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2020年1月~2020年3月

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元旦礼拝

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2020/3/29

2020年3月29日「罪なきキリストの十字架」(ルカ23:13~25)

 毎日、新型コロナウイルスのことが報じられている。たしかに旧約聖書の時代は、神が「剣とききんと疫病」(エレミヤ14:12)で裁かれたが、私たちの生きている新約聖書の時代はそうではない。イエス様が「私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」(イザヤ53:4)のである。そのイエス様を「正義」の名のもとに裁いたのは人間の大きな罪である。

 今日の第一は、「罪なき人を罪としたピラトの罪」について考えたい。この時、イエス様はイスラエルの最高議会(→「聖書の舞台(人物・組織)」のさ行「サンヘドリン(議会)」参照)によりピラト(→「聖書の舞台(人物・組織」のは行「ピラト」参照)のもとに連れてこられた。彼らは「この人はわが国民を惑わし、カイザル(→「聖書の舞台(人物・組織)」のか行「カイザル(カエサル)」参照)に税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました。」(ルカ23:2)と、直前の裁判結果(22:70)とは異なることを話し、ユダヤ人の指導者でありながら「わが国民」「カイザル」と、まるで自分たちがローマ市民かのようにふるまった。だがピラトは、ローマへ反逆する言動がなかったことから「この人には何の罪も見つからない。」(23:4)と述べ、イエス様をヘロデ王に送り返した。だが、かの悪名高いヘロデ王(→「聖書の舞台(人物・組織」)のは行「ヘロデ」参照。この中の(3)ヘロデ・アグリッパ)でさえイエス様を罪に定めることができなかった。そこで最高議会は、再びピラトのもとへイエス様を連れて行ったが「あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりませんでした。」(23:14)と述べ、イエス様を「懲らしめたうえで、釈放」(23:16)した。そこには正義はなく、ただ群集におもねるだけのご都合主義な行動だったのである。

 第二に「十字架につける群集の罪」について考えたい。群衆は「この人をのぞけ。バラバを釈放しろ。」(23:18)と叫んだ。神様に選ばれて神様の言葉に歩んできたユダヤ人が神の御子イエス様を十字架につけろと叫び、ユダヤ人が「異邦人」と軽蔑していたローマの法律が無罪だと叫んでいたのは、何ということだろうか。このバラバ(→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「バラバ」参照)は「暴動と人殺しのかどで、牢に入っていた者」(23:19)であり、ローマへの反逆や犯罪の証拠は明らかであった。ピラトにとって、その様な人物を釈放することはローマ法を尊重している総督としては恥であった。しかし群集は「十字架につけるように大声で要求」(23:23)したので、バラバを釈放した。このように彼ら指導者たちの罪は明白であるが、それ以上に神の御子を拒否し闇の力におもねようとする民衆に、人間の本質的な罪が見て取れる。そして、忘れてはならないのは、私たち自身も神の御子を拒否した民衆の側にいることなのである。

 第三に「十字架につけられた私」について考えたい。民衆は確かにイエス様を十字架につけたが、同時に彼らが十字架につけられている。旧約聖書の時代、祭司や民が罪を犯した場合、「傷のない若い雄牛を、罪のためのいけにえとして主にささげなければならない。」(レビ4:2-3)とある。つまり罪の贖いとして雄牛を自分たちで連れてきて、自分たちで屠らなければならない。本来、十字架につけられるべき祭司や民衆がイエス様を連れて来て十字架につけた。それは、図らずも自分自身の罪の贖いのための行動であった。パウロは「私はキリストと共に十字架につけられました。」(ガラテヤ2:20)と述べているが、パウロも、私たち自身も、この民衆とともにイエス様を十字架につけ、そのことで同時に「十字架につけられるべき私」をイエス様によって贖われたのである。神の御子を十字架につけたほどの罪深さによって贖われたこと、そこまでして贖われた神様の愛の大きさを覚えたい。

2020/3/22

2020年3月22日「王の王であるキリスト」(ルカ22:66~21)

