は、私たちは、神様の愛で満たされた時に、ユダヤ人のように選ばれたことを誇ってはいないだろうか。むしろパウロが感じたように、まだ救われていない多くの同胞への痛みを感じて神様の愛を広めていきたい。
2019年9月1日「愛による勝利」(ローマ8:31~39)
信仰生活には様々な戦いがある。一般に、戦いで勝利を得るためには、人は相手の弱点を捜し、そこ攻めるようである。しかし、私たちの戦いはそのようなものではない。
今日のポイントの第一は、「神様が私たちの味方である」ということである。パウロは、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31)と強く断定している。パウロ自身、「患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」(8:35)というような苦しみは受けていた。彼は、詩編44:22を引用してその状態を「ほふられる羊」(8:36)と表現している。これは何も過去のことでなく、現在でも多くの国でクリスチャンの迫害はある(ある調査では、北朝鮮は17年間ワースト1位だったという)。しかしパウロは、8月18日の礼拝で述べたように「肉において」ではなく、神様が私のうちにあることを確信していた。彼は「私たちのすべてのために、ご自身の御子をさえ惜しまず死に渡された方」(8:32)が、どうしてすべてのものを恵んでくださらないのかと強く述べている。私たちは、神様によって圧倒的な勝利者となのである。
二番目のポイントは「神が義と認めてくださるのです。」(8:33)という点である。私たちは神を神と認めないようなあゆみをしてきた。しかし、その私たちにために神様はイエス様を十字架につけられ、本来、罪人とされなければならなかった私たちを「義=無罪」と認められた。それは、神様側からの一方的な宣告なのである。人間の側に立った時に、私たちは罪に苦しみ、また人の罪を指摘し苦しんできた。しかし絶対的な権威と力を持った神様が、私たちを義と認められた。そんな私たちを、自分自身を責める自分という存在を含め、どんな人が罪に定められよう。責められるべき私たちの罪は、「死んでくださった方」(8:34)とともにすでに死んだのである。私たちは神様に感謝し「よみがえられた方であるキリスト・イエス」(8:35)とともに、私の新しい生き方を築けばよい。
第三のポイントは「圧倒的な勝利者」という点である。信仰生活の中では、さまざまな困難や戦いが私たちに向かってくることがある。しかし、それは結果の見えない戦いではなく、勝利に終わることが約束された戦いなのである。このローマ人への手紙だけでなく、使徒の働きやコリント人への手紙にもパウロが直面してきた、そして、その後、彼が直面する多くの困難が書かれている。このローマ人への手紙を書いた時点であれほど熱望していたローマ行きも、さまざまな困難で達成できなかった。最後にパウロは、囚人として連れて行かれることでローマに行くことになるが、この時点ではそんな将来を考えもしていなかった。しかし、それはパウロにとって「敗北」ではなかった。実際、ローマにおいて囚人として二年間幽閉された家で「大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」(使徒28:30)とあったが、囚人となったのも神様の必然があった。クリスチャンの勝利は、人を打ち負かすことではなく、神様がともにいてくださる勝利なのである。パウロは、幽閉されたローマの家において「勝利の栄冠」を得たのである。
私たちは信仰生活において困難に直面することや信仰が揺さぶられることもあるが、その時こそ「神が私とともにおられる」という原点を見つめなおすべきであろう。
2019年8月25日「見てない望みと信仰」(ローマ8:14~30)
キリスト教信仰では、見えていないものの大切さを述べている。目で見るものがすべてではなく、たとえば愛、永遠のいのちなど、目に見えなくても大切なものがある。
今日の箇所に「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ8:14)とあるが、この言葉はユダヤ人が聞いたらひっくり返るほど衝撃的なもので、イエス様の裁判で、「ではあなたは神の子のですか。」と祭司長に問われてイエス様が「わたしはそれです。」と(ルカ22:70)答えたことが、神への冒涜であると死刑を決定的づけたほどの言葉である。しかも、パウロが手紙を出したローマの教会には多くの異邦人もいて、その人たちすべてが「神の子ども」になりうると宣言しているのである。かつて父なる神様は、私にとって恐ろしい方、私の罪を断罪する方であった。しかし今は「私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びかけます。」(ローマ8:15)という関係に新しく変えられ、全能者に対して、クリスチャンは、まるで子どもが親を慕うように呼び掛けられるようになった。
