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2025年01月~最新のメッセージ

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 2025年03月23日「復讐をとどめる主」
 2025年03月09日「主の前での備え」
 2025年03月30日 「主に委ねたさばき」
 2025年03月16日「信仰による良心」
 2025年01月25日「危機における隠れ場」

​以前のメッセージ・ダイジェストはこちらをご覧ください。

2025年3月30日「主に委ねたさばき」(Ⅰサムエル26:1~12)

 私たちは一週のはじめである日曜の午前中を礼拝から始めているが、日曜の午前中だけを神様と過ごしているのではない。私たちの日常は常に神様とあり、神様を見上げて歩んでいく必要がある。今日の箇所も、サウル王を打ち取る絶好の機会であったが、ダビデは神様との関係を重要視した。

 今日は第一に「破れ口に立ったダビデ」について見ていきたい。このときサウル王は「ダビデはエシモンの東にあるハキラの丘に隠れているのではないでしょうか」(Ⅰサムエル26:1)という情報を受けていた。前回、ダビデがサウル王を手にかけなかったことに対して、反省と謝罪の言葉を述べたサウルの信仰(24:17)はどこに行ったのだろうか。この間に、お目付け役であった大祭司サムエルが死んだり(25:1)、サウルがダビデに嫁がしていた娘ミカルを他人に与えて縁を切ったり(25:44)した変化があったが実際は分からない。再びサウル王は、三千人の精鋭とともにダビデ追撃を始めた(26:2)。だがダビデは、その幕営にサウルを捜しに行った(26:5)。が、その意図は分からない。彼は破れ口に立とうとしたのではないか。「破れ口」とは、城壁が破壊されて敵味方が入り乱れて戦う場所を指す。そこに立つというのは、敵味方を取りなすことを指す。後に御子イエス様が神様と人間のとりなしをおこなったように、ダビデもサウルに神様への信仰を取り戻してほしかったのではないか。

 第二に「力による解決の拒絶」 について見ていきたい。ダビデと一緒にサウルの幕営を発見したアビシャイは「神は今日、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうか私に、槍で一気に彼を地面に突き刺させてください。二度することはしません」(26:8)と言った。ダビデの信仰を理解していたので、アビシャイは、このような絶好の機会は神様が与えられたものとしか考えられず、ダビデが罪の意識を持つなら自分が実行犯になると申し出たのである。私たちも、目の前にチャンスが来ると、神様が備えられた者だと勝手に判断しがちである。だがダビデは、冷静に「殺してはならない。主に油を注がれた方に手を下して、だれが罰を免れるだろうか」(26:9)と判断した。たしかに神様が「油を注がれた(神様の御心によってえらばれた)」人物を人間の判断で否定するならば、今後、様々な場面で人間の都合が優先されてしまう。神様の御心は、私たちが自分の都合で判断できるような浅いものではない。だからこそ私たちは人間的に絶好の機会であるように見えても、神様との深い交わりの中で御心を問うことが重要である。アビシャイはダビデとともに危険に身をさらした忠実な家来ではあったが、このときは神様の御心をご都合主義的に利用したとは言えないのだろうか。

 第三に「主に委ねたさばき」について見ていきたい。ダビデはアビシャイに「主は生きておられる。主は必ず彼を打たれる。時が来て死ぬか、戦いに下ったときに滅びるからだ」(26:10)と述べた。アビシャイからすれば、サウル王は王として天寿を全うするかもしれないことは「さばかれなかった」というように見える。多くの人も、死後の世界には何もなく多くの悪人が「うまいこと」をやって一生を終えることに不公平を感じている。だが神様がさばかれないことはない。実際、その後の戦いでサウル王は戦死して悲惨な死に方をするが、戦死しようが「時が来て死ぬ」としても同様な神様の過酷なさばきがある。ダビデは部下たちに「私は主に逆らって、主に油を注がれた方に手を下すなど、絶対にありえないことだ。さあ、今は、枕元にある槍と水差しを取って、ここから出て行こう」(26:11)と言った。アビシャイは「神様の御心だ」とサウルを殺そうとしたが、ダビデはサウルを殺すのではなく「槍と水」のみ盗って行った。その間、誰も起きずにその企みは成功した。そこには神様の御業が働いていた(26:12)。絶好の機会でありながら人間の判断に拠らず、神様の御心を深く考える機会を与えたことこそが、神様の御心であったことがわかる。ダビデのように神様の道からによる救いを待ち望みたい。

2025/03/30

2025年3月23日「復讐をとどめる主」(Ⅰサムエル25:2~10、23~26)

 テレビドラマで「倍返し」という決めセリフが流行ったことがあった。人の心には復讐心が共感をあったのであろう。復讐心はいったん燃え上がるとなかなか収まらない。これに対して聖書は愛と許しを説く。私たちは聖書から、復讐の倍返しではなく徹底した許しを学んでいきたい。

 今日は第一に「プライドが傷ついたダビデ」について見ていきたい。マオンはイスラエルの南部にある場所で、カルメルはサウルが自分のために記念碑を立てた場所である(Ⅰサムエル15:12)。ここに出て来るナバルは非常に裕福で、一方、ダビデの軍の若者たちは放浪の中で腹を空かせていた。そこでダビデは十人の若者をナバルのところに遣わして、あいさつを交わそうとした(25:5)。このときは羊の毛を刈っているときで、濃厚で言えば収穫の喜びのときであったので、そのあいさつは祝福でもあった(26:6)。またダビデの軍は、ナバルの三千頭の羊をボランティアで守ってもいた(25:16)。しかしナバルは、ダビデの祝福のことばを持ってあいさつに行った若者たちに「ダビデとは何者だ。エッサイの子とは何者だ。このごろは、主人のところから脱走する家来が多くなっている」(25:10)と、非常に冷たい侮蔑的なことばを返した。「エッサイの子とは何者だ」と言っていることから、ダビデのことを知らないわけでも彼の評判を知らないわけでもなかった。だが商売人のナバルは、神様の御心やイスラエルの国の動きなどには関心がなく、ダビデを単に「主人のところから脱走する家来」と切り捨てた。プライドを傷つけられたダビデは怒りに燃え、剣を持って攻めていくことを命じた(25:13)。サウルに対する自制心とは、まったく異なる態度で、矛盾する人の心の罪が見て取れる。