 教会暦では2月26日から受難節(レント)に入り、イエス様の十字架の苦しみを考える期間となっている。十字架の苦しみは、イエス様が私たちの罪を背負われたためである。私たちは、常にこの人間と罪の問題を見据えて行かなければならない。

 今朝の箇所は、十字架にかけられる前にユダヤ教の最高議会(→「聖書の舞台(人物・組織)」のさ行「サンヘドリン」参照)によってイエス様が裁判にかけられている場面であるが、イエス様と彼らの会話がまったくかみ合っていないことがわかる。祭司長や長老、律法学者たちが「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。」(ルカ22:67)と尋ねているが、この時代に「キリスト」と言えばイスラエルを政治的に解放してくれる「救い主」の意味が強かった。彼らの質問の意図は「ローマ帝国への反逆」を引き出すものであった。しかしイエス様は「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょうし、わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。」(22:67-68)と答えている。イエス様は、彼らイスラエルの宗教的な指導者が、どのように「神のキリスト」のことを受け取っているのか質問を投げかけているのである。この時、この法廷と同時に、いわば目に見えない神様の法廷が開かれ、裁いている祭司長や長老、律法学者たちが神様によって断罪されつつあることに注目しなければならない。イエス様は、神のキリストを信じない彼らの罪を指摘しつつも、「しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます。」(22:69)と述べた。ここで言う「人の子」とは、旧約聖書のダニエル記に「見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。」(ダニエル7:13)と預言された、復活、召天後に神の大能をまとったイエス様の姿を指す。人間的に見れば、この時のイエス様は、イスラエルの政治的救済が破れてローマ兵によって捕らえられ、裁判にかけられている絶望的な状況に見えた。しかし神様の視点からは、イエス様が「罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」(へブル1:3)という素晴らしい状況なのである。さらに最高指導者たちは、イエス様をローマ帝国に死刑囚として引き渡そうと「では、あなたは神の子ですか。」(ルカ22:70)と尋ねているが、これは自らを神と宣言するローマ皇帝への反逆を証明する質問であった。これに対してイエス様は「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」(22:70)とだけ述べている。これはイエス様が神の子としての自分を否定しない答えであるが、同時に、彼ら自身に「ローマ皇帝への反逆を引き出すため『キリスト(政治的指導者)』という言葉を引き出す」のか、それとも「イエス様のこれまでの働きを知り、悔い改めてイエス様をキリスト(人間を罪から救う救い主)と告白するのか」との決断を迫ったものである。

 だが彼らは「これでもまだ証人が必要でしょうか。」(22:71)と、ローマへの反逆の言質をとって勝ち誇った。それによって、目に見えない神の法廷では彼らの罪が明らかにされた。ユダヤ人の最高議会の人びとは、もしかしたら普段は善良で立派な人物であったかもしれない。しかし人間の頑なさは、イスラエルの宗教的最高指導者をもってしても自ら神様を否定する決断に導いてしまう。それが人間の罪の問題なのである。この人間の罪は私たちの中にもある。しかしイエス様は、そんな人間をも救おうと十字架につかれたのである。

記録者註

 今日のお話は、ローマの政治システムとイスラエルの最高議会(サンヘドリン)の役割りが分かっていないとよくわからなくなるので、僭越ながら記録者が調べたことを書きます。当時、ローマ帝国は配下においた国を最小の手間で支配するために、かなりの自治権を持たせていました。サンヘドリンは、司法や律法、行政権をある程度持たされていましたが、ローマから「国民を死刑にする権限」は与えられていませんでした(→「聖書の舞台(人物・組織)」のさ行「サンヘドリン」参照)。今日のお話の裁判の場面は、一見、イエス様が自分を「神の子」と自称したのが、神様に対する冒涜だとイスラエルの最高議会が激怒したようにも読めるのですが、メッセージの趣旨はそうではなさそうです。