私たちは、神様の子どもとされて、この世においても、来るべき世においてもキリストと共に神の「共同相続人」(8:17)となった。ここで注意したいのは、私たちは、この世においてキリストと共に「苦難の相続」もしていることである。しかし「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足らないもの」(8:18)だと、パウロは述べている。実際、パウロ自身さまざまな苦難に直面してきた。普通なら、苦難を抱えきれなくなって信仰から離れてしまうかもしれない。しかしパウロは、神の子とされてキリストともに「共同相続人」とされたことが単なる思い込みではなく、「御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかし」(8:16)してくださったことを知っていた。さらに、この世の苦しみは、自分だけにあるのではなく、すべての「被造物」も「うめきとともに産みの苦しみをしていることを知って」(8:22)おり、「神の子どもたちの現われを待ち望んでいる」(8:19)状態であると知っていた。彼は、この苦しみは絶望に向かうものではなく、希望につながる「産みの苦しみ」として与えられたものと確信していたのである。その苦しみを、「アバ、父。」(8:15)への全幅の信頼を持って受け入れられるのかどうかが問われている。
最後に「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。」(8:26)とある。私たちは、時に「どのように祈ったらよいかわからないのです。」(同)と行き詰った状態に陥ることもある。しかし「祈れないから祈らない」ならば、神様との関係は失われてしまう。そんな、私たちが祈りを失い神様の前に立ちすくんだ時にも、御霊ご自身が私たちに寄り添い「言いようのない深いうめきによって、わたしたちのためにとりなしてくださいます。」(同)のである。それが神の子どもとされるということなのである。ローマ人への手紙8章28節は有名な聖句であるが、これはパウロ自身が様々な苦しみの中で、御霊ご自身によって取り扱われてきた経験からにじみ出た言葉であろう。彼が確信をもって述べた「神がすべてのことを働かせて益としてくださった」との言葉は、御霊がともにいてくださる私たちひとり一人にもあてはまる。父なる神様に全幅の信頼をおくことで初めて開かれる希望、そこに神の子ども=相続人とされたことの意味を見出していきたい。
2019年8月18日「いのちと平安」(ローマ8:1~11)
先週は、神の律法に反抗してしまう人間の姿を見てきたが、私たちは、自分の人間性や意志に関わらず私たちの内にある「罪」ゆえに神の律法に背いてしまう状態にある。それを解決できるのは、キリスト・イエスの十字架だけであると聖書は言う。浄土真宗の始祖の親鸞の考えに「善人なおもて成仏す、いわんや悪人をや」という「悪人正機説」があるが、これは自分の弱さや罪深さを知る「悪人」こそ、熱心に阿弥陀仏にすがるという考え方である。しかし、そこには自覚した弱さや罪をどう処理するかという点が欠けている。そこがキリスト教と決定的に違う。イエス様が十字架によって罪を贖ってくださった歴史的事実は重い。
今日の箇所には「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)とあるが、クリスチャンの中には「本当に自分は救われているのだろうか」と信仰が揺らいでしまう者もいる。しかし聖書は「決してありません」と強調し、「こういうわけで」(イエス様の十字架とともに罪が処罰された)という歴史的事実ゆえに、私たちの状態とは関係なく、すでに罪の処理が終わっていると述べている。例えるなら、自分が伊達政宗をよく知らなくても「伊達政宗がいた事実は変わらない」と同様の歴史的事実である。私たちは「罪」に囚われて、良いものを求めながら律法と反対の方向に向かったり他人をさばいたりしてしまう。その「罪」があることを認識するだけでなく、囚われた「罪」から解放される必要がある。だが聖書は「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放した」(8:2)と述べている。