 第二に「弱さの中に立つとりなし」について見ていきたい。ダビデの燃え上がった復讐心に対してとりなす者がいた。この状況に気づいたナバルのところの名もなき若者が、ナバルの妻アビガイルに告げた(25:14-15)。これがダビデを復讐の罪から救う転換点となった。これを聞いた聡明なアビガイルは、ダビデの怒りを鎮める品物を用意し(25:18)、夫ナバルに内緒で自分のしもべの若者たちと運んで行った(25:19)。ダビデの四百人の兵に対して二百個のパンではとても足りないし、自分の身の安全だけを図るなら逃げ隠れするこころだが、彼女はダビデのところに行きとりなすことが優先された。彼女には、自分をさらして詫びれば、きっとダビデがとりなしを受け入れてくれると考えたのだろう。彼女は「ダビデを見ると、急いでロバから降り、ダビデの前で顔を伏せて地面にひれ伏した」(25:23)上に、その責任は自分にあると申し出た(25:24)。そこには徹底的なヘリ下りがあった。そのアビガイルの姿を見たダビデは、神を畏れへりくだる信仰者の姿を思い出したに違いない。それは責めを自分のものとして真正面から受け止めてヘリ下り、許しを求めるという、聖書が示すとりなしの姿がある。

 第三に「復讐をとどめられる主の働き」について見ていきたい。ダビデは「小童一人でも」残しておかない(25:22)という怒りに満ちていたが、そのダビデに対してアビガイルは「ご主人様。今、主は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます。主は、あなたが血を流しに行かれるのを止め、ご自分の手で復讐なさることを止められました。あなたの敵、ご主人様に対して害を加えようとする者どもが、ナバルのようになりますように」(25:26)と言った。ダビデはナバルを祝福しようとしていたが、ナバルのひと言で復讐心となった。それは愛の裏返しである。だが、ダビデの義は血を流すまでの正当なものだったか。アビガイルは「理由もなく血を流したり、ご主人様地震で復讐したりされたりすることが、つまずきとなり、ご主人様の心の妨げとませんように」(25:31)と述べたが、それは彼女の聡明さだけではなく神様に対する信仰心から出たものであった。そこに生きている神様の御心に対する彼女自身の信頼があり、それがダビデのたましいを救ったことにつながった。

2025/03/23

2025年3月16日「信仰による良心」(Ⅰサムエル24:1~15)

 「身の程を知る」という言葉がある。社会生活をする上で自分や相手の領分を知ることは必要である。信仰生活においても神様とは、人間とはどういう存在かを忘れると信仰生活から離れてしまう。神様に選ばれた純朴な青年・サウルが次第に自分の領域を超えた結果、神様から退けられてしまった。

 今日は第一に「サウルを討なかったダビデの信仰」について見ていきたい。このときサウル王はペリシテ人と戦っていたが、一方でダビデを討つことに執念を燃やしていた。「ダビデが今、エン・ゲゲィの荒野にいます」(Ⅰサムエル24:1)と聞いたダビデは、戦いから帰ってきた直後であるにもかかわらずダビデ討伐に向かった。そのときダビデの軍は寄せ集めの六百人で、対するサウルは「三千人の精鋭」(24:2)であった。このとき「サウルは用をたすために」洞穴に入ってきたが、その奥にはダビデとその部下が潜んでいた。これはダビデの軍にとって千載一遇のチャンスであった。部下たちも「今日こそ、主があなた様に、『見よ、わたしはあなたの敵をあなたに手に渡す。彼をあなたの良いと思うようにせよ』と言われた、その日です。」(24:4)と進言したが、ダビデはサウルの上着の裾を切り取るだけで討たなかった(24:4)。しかしダビデは「サウルは神様に油を注がれた者」という意識があり、自分が神様に選ばれた人をさばいていいのかという信仰があった。これは私たちの信仰においても同じである。自分の義ではなく、何が神様のみこころなのか深く考える必要がある。

 第二に「ダビデが感じた良心の痛み」について見ていきたい。ダビデはサウルを討つことをせず上着の裾だけを切り取ったが、そのことについても後に心を痛めた(24:5)。ダビデは「私が主に逆らって、主に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして手を下すなど、絶対にありえないことだ。彼は主に油を注がれた方なのだから」(24:6)とは言ったものの、裾を切ったということは、殺意を持って近づきギリギリで踏みとどまったことを意味する。さらに「上着の裾」という部分は、神様の祝福が流れ落ちる場所(詩編133:2)と考えられていた。つまり「上着の裾を切り取る」ということは「神様の祝福の広がりを切り取る」ことだとダビデは思った。しかもサウルは、自分の王位を守るためであっても現実としてイスラエルを守るために戦っている。本当に自分は、神様に逆らっていなかったのかとダビデは心を痛めたのだろう。ただ、その信仰は、部下から見たらリーダーがサウルを討たずに迷っており、現実の状況を水に信仰に固執しており優柔不断だと映っただろう。だが、そんな中でも「神の前にどうか」ということを神様と自分との一対一の関係で孤独に見つめて、神様の思いがどこにあるのかを考えていかなければならない

 第三に「信仰の良心の回復」について見ていきたい。自らの信仰を見つめなおし心を痛めたダビデは、なんと「ダビデも洞穴から出て行き、サウルのうしろから呼びかけ、「王よ」」(Ⅰサムエル24:8)と呼び掛けた。三千人の軍隊から身をひそめていたダビデの部下たちは驚いたことだろう。このときのダビデは、サウル王に弁明しているように見えて、実は神様に対する弁明をしているように見える。ダビデは上着の裾を見せて「あなたの上着の裾を切り取りましたが、あなたを殺しはしませんでした。それによって、私の手に悪も背きもないことを、お分かりください。あなたに罪を犯していないのに、あなたは私のいのちを取ろうと狙っておられるのです」(24:11)というダビデの訴えは、神様に対して先の行動は罪がないと弁明したものである。そして「どうか、主が私と間をさばき、主が私のために、あなたに報いられますように」(24:12)と神様に信頼して自分の義を前にしたさばきはしないと誓った。ここに神様に対するダビデの信頼が見て取れる。ダビデが清廉潔白な人生を歩んだとは言いきれないものの、神様に信頼してそのさばきを神様にゆだねてきた。そこに神様はイエス様の贖いを恵まれた。

2025/03/16

2025年3月9日「主の前での備え」(詩編26:1~12)

 先日、ある高齢者を訪問したところ、彼は「聖書を一日三章読む」というのを日課として、それが自分の力になっていると言っていた。私たちは日常の中で神様と交わる中で変えられ、希望を見出し、愛を見出していく。これが信仰者の生活ではないか。