 先の宣べたように、サンヘドリンはイエス様を死刑に裁く権限はありません。そこで、どうしても死刑にしたいサンヘドリンのメンバーは、必死に「キリストですか(ローマに歯向かってイスラエルの解放を目指していますね)」「神の子ですか(神を宣言しているローマ皇帝と自分を同列と見なしていますね)」と尋ねています。

2020年3月15日「真夜中に帰る主」(ルカ12:35~40)

 今日、私たちは先の予測がつかない時代に生きている。年明けにはオリンピックで沸き立っていたが、それが今ではどうなるかもわからない。そんな時代の中でも私たちの生き方がゆさぶられることのないようにしたい。教会は聖書の権威の上に堅く立っており、社会の状況に左右されず思慮深く判断しなければならない。コロナウイルスの問題についても、充分な配慮は必要であるが、神の前に集まる意味を忘れてはならない。今朝の箇所は、イエス様が弟子たちに「主の前に備える」ことを、婚礼に出かけた主人の例えで話している。

 今日第一に見たいのは「主人の帰りを待つしもべ」についてである。イエス様は「腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。」(ルカ12:35)と諭していが、これは「素早く動ける」「常に備える」状態である。このように教会は、社会に対して時代に対して常に「目覚め」、神様の前に正しい在り方を保つことが求められている。このたとえの中の主人は、長い旅に出かけたのではなく、婚礼に出かけたのですぐに帰ることは確実であった。その再臨までの短い間に求められているのは、「その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。」(12:36)という「再臨を待ち望む態度」だけである。主人=神様は「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても」(12:38)起きているしもべを見たなら、「主人の方が帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。」(12:37)というほどの喜びがあるという。再臨の日に備えて待つことが、神様に喜ばれる信仰のあり方なのである。

 第二に「権威と知識に対する警告」について見て行きたい。イエス様は「人の子は、思いがけない時に来る」(12:40)と言っているが、ペテロは、それが誰のことをたとえているかと尋ねている(12:41)。これに対して、イエス様は「その家のしもべたちを任されて」(12:42)いる管理者たるしもべであること、そして任された他のしもべたちに「食事時には彼らに食事を与える忠実な思慮深い管理者」(12:42)になるか、「下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始める」(12:45)のか試されている。そして忠実なしもべには「主人は彼に自分の全財産を任せる」(12:44)ほどの喜びと信頼が生まれる。私たちは神様から様々なモノや時、才能をあたえられ、それを用いる自由が与えられている。だからこそ、その与えられた自由を私たちがどのように用いていくかが問われている。

 第三に「再臨の備え」について考えたい。このたとえを話された時点で弟子たちは、「イエス様が十字架につけられ、私たちの罪を贖われ、復活し、その後、天に昇り、後の時代に再び来られる」という再臨について考えることはできなかった。弟子たちがそれを理解したのは、後に御使いによって説明された時であった(使徒1:11)。その後、弟子たちは「イエス・キリストの現われのとき」(Ⅰペテロ1:7)まで、「心を引き締め、身を慎み」(1:13)つつ「イエス・キリストの現われのとき」(1:13)まで待つようになった。私たちは目の前の事情のみに目を奪われがちであるが、「イエス・キリストの現われのとき」を基準にして生きていくことが求められる。「それがいつか?」、それを予測したり予言したりすることは神様の本意ではない。聖書は「マラナ・タ(μαράνα θά 主よ来てください)」で締めくくられている(黙示22:20)が、私たちは、それがいつであろうが備えられるような心構えで主を待ち望みたい。

2020/3/15
2020/3/8

2020年3月8日「最善の備え、最上の装い」(ルカ12:22~31)

 東日本大震災から9年となる。震災以前は「宮城県沖地震が来る」と言われていたが、実際はその想定が次々と崩れ、さらに大きな地震や津波が来てしまった。今回の新型コロナウイルスの流行でも、従前の備えや想定が次々に崩れている。私たちの備えには限界がある。今朝の聖書の箇所は、先週の「金持ち」のたとえと関係している。