次に肉から御霊に転換された私たちは、どう生きるべきなのか。「肉において」とは、私たち自身の「肉体」を指すだけでなく、人間が抱える弱さ、はかなさ、そして「死ぬべき存在」としての「人間の本質」をも指している。これは内側に「罪」が住み着いているゆえの私たちの本質である。罪に囚われ、自分が向かいたい正しさとは異なる方向に進んでしまう私たちは無力である。この傾向は、神様を求める霊的な部分において際立ってしまう。そこに恵みとして罪からの解放の方法を神様は与えてくださった。先ほどの「悪人正機説」のように、ただ罪深さを認識するだけでは神様が私たちを受け入れることはできない。それは神様の清さを否定することにもなるからである。そんなどうしようもない矛盾を神様は、御子イエス様を処罰し、私たちを贖うことで解決してくださった。だから贖われた私たちは、新しく生まれ変わり、「肉によって」ではなく、常に「御霊に従って歩む」(8:4)ように考えなければならない。「御霊に従って歩む」ところにあるのは、「いのちと平安」(8:6)である。聖書が約束し、御言葉によって明らかにした通り、私たちは「御霊によって」変えられたことを認識し、そこに立脚した生き方をしなければならない。本日の最後の部分(8:6~11)は、「肉の思い」と「御霊の思い」を対比させながら論じられている。最後に「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら…」(8:11)とあるが、これは仮定の「もし」ではなく、自覚を促し信仰を鼓舞する「もし」である。聖書は「キリストがあなたがたのうちにおられる」(8:10)事実を強調し、毎日の生活の中で「御霊の思い」のうちに歩んでいくことを望んでいる。
2019年8月11日「弱い私が神を喜ぶわけ」(ローマ7:9~25)
「深い川」という黒人霊歌(讃美歌第二編175番の曲)がある。かつて奴隷であった人たちは、日々の苦しい労働の中で福音に触れ、そこに希望を見出していた。奴隷制度は悲しい歴史ではあるが、実は、今の私たちも「罪の奴隷」であることを聖書は述べている。そしてこの奴隷状態を解放するのは福音=神の言葉でしかないと語っている。直前に「罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。」(ローマ6:22)とあるが、今日の部分は、罪から解放される以前の「罪の奴隷」の状態について、「私」という主語が多用されパウロ自身の告白として語られている。ここでは「律法」や「戒め」という言葉も並んでいるが、これは特定の宗教の戒律やローマの成文法のことだけではなく、律法のない者にも様々な形で語りかけてくる、私たちの心の中にある「良心」も含まれる。この心の中の「律法」に従って「正しい方向に歩む」ことを私たちは欲しているが、一方で、私の心の奥底にはそれとは全く反対の方向に導こうとする「力=罪」が住み着いている。自分の意志とは異なる方向に行ってしまうこのどうしようもない状態を、パウロは「罪の奴隷」と表現している。本来、「律法は聖なるものなのであり、戒めも聖であり、正しく、また良いもの」(7:12)であるにも関わらず、私たちの内側にあるこの「罪」によって「いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くもの」(7:10)になってしまう。私たちは、このような正しい方向に進みたいという心とそれに反発する心がある矛盾に折り合いをつけて(=うまくごまかして)日常を生きている。だが私たち人間は、本質的にこの逃れられない矛盾を抱えている。パウロが「私」という主語を多用しているのは、彼の個人的な告白を連ねて意味しているのではない。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っている」(7:15)というのは、「その私に悪が宿っている」(7:21)という人間共通の原理があるからであると説明している。多くの宗教は性善説に基づいており、その善を覆う悪を「清める」「祓う」ことで本来の清さに戻ることができると説く。しかし聖書は、私たちの中にあるのは「罪」や「悪」で、いくら正しさを語ろうとも、正しく生きていきたいと思っても、それに反発してしまうのが人間であると述べている。自分ではどうしようもない力、それが「罪」なのである。