 今日は第一に「主の前に心を明け渡す」ことについて見てみたい。ダビデは「主よ 私を調べ 心を見てください。私の心の深みまで精錬してください」(詩編26:2)と祈っている。ここでいう「心の深み」とは「腎臓と心臓」という言葉が使われており、愛情の湧き上がる所だと考えられていた。私たちは誰でも心の奥底に誰にも知られたくないものを持っている。だが病院に行ったとき「どこが悪いのか」と問診されたとき「どこが悪いか話したくはありません」とは言わない。同様に、自分の心の悪い所は、神様にさらさなければ先には進めない。そこには「あなたの恵みは私の目の前にあり」(26:3)と、神様との契約は決して変わらないという信頼がある。だからこそ、私たちは自分の心を主に明け渡すことで心の隅々まで調べてもらい、精錬していただく必要がある。

 第二に「主の前に誠実を保つ」ことについて見ていきたい。ダビデは「私は不真実な人ともに座らず偽善者とともに行きません。悪を行うものの集まりを憎み悪しきものとともに座りません」(26:4-5)と賛美している。クリスチャン以外は偽善者だとか悪者だとか言っているわけではない。だがクリスチャンも含めた人間全体は、偽善や悪に向かいがちである性質は持っている。だからこそダビデは、偽善や悪の方向に行こうとするとき、自分は「ともに行かない」「ともに座らない」という決断をしていきたいというのである。ダビデ自身の周りには悩みや問題を抱えた人たちが数多く集まっていた。その人たちを受け入れはするものの惰性によって相手に巻き込まれたりすることなく、私と神様との関係だけを見つめ日々の決断を行っていくという決意である。ただダビデ自身は、自分が清廉潔白であるといってはいない。「手を洗い自らの潔白を示します」(26:6)と言っているように、罪ある汚れた自分が神様と交わっているという自覚を、神様の祭壇の清めの儀式(出エジプト30:18)に例えて表現しているのである。「自らの潔白を示します」(詩編26:6)というのも、神様側からの恵みによって罪ある自分が潔白とされ、神様側からの歩み寄りによって神様への礼拝が成立することを自覚している言葉である。だからこそ「私はあなたの祭壇の周りを歩きます」(26:6)という喜びの言葉が出ているのである。

 第三に「第三に贖いによる感謝と賛美」について見ていきたい。詩編26編は「主よ 私を弁護してください」という、苦しい中でのダビデの叫びから始まる。しかし神様への祈りと交わりの結果、「主よ私は愛します。あなたの住まいのあるところあなたの栄光のとどまる所を」(26:8)という言葉に昇華している。「神は愛である」という言葉を聞いたことがある人は多いが、それを実感できない人も多い。だが私たちは礼拝の中でそれを実感する。これは「教会堂の中にしか愛がない」という意味ではない。神様の「住まいのあるところあなたの栄光のとどまる所」(26:8)のことである。ダビデはここで、「私のたましい」と「私のいのち」という大事な二つのことをあげている(26:9)。この大事なもの二つが悪とともに取り去られないようにと祈っている。私たちの人生が籾殻のように吹き飛ばされるか(1:1)、それとも神様のもとに価値ある者として愛を受けるのか。残念ながら多くの人は、このことについて無頓着で「神様を信じるのは個人の自由でしょう」と述べている。だが私たちは人生を空しいものとして終わらせるか否かは、神様を前にして「私は誠実に歩みます。私を贖いだしてください。あわれんでください」(26:11)と心をさらしだせるかにかかってくる。そのような「転換」が私たちに求められている。そこに人生の勝ちと希望を見出していきたい。

2025/03/09
2025/03/02

2025年3月2日「暗中に聴く主の声」(Ⅰサムエル23:1~13)

 私たちが行き詰まったり、どうしようもないとき、神様に祈ることが唯一の救いの道である。今回の箇所で、ダビデは2つの迷いに直面した。そのとき、どのようにダビデは選択を行ったのか。

 今日は第一に「ケイラの助けに答えるかという迷い」について見ていきたい。ペリシテ人に略奪を受けたケイラの人々は、王であるサウルではなくダビデに救いを求めた(Ⅰサムエル23:1)。このときダビデたちはサウル王の目から逃れるために、ケイラの町から5キロほど離れたアドラムの洞窟に隠れていた。ダビデと一緒にいたのは精鋭の兵士ではなく、さまざまな問題を抱えてダビデのもとへ集ってきた人々であった。そこから打って出るとサウル王に見つかってしまう。しかもサウルは、祭司アヒメレクの対応が気に入らなかったので、彼の一族を町ごと全滅させたような人物である(22:18-19)。ダビデだけでなく、部下も「ご覧のとおり、私たちは、ここユダにいてさえ恐れているのに、ケイラのペリシテ人の陣地に向かっていけるでしょうか」(23:2)と迷っていた。そんな中でダビデは「行って、このペリシテ人たちを討つべきでしょうか」(23:2)と神様に祈って問うた。さらに再度祈ったとき、神様は「あ、ケイラに下って行け。わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから」(23:4)というものであった。ゴリヤテを倒したときも、数々の戦功を挙げたときも、自分の戦いではなく神様の戦いであったことをダビデは知っていた。洞窟を出てケイラに行くことは、安全な生活を捨てて打って出ることである。しかしダビデも部下も一致して神様に従い、ケイラを救いに行って大勝利を収めた(23:5)。私たちは、ここに祈りのかたちを見ることができる。「自分たちはこうしたいのだ」とか「ケイラの人たちを助けてあげてください」という祈りもできたであろう。しかしダビデは、部下たちの気持ちや自分たちの状況を客観的に分析しながら、それでも「神様はどう考えているのか」を祈り求めた。

 第二に「ケイラから出て行くかという迷い」について見ていきたい。ダビデたちが懸念したように、ペリシテ人と戦ったことはサウル王の知ることとなった(23:7)。王は、城壁のあるケイラの町にダビデが入ったことで、探していたダビデを封じ込めることができたと考えた(23:7-8)。これはダビデの軍隊だけでなく、ケイラの町自体も封じ込めることとなった。ケイラの人々はダビデに救いを求め、共に戦い、勝利のあとはそこで人々と交わり洞窟では得られなかった安住を得ていた。しかしサウルは町を取り囲んで兵糧攻めを行い、ダビデを出さなければ町を破壊すると圧力をかけた(23:10)。ケイラの町の人々の心情としては「命の恩人であるダビデを差し出すとは考えたくもない。だが、このままでは町も家族も滅ぼされてしまう」というジレンマの状態にあったことだろう。たしかにダビデは自分たちの犠牲をいとわず神様の命令に従ってケイラの人々を助けた。ではケイラの人々も同じようにダビデたちにしてくれるとは限らない。ダビデは大いに迷った。そして切実に祈った(23:10-11)。さらにダビデは「「ケイラの者たちは、私と私の部下をサウルの手に引き渡すでしょうか」と祈ったところ、神様は「彼らは引き渡す」(23:12)と答えられた。ダビデからすれば、神様に祈って部下たちを説得して安全な洞穴から出て出兵しケイラの町を救ったのにとの思いがあるので、その答えはかなりショックなものだった。リーダーとしても部下たちに、なんと説明すればよいのかと悩む状況である。しかしダビデたちは神様に従って決断し、ケイラの町から出て行ってさ迷い歩くこととなった(23:13)。ダビデからしても、部下からしても、この一連の状況は割り切れないことが多いものだっただろう。だが聖書は、そのすべての選択の中に神様の導きがあったと説明している。その後のダビデ王の人生だけでなく、約500年後にバビロン捕囚から帰還したイスラエル民族がケイラを復活させる場面がある(ネヘミヤ3:17)。私たちが今目を留めるべきなのは、神様の導きを神様の視点で受け止めることである。