 今日は、第一に「心配することの本質」について見ていきたい。先週の金持ちの問題は、自分のたましいの平安を「物との結びつき」で考えていた点にある。そこには物への強い誘惑があった。イエス様は、この金持ちを「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」(12:21)と述べ、「神の前に富む」ことこそが重要であると述べている。一方、弟子たちは、故郷や生業を捨ててイエス様に従って来たので貧しい生活をしていた。そのため、日常的に食べ物や着るものの心配をしていたであろう。その彼らにイエス様は「心配したりするのはやめなさい。」(ルカ12:22)と述べたが、これは「食べるものも着るものもない現実を忘れなさい」と言うことではない。貧しい彼らの心配も、金持ち同様に、たましいの平安を神様との結びつきでなく「物との結びつき」で考える愚かさに陥っていた。

 二番目に見たいのは「自然に掲示されている神の恵み」である。ここでイエス様は、人に嫌われがちな「烏」をたとえに出し、その烏でさえも「蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。」(12:24)と、神様に養われ、神様との関係の中で生かされている。ならば私たちも、神様との関係の中で生かされていることを覚えて、日々の仕事をすべきである。さらにイエス様は「あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。」(12:24)と述べられているが、それは人間が鳥よりもはるかに神様に愛されているというだけでない。そこには「あなたがたのうちでだれが、心配したからと言って、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」(12:25)という言葉があり、「鳥よりもはるかにすぐれたものなのに、なぜ愚かなことをしているのですか」と問いかけているのである。私たちは「神様の前に生かされている」ということを覚え、それを第一に考えて行かなければならない。さらにイエス様は、山の中で人知れず咲くゆりの花のたとえから、人知れず咲くゆりの花でさえソロモン(→「旧約聖書を読んでみよう」の「ソロモンの箴言」参照)以上の栄華をまとっていると言われた(12:27)。私たちは、自然の中に啓示された神様のめぐみに気づき、神様がいかに私たちを愛し養っているかを覚えて行きたい。

 第三に「求めるべき神の国」について見ていきたい。イエス様は「何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。」(12:31)と述べ、物ではなく、神様と私とのつながりを求め「神の前に富む」ことの大切さを説いている。弟子たちは着るものや食べるものについて心配していたが、それはイエス様に対する信頼を閉ざし、神様のめぐみについて心を閉ざしていることである。しかし、私たちは神様との関係に目を止めれば、神様は私たちにすでに多くのめぐみを与えてくださっていることに気づく。創世記に描かれたヨセフ(→「聖書の舞台(人物・組織)」のら・や・わ行「ヨセフ(ヤコブの息子)」参照)は、家族に裏切られエジプトで奴隷の生活を送った。しかし、そのつらい人生が、後にユダヤ民族を救う出エジプトの大きな出来事につながった。神の国を求めることは、私たちの想像をはるかに超えた神様の壮大な計画に自分をゆだねることである。

2020/3/1

2020年3月1日「失われない富」(ルカ12:13~21)

 新型コロナが流行っており、私たちの教会も充分な警戒をとっている(→「アルバム」の2020年3月1日参照)。警戒と言えば、今朝の箇所で、イエス様は「どんなどん欲にも注意して、よく警戒しなさい。」(ルカ12:15)と述べておられる。今日は第一に「世の相続と神の相続」ついて見て行きたい。この時、「群集の中のひとり」(12:13)が遺産について正しく裁いてほしいとイエス様に申し出た。この当時、遺産相続については律法に定められていたので(申命記21章)、普段のイエス様なら「律法に何と書いてありますか?」というかもしれない。だが、この時のイエス様は「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」(12:14)と述べ、「神の国の相続」という視点が欠けたこの人の姿勢を問題にしている。かつてアブラハムは「相続財産として受け取るべき地に行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くかを知らないで、」(へブル11:8)故郷を出て行った(→「聖書の舞台(人物・組織)」のあ行「イスラエルの民」参照)。彼が父であるテラの遺産にしがみつくのであれば、神様に従って出て行くことはなかっただろう。だが彼は、神様から受ける「相続財産」の素晴らしさを信じ、父からの財産に決別して旅に出たのである。