「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(7:24)とパウロが述べているが、私たちは「正しい方向」は分かるが、そこに向かうことができないでいるみじめな「罪の奴隷」である。重要なのは、パリサイ人が言うように律法や戒めが示す「正しさを知っている」ことではなく、誰が私たちを正しい方向に導いてくれるかを知ることである。私たちは自らのプライド、生き方、経験、他人からの評価のため、自分が「罪の奴隷」であることをなかなか認めることができない。だが私たちが、自分では乗り越えることのできない深い絶望を認めれば、神様は一方的な恵みとして私たちが超えることのできない矛盾を解決してくださる。私たちが抱える問題の深さと、神様が与えてくださった恵みの大きさを考えるとき、私たちは、ただ「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝」(7:25)するしかないのである。
2019年8月4日「尊い働きのために」(ローマ6:12~23)
先日聖書を読んでいた時に、創世記の35:18が目に留まった。この箇所は、ヤコブの二番目の妻ラケルが出産する場面である。出産の苦しみの中で、死の直前にラケルは、その子を「ベン・オニ=苦しみの子」を呼んだ。ヤコブは、この自分が愛したラケルとの子どもを、「ベン・オニ」ではなく「ベニヤミン=右手の子」と名付けなおした。後の時代に、ベニヤミン族が罪を犯し、他のイスラエルの民族と敵対した時、滅ぼされかけてギリギリのところで一族が残った歴史があった(士師記20~21)。ローマ人の手紙を書いたパウロは、このベニヤミン族に連なっており(ピリピ3:5)、彼は「神のあわれみによって生かされた民族の出身」という意識を持っていたのであろう。私たちも、パウロのように、厳しい現実の中でどのように神様に従うことで歩む方向を見出すことが重要である。
今日、第一に見ていきたいことは、この現実の生活の中でどう生きていくかである。私たちが「自分自身を神への捧げもの」と考える場合、「不完全で、弱さがあり、汚れている私」が、本当に神様に捧げるに値するものであるかと考えてしまう。しかし、そういう自分を見るのではなく、先週の「自分は罪に対しては死んだものであり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者」(ローマ6:11)の言葉のように、そういった汚れをキリスト・イエスと共に死に、新しく生きた者とされたことに思いをはせるべきである。その上で「あなた方自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」(6:13)と命じられている。自分の意志や経験、感覚にとどまって判断しているうちは古い自分から抜け出ることはできない。しかし、私たちは「神様がしてくださった」恵みに立脚して、前に進まなければならない。
二番目に見ていきたいことは、「義の奴隷」としての従順についてである。私たちは罪から解放されている存在であるが、それは「以前は罪の奴隷であり、今は罪に対して死んでいる状態」なのである。聖書は「あなたがたは自分の身をささげて服従すれば、その服従する相手の奴隷」(6:16)となること、そして、服従する状態は「罪の奴隷」か「キリストの奴隷」しかないという。私たちは、罪からもキリストからも自由でいたいと考えるかもしれないが、現実は自由からは程遠い状態であり、心の深いところで何かの奴隷となっている。しかし、私たちが自分自身を「義の器として神にささげ」(6:13)ることで、私たちはキリストの奴隷となり、神様のみ言葉に立って永遠のいのちと恵みの中に生きていく状態となる。宮城県の米川町にある江戸時代のクリスチャンの殉教碑の横に200年生きる「豆柿」の木がり、宣教師によって、この地方にはなかった接ぎ木の技術で接ぎ木されたとの解説がある。私たちクリスチャンは、良い実がならない木をキリストに「接ぎ木」されたことによって「義の実」をならせるようになった存在である。聖書は、良い実をならさなかった私たちが、今は「罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る身を得たのです。」(6:22)と述べている。私たちは、罪の奴隷かキリストの奴隷化の二者択一しかない。そこに決断がある。私たちの決断は、今日この瞬間の決断だけではなく、後戻りすることなく永遠に神様に従って行く必要がある。そのような状態は不自由なんかではなく、自分ではどうしようもない生き方をしてきた私たちへの「神の下さる賜物」(6:23)なのである。
2019年7月28日「いのちの主と共に生きる」(ローマ6:1~11)