2025年2月23日「祭司アヒトブの死」(Ⅰサムエル22:11~23)

 人生の死生観について考えると、生きていることと死ぬことは強く関係がある。だが多くの人は、生と死を分けて考え、生きることだけに意味を見出しているように思われる。今日の箇所は祭司アヒメレクの理不尽な死についての描写であるが、そこに彼の神様とともに生きる意味を見出すことができる。

 今日は第一に「ダビデが見出したアドラムの洞窟」について見ていきたい。ダビデが逃げ隠れた洞穴には「困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。約四百人の者が彼とともにいるようになった」(Ⅰサムエル22:1)と聖書には書いてある。本来、「逃げ隠れている」ときに四百人もの人が集まれば、目立つし王ににらまれる危険も増大する。しかしダビデは彼らを追い払わなかった。ここにいたってダビデは、社会の中で虐げられ困難を抱えてきた人に目を留めるようになったのではないか。この経験は、後にダビデがどう生きるか、そしてどう国を作り上げるかという基盤となったのではないか。

 第二に「サウルによる国づくりの方向」について見ていきたい。サウル王の統制はダビデとは正反対であった。サウル王よりもダビデの方が民衆の人気は高かった。また民衆だけでなく兵の信頼も高かったので、サウル王はクーデターの心配を常にしていた。だから王は、近衛兵を自分と同じベニヤミン族で固めた上、彼らに「エッサイの子」つまりモアブ人の母を持つダビデが、「おまえたち全員に畑やブドウ畑をくれたり、おまえたち全員を千人隊の長、百人隊の長にしたりするだろうか」(22:7)と物的報償と地位で味方につけようとした。その一方で、ダビデに少しでも見方する者(22:10)には、峻烈な対応をした。サウルは、祭司アヒメレクに「「おまえとエッサイの子は、なぜ私に謀反を企てるのか。おまえは彼にパンお剣を与え、彼のために神に伺い、そうして彼は今日のように私に逆らって待ち伏せしている」(22:13)と追及した。アヒメレクにしたら「どうしてあの行為が」との思いだろう。だがアヒメレクはダビデを悪者にして自分だけが助かろうとはせず、「あなたの家来の中に、ダビデほど忠実な者が、誰かいるでしょうか」(22:14)とサウルに毅然と正しいことを言った。だがサウルは、その言葉も自分の行為を批判するように受け止めた。それが彼の処刑という結果を生んだ。アヒメレクが、自分の言葉が王を怒らせる可能背を考えなかったわけではないだろう。しかし祭司としては、権力者におもねるより、神の前に正しい行動をとることが重要だと考えたのではないだろうか。

 第三に「アヒメレクの死」について見ていきたい。アヒメレクの言葉に激しく怒ったサウルは、「アヒメレク、おまえは必ず死ななければならない。おまえも、おまえの父の家の者全員もだ」(22:16)と言い放った。サウルの「力による支配」が現れたひと言である。だが、神様や祭司を敬う王の近衛兵たちは、その命令に誰も従わなかった(22:17)。アヒメレクへの言いがかりとは違い、これは明らかな命令違反である。だが王は近衛兵たちを処罰したとも、王自らが剣を取ったとは書いていない。その代わりに王は、エドム人ドエグに命じて祭司の一族や町の者を皆殺しにさせた。ここにサウル王の性格がある。イエス様を十字架にかけた人々も、自分では手を下さず民衆を扇動しローマの権力を動かした。そこに大きな罪がある。皆殺しから一人逃れたエブヤタルは、ダビデにそのことを告げた(22:21-22)。たしかに命じたサウル王や直接手を下したドエグが一番悪いが、虐殺の原因となったダビデに対してもエブヤタルは複雑な気持ちもあっただろう。ダビデは、彼の抱える痛みを汲みとって「私があなたの父の家の者全員の死を引き起こしたのだ」(22:22)自らの責任も認めた上で、「私と一緒にいなさい。恐れることはない。」(22:23)と声をかけている。エブヤタルにとって、ダビデのこの言葉は自らの痛みを癒やし、励ましを与えるものだっただろう。

2025/02/23

2025年2月16日「宣教の教会」(マタイ28:16~20)

 今日は教会の総会の日である。そこで本日は「教会の福音宣教」について考えてみたい。イエス様の宣教のテーマは初めから「人々を神の国に招く」ことであり、そのために三年半、さまざまな出自の人々を弟子として訓練を行ってきた。

 1.「福音宣教の担い手としての弟子」

 イエス様が弟子に選んだ人々は、特別な地位や職業の人ではない「普通の人」であった。イエス様から弟子に選ばれて十字架までの三年半、彼らは福音宣教の訓練をされたが、弟子たちは最後まで本当にイエス様のことを理解できず、十字架のときには全員が逃げてしまった。しかし、その後、彼らは一人ひとり自分の内側にある「罪」に向き合った。イエス様の復活後、弟子たちは「ガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。そしてイエスに会って礼拝した」(マタイ28:16-17)と聖書にある。これは初めての「公の礼拝」であった。弟子たちの中に「罪の自覚」とイエス様を通した「赦しの確信」が芽生えたことが分かる。それに加えて、この礼拝に招かれているのは単に弟子たちだけではなくなっている。イエス様は「すべての人」を招いておられる。それが「公の礼拝」のもう一つの意味である。ただ聖書に「ただし、疑う者たちもいた」(28: 17)とあるように、単に礼拝に来て話を聞くだけでは意味はない。