 第二に「我欲に支配された世の富」について見て行きたい。イエス様は「どんなどん欲にも注意して、よく警戒しなさい。」(ルカ12:15)と述べ、群集に富が有り余っている金持ちのたとえ話を話された。この金持ちのひとりごとには「作物」(12:17)「穀物や財産」(12:18)「自分のたましい」(12:19)など自分の事だけで、我欲を満たすことしか考えていないことがわかる。そして、彼は「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」(12:19)と、物や財産によって平安や希望を得ようとしていた。しかし、どこにその保証があるのだろうか。彼は、将来を今の延長でしか見ていない。そんな彼に、神様は「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえの用意したものは、いったいだれのものになるのか。」(12:20)と述べられた。

 第三に「神の富とたましいの自由」について見て行きたい。金持ちの行動と対照的にイエス様が求めているのは、「神の前に富む」(12:21)ことである。神様は、私たちが神様と敵対し滅びの中にあった時に、私たちの罪を贖い、神様との関係を回復してくださった。私たちは、神様から多くのものを与えられているが、それは自分の虚栄心を満たすためにあるのではなく、神様の栄光のために用いるためにある。先日、ラジオ番組のインタビュー取材を受けた際に、いかに多くの人びとの支援で教会ができたかを思い起こした。だが、支援が集まったことだけを人々を通して還元された「神の富」かというと、そうではない。「彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、惜しみなく施す富となったのである。」(Ⅱコリント8:2)とあるように、この世的には貧しかったマケドニアの教会には喜びがあふれていた。一方、先の金持ちは、地上の富に執着することで魂の平安を得ようとして失敗した。神様のみこころの中に生きていくことで、この世的な富に加え、それ以上に価値のある喜びや平安が内側から満ちあふれてくる生き方に変えられる。それこそが神様の与えてくださる「たましいの自由」であり、本当の意味での「神の富」なのである。私たちはどちらに優先順位を置くべきか、間違えてはならない。

2020年2月23日「幸いな人とは誰か」(ルカ11:27~32)

 経済的に豊かだと言われる日本だが、幸福度ランキングは、昨年度、186各国中58位であった。一方で、ランキングの高い北欧諸国も自殺率は高く、多くの人が孤独を感じている。幸福度は、経済的な満足や福祉の充実度では測れない。これに対し聖書が語る幸福は、平安や希望が人間の内側から湧きあがるものである。

 今日は、第一に「神の国の幸い」について考えたい。ここにでてくる女の人は、イエス様の言葉に感動して「あなたを生んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」(ルカ11:27)と叫んだ。しかしイエス様は「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」(11:28)と返している。これは「マリヤが幸いな人ではない」というのではない(→「新約聖書を読んでみよう」の「受胎告知」参照)。だが、それで神様のことばを行うことの祝福が見失われてしまってはならないというのである。

 第二に「幸いを見失っている人」について見て行きたい。イエス様は「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」(11:29)と言っている。ヨナは旧約聖書に出てくる人物で(→「旧約聖書を読んでみよう」の「ピノキオのモチーフ」参照)、敵国の首都ニネベの街に神様の言葉を伝えることを拒否し、三日間魚の中に飲み込まれ、苦難の中で神様の言葉を守る人へと変えられたのである。ヨナ自身もニネベの街の人びとも、神様の言葉を聞いて悔い改めた。だが、この時代のイエスらエルの人びとは、神様の「言葉」よりも「しるし=奇跡」を求める「悪い時代だ」とイエス様は言うのである。この「悪い」は、政治的な悪化でも道徳的な乱れでもなく、神様の言葉を求めない人間のかたくなさを指している。そして、この時代にイエス様が罪を背負って十字架にかけられて葬られ、三日目によみがえられた。これが唯一最大の「しるし」であることを忘れてはならない。さらにイエス様は、神様から知恵を聞きにソロモン王に会いに来た「南の女王(シバの女王)」(Ⅱ歴代誌9:1)の話をされた。神の知恵を知るために、彼女はあらゆる困難を乗り越え旅をしてきた。今日、私たちは様々な情報を簡単に得ることができるが、その欲求は神様の言葉にまっすぐに向けられているだろうか。