社会や人間関係が希薄になり個人の選択こそが重要とされる「個人化」が現代社会の特色の一つであるが、キリスト教信仰においても、この「個人化」が進むこともある。キリスト教の信仰は、もともと私と神様の関係においてなされるものであるが、それは私の小さな世界の中に神様を閉じ込めてしまうことではない。むしろ、私の世界の中の私が死ぬことで私自身が変えられ、そこから新しく創られることである。今朝のローマ人への手紙6章のテーマは、「罪からの解放」である。生まれながら滅びに向かっていた私たちが恵みによって救われるだけでは終わらない、罪から開放されて自由になる未来がその先にある。
今日の第一のポイントは、「キリストと共に死ぬ」ことである。この手紙を受け取るローマの教会の人びとは、パウロがかつてクリスチャンを迫害していたことを知っている。パウロ自身も自分の罪を自覚しており、それゆえ恵みの大きさを自覚しているが、中にはそれを見て「パウロのように罪を犯せば、神の恵みが分かるのではないか」と考える人もいた。しかし、この様な考えに対してパウロは「絶対にそんなことはありません」(ローマ6:2)と強く否定している。どんなに誘惑があっても、死人には罪を犯すことができない。同様に、「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた」(6:3)私たちはみな「キリストとともに葬られ」(6:4)「罪に対して死んだ」(6:2)者である。「私」というものを引きずっていると、自分を変えることはできない。しかし、「私は一度キリストと共に死んだ」ということを信仰の土台にすることで、「キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをする」(6:4)ようになるのである。多くの人はキリストの十字架刑は歴史上の話として信じるだろうが、復活については信じられないでいるかもしれない。だが聖書の作者たちは、聖霊に導かれながら書くべきことと書かなくてよいことを的確に分け、十字架の刑の具体的な描写よりも復活の確実性には力点を置いて描写している。このキリストの復活の確信にこそ、私たちの信仰の原点がある。
パウロは、「死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」(6:7)と述べ、それゆえ「キリストとともに生きることになる、と信じます」(6:8)と述べている。イエス様に出会う前に多くのクリスチャンを迫害した過去について、パウロは多くの批判も受けたであろう。しかし彼には、自分が立つべき場所は神の恵みによって「新しく生まれ変わった自分」であるとの意識があった。彼は、人の批判によって自らの過去と救われて以降の現在の間でゆらぐのではなく、死んでよみがえった者として、過去の自分をきっちりと決別している。聖書は「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだものであり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい」(6:11)と述べている。この「思う」は、日本語の「思う」よりも強い意志が入った言葉であり、自分自身がそのように意識を転換させるべきだという意味がこもっている。私たちは「キリストの十字架によって罪許された」ということで終わってはいけない。私は、そこで「キリストと共に死んだ」だけでなく、キリストと共に復活し新たに生まれ変わった者である。私たちは私自身の罪を自覚するだけでなく、罪と決別しキリスト共に生きる恵みにあずかったことを忘れてはならない。
2019年7月21日「いのちに至る恵み」(ローマ5:12~21)
先日亡くなられた元教団理事長の吉持章先生は、若いころ大工さんをされていたことがあり、牧師になってからもそれを引き合いに出して「土台が大事だ」「しっかりした柱や梁が必要だ」との例えを交えた説教をよくされていた。キリスト教信仰は、建物を建てることに似ており、信仰の土台は何か、柱や梁は何か、しっかり認識することが必要である。本日の箇所は、一読して何が書いてあるかよくわからない。しかし、そこには重要な考えが述べられている。