 2.「福音宣教にともなう主の権威」

   イエス様は「「わたしは天においても地においても、すべての権威が与えられています」(28:18)と宣べているが、多くの人はその権威に対して反発の態度を示す。この時代、パリサイ人たちはイエス様の教えに民衆がなびくことに反発し、またローマ帝国はイエス様を十字架につけることでその権威を否定しようとした。詩編の8編では、天の月や星まで「指のわざ」(詩編8:3)とする神様の偉業と比べたとき、ダビデは「人とは何ものなのでしょう」(詩編8:4)と詠っている。イエス様は世界の基が定められる前からおられ、世界を創造された。その世界のすべての被造物は、愛なる神様の手にありその権威のもとにある。「最高の権威者」と自称した皇帝アウグストの権威も、聖書の預言が成就するための小道具としてわざの中に組み込まれていた。使徒の働きにおいて、使徒たちが大祭司たちに「何の権威によって」(使徒4:7)宣教しているのかと問われたとき、ペテロは「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従う方が」(4:19)正しいのかと問うている。

 3.「教会にゆだねられた福音宣教」

   イエス様は弟子たちを前にして「あなたがたが行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)と述べているが、これは彼らだけに言っているのではなく、その後、形作られる世界の教会にむけて宣べられたものである。そして教会は、単なる形式的な教えや儀式をおこなうのではない。「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」(28:19-20)と、神様とのつながりにおいて礼拝がなされるということが重要である。さらに「あなたがたが行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(28:19)というように、教会は出て行って異なる考えの人を招くことが求められている。イエス様の宣教のテーマは初めから「人々を神の国に招く」ことであった。単に「教会の外でメッセージを伝える」だけでは敗北が待っているだけである。人とのかかわりを少なくしようとする現代では、なおさらである。しかし私たちが、誰かに導かれて教会に足を運んで救われたように、私たちもまたイエス様の思いを実現し、「自己完結の信仰」を超えて新たな弟子たちを育てることが求められている。私たちにはできないことも神様にはできる。その側にはイエス様が常にともにおられる(28:20)。

2025/02/16

2025年2月9日「聖別されたパン」(Ⅰサムエル21:1~15)

   ダビデの生涯には多くの失敗がある。聖書はあえてそれらを記録している。読者が背後に働く主の恵みを知るためである。

1嘘による保身

   ダビデは、サウルの追跡を逃れてノブの祭司アヒメレクもとに来た。(1)祭司はダビデを確実に匿ってくれると考えたのであろう。けれどもアヒメレクは震えながらダビデを迎えている。対応次第で自分に災いが及ぶことを知っていたのである。このときダビデは、自分の状況について祭司に嘘をつく。殺意を抱くサウルに追跡さているのに、自分はサウル王の命令を遂行するため道を急いでいるのだと説明した。アヒメレクの警戒を解くためであったが、結果からみれば自分を見失っていく原因を作ってしまった。

2聖別されたパン

 空腹であったダビデは祭司に食べ物を求めたが、そこには聖別されたパンしかなかった。律法によれば、祭司しか食べることができないものである。けれども、ここでの祭司の言葉は、聖別されているならダビデも食べられるという意味を含んでいた。ダビデは「普通の旅でもそうですから、まして今日、(自分を含む)彼らのからだは聖別されています」という。

 主イエスは、パリサイ人と議論したとき、この出来事に触れている。「イエスは言われた。『ダビデと共の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、どのようにして神の家に入り、祭司以外は自分も供の者も食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか」(マタイ12:3.4)

 主イエスは、ダビデが信仰の行為として主の恵みを受け取ったことを強調された。アヒメレクもそうした理解の中で、ダビデに聖別のパンを与えた。人は、神の憐みと導きに、信仰をもって応答する中で聖別されていく。

3 人を恐れる罠

 ダビデは、自分の武器としてペリシテ人ゴリアテが持っていた剣を手に入れた。けれどもそれはダビデに勇気を与えるものではなかった。「その日、ただちにサウルから逃れ、ガテの王アキシュのところに来た」(10)ガテは、これまで戦ってきたペリシテ人の町である。国内に逃げ場を見つけることができないため、究極の選択として敵地に逃げたのである。当然、身分を隠してであったが、その企ては脆くも崩れてしまう。ついに、ダビデは惨めにも気がふれた者を演じて、アキシュの手から逃れる。ダビデがしたことは恥ずべきことであった。このときダビデは、ペリシテ人を欺き、自分自身を欺いていたからである。そこには神を恐れる信仰者の姿はなく、人を恐れ自らの姿を見失った滑稽さだけがあった。

 信仰者は神を恐れる者である。神はそこに聖なるパンを備えておられる。

2025/02/09

2025年2月2日「愛と真実の契約」(Ⅰサムエル20:1~17)

 聖書は「契約の書」である。約束には愛と真実がともっていなければならない。そうでないと「だまされた」とか「文面だけで実効力がない」とかのトラブルを招く。一方、聖書に書かれた「契約」は、愛と真実が一体として結ばれている。ダビデとヨナタンの契約もそうであった。

 1「契約による関係性の構築」

 人と神との契約では神からそれを破ることはない。破る可能性のあるのは常に人の側である。一方、神は愛と真実をもって契約を履行する。ダビデとヨナタンの契約は、愛と真実さにおいて神が結ばれる契約の要素を含んでいる。それは、ダビデがゴリヤテを破ってサウル王に召し抱えられた直後に結ばれた(Ⅰサムエル17:3)。そのときヨナタンとダビデとは大きな身分上の差があたったが、ヨナタンはダビデへ愛と真実を感じて契約をした。一方、ダビデの活躍を妬んだサウル王はダビデを殺そうとしたが、サウル王はヨナタンの戒めを聞き入れダビデを殺さないと誓っている(19:6)。だが王は、たちまち誓いを破って再びダビデを殺そうとした(19:10)。サウルから逃れたダビデは、そこで人間不信に陥るのではなく、ヨナタンと契約を再び結んで関係性を再構築した(19:12)

 2「更新した契約における愛と真実性」

 ダビデは、ヨナタンとの契約に自分の生き死にをかけた。「どうか、このしもべに真実を尽くしてください。主に誓って、しもべと契約を結んでくださったのですから。もし私に咎があれば、あなたが私を殺してください」(19:8)それでも王子ヨナタンは、「主が父とおられたように」(19:13)と、サウルが神に従って歩んできた時代のことを忘れられないでいる。その一方で「もし父が、あなたに害を加えようと思っているのに、それをあなたの耳に入れず、あなたを無事に逃がさなかったなら、主はこのヨナタンを幾重にも罰せられますように」(19:13)と毅然とした覚悟をもって契約を新たにした。さらに「主がダビデの敵に血の責めを問われますように」(19:16)と、違反した場合の条項を具体的に付け込んでいる。父サウルが「ダビデの敵」になるかもしれないし、サウル王の家のものとして「血の責め」を問われるかもしれない。それでもダビデに対する愛と真実を示す決心を示して契約を更新している。