 第三に「神の国を見出すために必要なこと」について考えたい。イエス様は「幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たち」(ルカ11:28)だと述べている。別の箇所では「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人たち」(6:47)はしっかりとした岩の上に家を建てる人で、「正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかり守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」(8:15)と、みことばを受け止めることの重要さも述べている。そのような人のことをイエス様は、「私の母、私の兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人です」(8:21)と述べ、実際の人間的な評価や関係性ではなく、神の言葉に軸足を置くべきであると述べている。このようにルカの福音書では、何度も何度も「聞いて行う」ことの大切さを述べている。イエス様一行の接待に忙しくしていた姉マルタには、「主の足元にすわって、みことばに聞き入っていた。」(10:39)妹マリヤことを、姉マルタは人間的な視点から快く思わなかった。だがイエス様は、「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選らんだなのです。」(10:42)と、みことばを聞くことの大切さをマルタに諭している。私たちも忙しい日常生活の中でも、神様の言葉を聞いてそれ行い、神様の与えられる喜びや平安を受け止めて行きたい。

2020/2/23
2020/2/16

2020年2月16日「あなたの所にある神の国」(ルカ11:14~26)

 当教会の牧師も関わっていた私たちの教団の「東北宣教プロジェクト」(→東北宣教プロジェクト)では、震災支援を通じてキリストの愛を伝えようとしてきたが、必ずしも素直に受け取られない場合もあった。この時のイエス様の働きについても、誤解をもって受けとめたユダヤ人も多くいた。

 今日は、第一に「神の国のあかしと奇跡」について見て行きたい。今日の箇所でイエス様は悪霊を追い出して、口がきけなかった人を話せるようにした。識字率の低かった当時、話せないことは非常に苦しいことで、イエス様の働きによってその苦しみから解放された人の喜びはいかばかりだっただろうか。しかしパリサイ人(→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「パリサイ派(パリサイ人)」参照)の中には「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」(ルカ11:15)と非難し、不遜にも「イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいた。」(11:16)とある。今日でも私たちを縛る悪霊の働きがあるが、イエス様が口のきけなかった人の立場に立ちその弱さの中に働かれたように、私たちも弱さの中に苦しむ人々の中の立場に立つ必要がある。

 第二に「神の国はすでに来ている」点について見て行きたい。イエス様は「神の国はあなたがたに来ているのです。」(11:20)と明言しているが、ダビデ王やソロモン王の時代ころの繁栄した時代(→「旧約聖書を読んでみよう」の「ソロモンの箴言」参照)の到来を「神の国」だと考えていたユダヤ人たちは、ローマに支配された今の状況を認められなかった。さらに、そのような状況でイエス様が何を伝えても認めようせず、自分たちの思う「神の国」はまだ来ていないと考えていた。そのため、イエス様が語る神の国は、彼ら自身の間違いを指摘しプライドを傷つけるものとしか捉えられていなかった。だがイエス様、そんな彼らを見捨てず、「内輪もめ」の例えを出してサタンの業ではありえないことを説明し(11:17~19)、さらに「強い人=サタン」よりも、「もっと強い人=イエス様」が「襲って来て彼に打ち勝つ」(11:21)と話して、神の国への転換がまさに起こっていることを彼らに説明した。クリスチャンが信仰生活の中にあって、今までサタンの支配にあったものが神の国に移されつつあることを感じる時がある。その過程で今まで自分を縛っていた価値化や考え方、生活態度が変えられ、新しく生まれ変わるのである。これは神の国の「占領」が拡大していく戦いであり、それら私たちの日々の生活における戦いには、「神の指」(11:20)が働いていることに気付くべきであろう。