まず今日の箇所でパウロは、アダムにおける「罪」の性質に焦点を当てて語っている。この「罪」は、原語では「ハマルティア」と単数形で書かれており、神様から離れた「的外れ」な状態を表している。私たちは、日常生活の中で様々な罪を犯してしまうが、聖書の言う単数形の「罪」は、それらの根源となった「神様から離れた状態」を指している。最初の人アダムによって、私の中に「罪」が入り、その結果として私たちは「死」に捕らえられている。アダムの犯した問題が私の中に引き継がれている現実は、一見、不条理なことに思われる。だが、私が引き継いだアダムの「罪」を私の中に見つめることで見えてくるものがある。最初の人アダムが神様に反逆して知恵の実を食べたように、私の中にも神様への反逆ある。私たちは神様に敵対するものとなっており、この「罪」の結果としての「死」に直面している(→「旧約聖書を読んでみよう」の「アダムとエバ」参照)。その証拠に、私たちは、例えば植物のように「花が咲き、種をのこし、枯れていく」という生と死をサイクル自然の流れだと感じていない。「なぜ私たちは死ななければならないのか」についていつも考えているのは、私たちの「死」が自然なものでないからである。
二番目に見ていきたいのは、「キリストのひな型としてのアダム」についてである。聖書には「一人の人によって罪が世界に」(ローマ5:12)入ったと同時に、「アダムはきたるべき方のひな型です。」(5:14)とも書かれている。「ひな型」は本物の製品を作る前に造られ、その後、それそっくりな本物が作られる。重要なのはひな型ではなく、それによって作られた本物の方である。たしかにアダムによって「罪」が全人類に入ったことは、私たちには受け入れがたい事実である。しかし、アダムという「ひな型」によって示されている事実は、神様の恵みによって「ひとりの人イエス・キリストにより」(5:17)によって「いのち」にあずかれるという「神様の恵み」(5:15)が働いているという事実である。そして、イエス様の十字架によるこの恵みの賜物は、神様の一方的な愛がイエス様を通して「多くの人々に満ちあふれる」とパウロは述べている。
三つめに見たいことは、この恵みのすばらしさについてである。アダムの「罪」の結果として「罪」にあえいでいるすべての人は、イエス様を信じることで「すべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです」(5:18)と聖書は述べている。誰もが「死」から逃れられないように、神様の恵みも、イエス様を信じるすべての人がひとりとしてもれることなくあずかることができる。私たちの中の「罪」が罪を呼び、その罪が罪を重ねていく、それが私たちの歴史であった。その絶望の中で神様が与えられたこの圧倒的な恵みは、その状況一変させる力がある。その恵みにあずかるためには、自分の中にあるどうしようもない「罪」を認めると同時に、そんな私に注がれた神様の愛を知ることである。
2019年7月14日「苦難さえも希望に」(ローマ5:1~11)
人生においては、予想もしない苦難が巨大な壁となって立ちはだかり、希望を失ってしまうことがある。しかし人間が生きる上で、苦難を避けることはできない。それならば、どのように苦難に向かうかが問われてくる。先週、見てきたアブラハムが神様に受け入れられていく過程でやったことは、ただ神様を信じただけであった。聖書には「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ5:1)とあるが、本来、神様と敵対関係にあった私たちが神様に何かしていただくということは望み得ないのに、イエス様を信じるという一点だけで罪が許され神の国に招かれるのである。これは、人間の意志と言うより神様側からの一方的な「恵みによって信仰に導き入れられた」(5:2)ものである。私(牧師)が教会に行きはじめた若い時は「自分で教会に行き、自分で教会のことを判断してやろう」と構えていた。しかし長い信仰生活をふり返ると、そこに神様の導きや出会いがあったことが分かる。パウロも、その導きにあずかったことを「大いに喜んでいます。」(5:2)と最上級の喜びで表現している。
さらにパウロは「苦難さえも喜んでいます。」(5:3)と述べているが、これは必ず神の約束が成就されるという確信からくるものである。私たちが神様との関係を持たないならば、苦難は、孤独や恐れ、不安を抱え自分だけで対応することになる。しかし神様が私たちと共にいてくださる確信があれば、神様が最善に導いてくださることなる。ここで言う「忍耐」とは、ただ状況を我慢することではない。神様に導かれながら自分自身が変えられ、「神の時」を待つ時間となる。信仰を保ち「忍耐」をしつつ神様を信じて歩むことで、はじめて見えてくる世界がある。その時間が「希望」を生み出すと聖書は言っている。それは、祈ってすぐに解決が得るというご利益宗教の言う意味の希望ではない。苦難の中で神様に導かれ練られていくことからくる「希望」で、パウロも、その過程に表れる神様の愛に感動していたのではなかろうか。神様の愛が私たちに注がれている確信ほど力強いものはない。