 3「契約による主との関係」

 契約は本来、関係する二者の当事者間のものである。しかしダビデとヨナタンとの契約は、それぞれが神との関係において結ばれている。もし契約を破ったら「神が」ヨナタンを生かさないように(19:14)、それでいながら「神が」ヨナタンの子孫を消し去らないようにして欲しいというものであった。通常の契約は当事者のどちららかが死んだら終了する。しかし、これは神をはさんだ契約であるので、後に王となったダビデは、契約によってヨナタンの子孫を保護した。この契約における神との関係がイスラエルの歴史を作っていく。

 私たちクリスチャンは「兄弟姉妹」の関係があるが、それは人間による疑似的な家族ごっこではない。神を中心にした愛と真実の契約に基づく関係性なのである。だからこそ教会における関係性は、まず自分自身と神との関係性があり、それを前提にして「兄弟姉妹」との関係性を再構築する必要がある。神は、聖餐式に見られるように「契約」によって神と人との関係性を新たに構築してくださった。その関係性の中に現れた神の愛と真実をもう一度深く見つめなおしていきたい。私自身も神の愛と真実の契約を前提に、周りの人々との関係を再構築するために。

2025/02/02

2025年1月25日「危機における隠れ場」(Ⅰサムエル19:1~18)

 危機において隠れ家を持つことは、身の安全を確保することになる。ダビデはサウル王の妬みを買い、いのちが狙われるようになった。けれども主に油を注がれ方に立ち向かうことはできず、サウル王から身を隠す必要が出てきた。そのような経験を通じて、ダビデは「本当の隠れ家」を見出すようになった。

 1「サウルの誤りを正したヨナタン」

   サウル王の権力が強まるにつれ周りはイエスマンだけになり、誰もサウロを諫める人がいなくなった。そんな中で、息子ヨナタンは、ダビデを非常に尊敬し、深い信頼関係で結ばれていた。そこでヨナタンは、ダビデに危険が迫っていることを告げた。「父サウルは、あなたを殺そうとしています。明日の朝は注意してください。隠れ場にとどまり身を隠していてください」(Ⅰサムエル19:2)一方、父サウルに対してはダビデの無実を説得する。「王よ、しもべダビデのことで罪を犯さないでください」(19:4)「なぜ、何の理由もなくダビデを殺し、咎のない者の血を流して、罪あるものとなられるのですか」(19:5)最高権力者に対して批判をするということは息子といえども命の危険があった。彼がこんなことを言えたのは、神に視点が置かれていたからである。力ある者におもねるのではなく、神様に視点を置いて善悪を見ていく信仰が必要である。

 2「繰り返された愚かさ」

   ヨナタンの命がけの諫言をサウル王は受け入れた。そしてヨナタンに「主は生きておられる。あれは殺されることはない」(19:6)と誓った。喜んだヨナタンは、安心して「ダビデをサウルのところに連れて来た」そして「ダビデは以前のようにサウルに仕えることになった」(19:7)。だがペリシテ人との再度の戦いで、ダビデの軍が大勝利を収めたところ、王は再び妬みの感情に囚われることとなった。そして「サウルはダビデを槍で壁に突き刺そうとした」(19:9)ので、ダビデは逃げることとなった。サウル王が神様にかけて誓った言葉(19:6)が、あっさりとひっくり返されてしまった。感情は、人に人間味を与える大切な要素であるが、信仰が感情によって左右されてはならない。創世記でカインがアベルを殺したときも、神は「あなたはそれを治めなければならない」(創世記4:6)とおっしゃった。人間は大きな力を持つと感情を抑えられなくなるが、信仰はそれを抑えて神の声を聞くことからはじまる。

 3「隠れ場なる主の存在」

   サウル王の手はダビデの家まで及んだ。ダビデの妻ミカルは、サウル王の娘である。しかしミカルは、父であり王であるサウルに従うのではなくダビデを逃げるように説得し(Ⅰサムエル19:11)、彼を窓から逃した(19:12)。そして、そこにあった神像テラファムを代わりに寝かせて、偽装工作をした。使者たちは「あの人は病気です」(19:14)というミカルの言葉を信じた。けれどもそれを聞いたサウル王は、ダビデの病を疑い、「寝床のまま、私のところに連れて来い。あれを殺すのだ」(19:15)と命じた。その結果、偽装工作がばれた(19:16)。これを聞いたサウルは激怒し、娘ミカルを「なぜ、このようにして私をだまし、私の敵を逃がして、逃れさせたのか」(19:16)となじった。

 かろうじて危機を脱したダビデは、主こそまことの隠れ家であるとし、主を賛美する歌を作っている。「主はわが巌、わが砦、わが救い主」(詩編18:2)ダビデは困難な状況を「闇」「暗闇」「濃い雲」(18:11)と表現した。ダビデ自身の目には絶望的な状況しか見えていなかったが、その一方で神様に対する絶対的な信頼があった。そこで「主は生きておられる。ほむべきかなわが岩。あがむべきかなわが救いの神」(18:46)と詠っている。妬みや憎しみの中にあったサウル王と、どんな状況にあっても神様への信頼を失わなかったダビデでは、その人生が対称的である。そこに信仰者の歩むべき道が、明確に指し示されている。

2025/01/26

2025年1月19日「竪琴と槍」(Ⅰサムエル18:1~16)

 多くの人は「信仰を持つ」ことを「何か趣味や生き方のひとつ」と考えている。だが「自分の信じた信仰生活を送る」ことと「まことの神様に歩む」というのは表面的には似ているが根本的に異なる。自分のいのちや大切なものに固執することは、結局、神様のいのちを失うことになる(ルカ17:33)。

 今日は第一に「ダビデとヨナタンの結びつき」について見ていきたい。サウルは、ゴリヤテとの一騎打ちに勝ったのち、ダビデを自分のもとに呼び寄せた(Ⅰサムエル17:55-58)。ただ、これがサウル王とダビデの初顔合わせではなく、精神的に不安定だったサウル王を癒やすためにダビデが竪琴を引いて仕えたことはあるが(16:21-23)、戦士として認識したのはこれが初めてだった(17:58)。ダビデは「ベツレヘム人エッサイの息子です」(17:58)と自己紹介したが、この「ベツレヘム人エッサイ」はある意味有名で、異教の女ルツが曾祖母であり、彼は差別されていたモアブ人の血が入っていた(ルツ4:17)。しかしダビデは臆することなく、それを表明した。そんなダビデを自分の軍団の一員にするために、サウルは「ダビデを召しかかえ、父の家に帰らせなかった」(Ⅰサムエル17:2)。そして、このダビデをサウル王の息子ヨナタンは身分を超えて非常に大事にし、自分のよろいや武器をゆずり、お互いに契約を結ぶほどの友人関係を結んだ(17:3)。この関係は、神様を第一にして生きていたいという同じ価値観が基盤となり、後のイスラエルの政治や宗教に大きな影響を与えた。

 第二に「サウルが抱いていた妬み」について見ていきたい。召し抱えられたダビデは「サウルが遣わすところどこへでも出て行き、勝利を収めた。サウルは彼を戦士たちの長とした。このことは、すべての兵たちにも、サウルの家来たちにも喜ばれた」(17:5)という大活躍を治めた。もちろんサウルの軍は人数も兵装も充実したものであり、駆け出しのダビデの軍隊は比べ物にならないほど貧弱だっただろうが、それでもこの成果である。だから人々は「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」(17:7)と歌い交わしたが、これに対してプライドが高く、王として人々の評判を気にするサウルにとっては、許しがたいことであった(17:8)。彼の価値観の第一は「人々がどう自分を評価しているか」であった。その日からダビデは、サウル王にとって「自分の王位を脅かす存在」となり「ダビデに目をつけるようになった」(17:9)である。嫉妬にかられたサウルは手に槍を持ち、ダビデは竪琴を持っていた(17:10)。神様への賛美の音楽を奏でようとしているダビデと、嫉妬に駆られて力で相手をねじ伏せようとするサウル王のちがいが、「竪琴」と「槍」に象徴されているような場面である。今日も価値観の対立があるが、そのときに私たちは何を基盤に自分の生き方を選ぶだろうか。

 第三に「主とともにあるダビデの歩み」について見ていきたい。この場面では「サウルは槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろうと思ったのである。ダビデはサウルの攻撃から二度も身をかわした」(17:11)とある。「二度」かわしたということは、ダビデは逃げずにとどまったということである。さらにダビデは、その後もサウルの軍隊にとどまり戦い続けた。一方、サウル王は、敵対勢力であるペリシテ人ではなくダビデを恐れるようになった(17:12)。ダビデが変わったわけではない。彼の中の妬みや不安が、ダビデに対する恐れへと変わっていったのである。聖書は「主がダビデとともにおられ、サウルを離れ去られた」(17:12)「主が彼とともにおられたので、ダビデは、行くところどこででも勝利を収めた」(17:14)と繰り返している。ダビデは、この時点ではサウル王の軍団の市体調でしかなかったが、重要なのは「主がともにおられる」ことである。彼は神様とともにいて「先に立って行動した」(17:16)ため、兵たちに愛された。ダビデも人の評判に惑わされ不安に襲われることもあっただろうが、それより常に神様との関係を基礎に置いていた。それを第一にしてきたからことである。

2025/01/19

2025年1月12日「主は私の羊飼い」(詩編23:1~6)

 詩編は作られた年代ごとに記載されているわけではない。この詩編23編は、詩編の最初の方に記載されているが、ダビデの晩年の作だと言われている。そこには人生の後半になって神様とともに歩んできたダビデが、神様と歩んできた自分の人生を振り返って語った賛美だといえる。

 今日は第一に「主は私の羊飼い」について見ていきたい。私たちは自分の顔を考えるとき、三つの顔がある。すなわち「私が見る私の顔」「人から見る自分の顔」「自分がこうありたいと思う自分の顔」である。だが詩編23編の「私」は、このどれでもなく「神様との関係の中にある自分」である。ダビデは最初から王ではなく、幼いころに神様に見いだされ、戦いや苦悩の中で人生を送り、イスラエルを強大な王国にした。しかし詩編23編には、その驕りもなく悔やみも見られない。ただ「主は私の羊飼い。私は乏しいことはありません」(詩編23:1)と振り返っている。「羊」は縄を着けなくても、どこまでもついていく。そのときに重要なのはリードする羊飼いである。そして最高の羊飼いとしての神様に、自由である自分が神様についていく。そして最善の道にいつも導いてくださる。そういう関係を前提として神様を知ることは、自分とは何者で何をすべきかを見出すことである。

 第二に「私を活かす私の慰め」について見ていきたい。16世紀に書かれたカルヴァン派の「ハイデルベルグ信仰問答」の最初の問いは「生きているときも死んでいるときも、あなたの唯一の慰めは何ですか」というもので、その答えは「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」というものである。私たちは生きる中で、生きていく気力がなえて何が正しいかわからなくなるときがある。しかし神様は「主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます」(23:3)から、「たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから」(23:4)とダビデは吐露している。「死の陰の谷」と表現される私にとって非常に厳しく恐ろしいときでも、「私はわざわいを恐れません」というのである。そして、「羊飼い」である神様は「むちと杖」をもって導かれる。一見、「むちと杖」という暴力でもって導く「羊飼い」とは何事か、と驚く人もいつかもしれない。しかもダビデは「私の慰め」だとダビデは言っている(23:4)。これはどういうことだろうか。たしかにダビデは、人生の中で多くの裏切りや嘲り、家族の崩壊や息子の反乱を経験した。しかし、それらはもとをただすとダビデの罪から出たものであり、人生で味わったこれらの苦しみも、神様とダビデの信頼関係の中で見れば神様の導きや慰めがあったと思えるのである(Ⅱサムエル16:12)。

 第三に「約束されている慈しみと恵み」について見ていきたい。またダビデは、神様が「私の敵をよそにあなたは私の前に食事を整え頭に香油を注いでくださいます」(Ⅰサムエル23:5)と賛美している。「香油を注ぐ」ことは当時の最高のもてなしであり、原文では現在完了形となっている。ダビデの生涯は多くの敵に囲まれた苦労の多かった人生であったが、神様との関係で人生を振り返ったときに、彼は神様が常に最高の取り扱いをしてくださったと感謝と喜びを持ってふり返っている。そして彼の人生を追ってきたのは裏切りと苦しみではなく、まことに私のいのちの日のある限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう」(23:6)とも賛美している。たしかにダビデの人生は、常に敵に追われてきたともいえる。しかしダビデは、本当に追ってきたのは神様の「いつくしみと恵み」だと言っている。私たちは、このような神様を「私の羊飼い」と心に決め、この「羊飼い」についていこうと決めた。私たちは信仰を持って神様を見上げ、生涯にわたって主なるイエス様が「羊飼い」として導き、いつくしみ恵みを与えてくださる。そのような人生を歩む幸せを見上げていきたい。