さらに聖書は「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(5:8)と述べている。私(牧師)も、最初は「なぜ私が罪人なのか」と反発することもあった。「神様が自分を愛してくれるなど実感できない」と思う人も多い。だが神様は、私たちが何も知らずにどうしようもなかった時点で、命を懸けて愛してくださったのである。「苦難が忍耐を生み出し」「忍耐が練られた品性を生み出す」というパウロの言葉を、当時のローマの教会の人たちはどう受け止めたのだろう。だがパウロは、強い確信をもって畳みかけるように、イエス様の十字架の死が素晴らしいならば、イエス様の命にあずかれることは「なおさら」(5:9、10)素晴らしいと述べている。クリスチャンの「希望」とは、自分の小さな世界の問題を解決するだけではない、イエス様の復活にあずかり、未来にあっても永遠に神様とともに栄光にあずかれる「希望」なのである。それが、パウロが強く伝えたかった「大いなる喜び」なのである。
2019年7月7日「望みえない中での望み」(ローマ4:16~25)
間近に迫るはやぶさⅡの着陸が世界的に注目されている。現在、着陸時にアンテナは壊れないか懸念されている。アンテナがなければ電波が発信されていても何もならない。同様に、「信仰」という私たちのアンテナがなければ、神様のめぐみを受けることはできない。
今日第一に見たいのは、「信仰の保証としてのアブラハム」についてである。パウロは、彼が肉によるユダヤ人の父としてではなく、私たち異邦人を含む「アブラハムの信仰にならう人々」(ローマ4:16)の保証であると繰り返し述べている。それは神様の言葉がいかに信頼できるかを、信仰を持って人生をあゆむ私たちに、アブラハムの生涯を通して神様が啓示し保証しているということなのである。私たちの人生のあゆみにおいて、まったく予想のつかないようなことがおきることもあるが、その際、自分の過去の経験や考えの中に保証を得ようとしても見誤ってしまう。しかしアブラハムの生涯を見るとき、私たちは信仰の原点を見出すことができる。神様は、「望みえない」状況の中でも神様を信じて義と認められた(4:18)アブラハムの生涯を掲示された信仰することの保証をされたのだから、私たちは啓示された彼の生涯に照らし合わせて自らの信仰を見つめていく必要がある。
二番目に、そのアブラハムの生涯と信仰について見てみたい。アブラハムは当初、父テラに従って当時のメソポタミヤの中心地であったウルから出てハランに住み着いた(創世記11:31)。ハランで父が死んだときにアブラハムは故郷のウルに戻ることもできたが、彼は神様の呼びかけに応えて神様に従って人生をあゆむ決心をした(12:1~4)。しかし、そんなアブラハムも、現実には百歳になっても子孫が生まれず、「あなたの子孫を地のちりのようにならせる。」(創世記13:16)との神様の約束は実現不可能に見えた。しかし神様は、迷いの中にあったアブラハムに星空を示して、夜空の星のように子孫が増えることを約束された(15:5)。聖書は「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(15:6)と述べている。パウロは、そんなアブラハムを「不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず」「神には約束すされたことを成就する力があることを堅く信じました。」(ローマ4:21)と述べている。私たちは自分のせまい経験で信仰を判断しがちである。しかし神様を信じることによってこそ、私たちはいまだに経験したことのない神様の導きにあずかることができる。
三番目に私たちのことについて考えていきたい。アブラハムの決断は、彼個人の人生経験ではなく、新約の時代に「死者の中からよみがえられた方を信じる」(4:24)私たちのためにある。私たちが常識では望みえない死からの復活を信じることは、望みえない中で神様を信じたアブラハムと同じである。私たちは自分の狭い世界の中に閉じ込めて自分の「できる、できない」で神様の「できる、できない」を判断し、知らないうちに神様を矮小化してしまう。しかし聖書は、アブラハムは「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」(4:21)とあり、「それが彼の義とみなされた。」(4:24)とある。イエス様の復活を告白したはずのクリスチャンが、日常の問題に「望みえない」と考えることは信仰と言えるのだろうか。たとえ望みえない状況に直面しても、神様に対して心を開き、神の言葉に信頼して立っていくあゆみをしていきたい。