2025/01/12

2025年1月5日「信仰によるチャレンジ」(Ⅰサムエル17:1~9,45~51)

 昨年からサムエル記について学んでいる。預言者サムエルが出てきた時代はイスラエルが宗教的な国家から王政に移行した時期である。そこで生まれたのがサウル王であり、その後、ダビデが油を注がれた。今日の箇所は若き日のダビデが活躍したもっとも有名な部分である。

 今日は、第一に「力の信奉者の限界」について見ていきたい。現実世界では力を信奉する考えが多く、キリスト教は現実を無視しているのではないかと見られることがある。このときペリシテ人とイスラエルが戦いのために対峙していた。聖書には「ペリシテ人は戦いのために軍隊を招集した」(Ⅰサムエル17:1)と書かれ、ペリシテ人は訓練された軍隊という組織が出て来ていた。これに対して、「サウルとイスラエル人は集まってエラの谷に陣を敷き」(17:2)とだけ書かれていた。ここに圧倒的な戦力の差があり、その象徴が戦士ゴリヤテといえる。彼は戦士で「六キュビト半」(17:4)つまり286㎝の身長で完全防備のよろいを着けていた(17:5-7)。ペリシテ人側も圧倒的な戦力差は分かっていたが、それでも戦えば死者が出る。そこで被害を最小限にするために、イスラエル人の戦意をくじく方法を取った。それがゴリヤテとの一対一の戦いの提案であった。力を信奉する者は力によって打ち砕かれる。力の信奉者であったサウル王は、ここで自分の力の限界に突き当たった。

 第二に「問題の本質としての信仰」について見ていきたい。サウルは「もともとイスラエルとはどういう存在であったか」を忘れてしまった。今、戦いを迫られている土地は、神様に導かれてエジプトを脱出してきたイスラエル人が、当時、そこに住んでいたカナン人を追いだして住むように神様から譲られた土地であった。イスラエルの民が神様に従って歩む限り、そこには神様とともにある安定した暮らしが与えられるはずであった。しかし民は周辺の民族の宗教や習慣を取り入れ、宗教的に堕落してしまった。そのような民に、神様は異民族をしかけ、神様とともにあれば勝利させ神様から離れた場合は打ち負かされるなど、たびたび民に神様に立ち返るように促した。このときも、サウル王もイスラエル人も、神様に立ち返るべきであった。しかし、その場にいた人々は「みな、この男を見たとき、彼の前から逃げ、非常に恐れた」(17:24)だけであった。一人ダビデの実が「この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣をそしるとは」(17:26)と憤った。しかし力の信奉者であったサウル王は、戦いを申し出たダビデをひと目見て無理だと言い(17:33)、せめて自分の防具を着せようとした(17:38)。だがダビデはそれを脱ぎ捨てて断わった(17:39)。彼は防具ではなく、神様の守りに信頼を置いていた(17:37)。私たちも信仰の戦いにおいて、神様の業が私の中に充分に働くために脱ぎ捨てなければならないものもある(コロサイ3:9-10)。それを忘れてはならない。

 第三に「信仰に立ったダビデのチャレンジ」について見ていきたい。よろいも剣も脱ぎ捨ててゴリヤテに立ち向かったダビデが手にしたものは、羊飼いの杖や石、投石袋であった(Ⅰサムエル17:40)。それは戦士ゴリヤテから見たら嘲りでしかなかった。だがダビデの神様に対する熱い思いはゴリヤテを恐れることなく立ち向かった。ダビデが見ていたのは武力ではなく「私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かう」(17:45)と神様のみを見ていた。結果、誰にも考えられないようなダビデの勝利となった(17:49)。思わぬ展開に群衆が呆然としている間にうつぶせに倒れたゴリヤテにダビデが駆け寄って「彼の剣を奪ってさやから抜き、とどめを刺して首をはねた」(17:51)。私たちは信仰生活の中で立ちはだかる問題に対して、恐れることや無鉄砲に走って行くのではなく、「今、自分はどこに立っているのか」「私は何を脱ぎ捨てるべきか」を考え、神様を見上げていけば神様は私たちに業を働かせてくださる。

2025/01/05

2025年1月1日「新しい業に歩む」(イザヤ43:16~21)

 この季節の美しい星を見ながら、何千年も昔の光が今を照らしている不思議を考えることがある。聖書のことばも、古い時代のことばが今の私たちを照らしている。預言者イザヤが活躍したのはイスラエルがアッシリアとエジプトという二大国にはさまれていた時代で、人々は不安な状態にあった。

 今日は第一に「先のことから離れる」ということについて見ていきたい。神様はイザヤを通して、イスラエルの民に「先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな」(イザヤ43:18)と語りかけている。「海の中の道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を引き出した主は」(43:16-17)というのは、出エジプトの出来事である。当時のイスラエルの民は、神様に導かれてエジプトを脱出した千年前の歴史に民族のアイデンティティを持っていた。それ自体は悪いことではないが、そもそも出エジプトは神様側の主体的な業である。にもかかわらず、イスラエルの民は、現在の危機的な状況の中で「自分たちが選ばれた民だから、再び神様は私たちを救い出してくれる」と自分たちの都合のよいよう考える利己的な意識が大きくなっていた。私たちも「信仰」と考えながら、神様の働きを都合のように考えてはいないか。だからこそ打ち砕かれヘリ下り神様の業を見上げるべきである。

 第二に「新しい種の業を見る」ことについて見ていきたい。神様は「見よ、わたしは新しいことを行う」(43:19)とイスラエルの民に語りかけている。この「新しいこと」とは、200年後にイスラエル民族に降りかかる「バビロンの捕囚と解放」と考えられる預言であり、この時点でバビロンの影も形もなく、民はそのことを想像もできなかった。しかし、その時点で神様の業はすでに始まっており、実際にバビロンからの解放と「シオンの復興」を目の当たりに見た民は「夢を見ているよう」(詩編126:1)と称えた。私たちは、私の一生の中で神様の業とその結果を見たいと思う。しかし神様は、私たちに働きながら、その業をずっと未来に大いなる結果をもたらすことはたびたびある。だからこそ私たちは、自分の思いの中で神様の業を判断せず、神様の視点から業がなされていることを意識していきたい。

 「あなたがたは古い人とその行いを脱ぎ捨てて、新しい人を来たのです」(コロサイ3:9-10)

 

2025/01/01

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