 第三に「神の国についての選択」について見て行きたい。イエス様は「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしのもとに集めない者は散らすものです。」(11:23)と述べておられる。イエス様は、汚れた霊を追い出して「家は、掃除してきちんとかたづいて」(11:25)いる中立の状態は、必ずしも良い状態ではないと述べている。自分で「きちんと」するだけでなく、イエス様の力の中に日々生かされることでしか悪の支配から解放されることはない。今日、自己啓発や自分自身の力で苦しみから解放されようとする。しかし私たちは自分の罪や弱さには無力であり、イエス様のみが罪に打ち勝ち私たちが罪からから解放される力がある。「神の国はあなたがたに来ているのです。」(11:20)とイエス様は言われる。神様は私たちとは離れたところではなく、私たちが抱える小さな苦しみや悲しみの中に働かれている。そのことを見出すことで、私たちは新しい自分として生きられる。

2020年2月9日「たたき続けた扉」(使徒12:1~17)

 アメリカの伝道師デービッド・ブレ―ナードは、1744年、26歳の時に先住民伝道を始め28歳で天に召されたため、活動期間は大変短かった。だが、彼の信仰生活について書き遺した『ブレ―ナードの日記』は、アメリカの精神史に大きな影響を与えた。このことを見ても、神様が祈りの中で、いかに大きな働きをなしてくださるか分かろう。

 今日は第一に、「ヘロデの迫害とペテロの祈り」について見て行きたい。イエス様の十字架と復活後、クリスチャンの増加に比例して人びとの憎悪も増してきた。それはクリスチャンのあかしが、人びとの罪を浮き上がらせることになったためである。特に、今日でてくるヘロデ(→聖書の舞台(人物・組織)のは行「ヘロデ」参照)は、ローマの威を借り民衆におもねることで権力の基盤を維持してきた人物である。そのため本来は正しく裁くべき王が罪のないヤコブを殺し(使徒12:2)、それが民衆の同調を得ると、次にヘロデ王はペテロを公開処刑するために(12:3)捕え、16人の兵士によって厳重に監視させた(12:4)。使徒ヤコブが殺され、ペテロが捕らえられたことは教会にとって大きなゆさぶりとなったであろう。しかし教会の人びとは恐れて逃げ出すわけでも、反対にペテロ奪還の武力蜂起をするわけでもなく、一網打尽になる危険を冒してまで集まり「彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」(12:5)。イエス様は「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)とおっしゃったが、私たちも困難な時にこそ祈り聖霊を求めていきたい。

 第二に「御使いによる解放」について見て行きたい。聖書を見ると、教会で人びとが祈っている同時刻に神様の業がなされていたことがわかる。御使いに起こされたペテロは、「急いで立ち上がりなさい。」(12:7)と声をかけた。この「立ち上がりなさい(アニステーミ)」は使徒の働きで35回使われている語であるが、「死人をよみがえらせる」「復活させる」という意味もある。つまり御使いの呼びかけは、死に直面したペテロに「よみがえって働きなさい」との意味もこめたのだった。ペテロの処刑は、ヘロデ王による人気取りや保身のためのものであった。だが、その処刑直前にペテロがいなくなったことで、王の面目は丸つぶれになった。ペテロを監禁する王の備えは完璧なはずであったが、神様の力は人間の考えを超えて圧倒的であった。祈っているその場所では何も起きてないように見えていても、思わぬ場所、思わぬ方法で圧倒的な神様の業がなされていることを私たちは覚えておきたい。

 第三に「祈りによる勝利」について見て行きたい。この時、人びとは教会として使っていた「マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家」(12:12)でペテロが助かるように祈っていたが、実際に祈った通りペテロが助かり、門前に立ってもその結果を信じられなかった(12:13~15)。ペテロは戸を「たたき続けていた。」(12:16)とあるが、それほど私たちは頑ななのである。私たちは神様に祈り求め続けるが、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく」(黙示録3:20)とあるように、同時に神様も頑なな私たちに対してたたき続けているのである。最初の『ブレーナーズの日記』には、祈りの中で神様の慰めと励ましをいただき神様との交わることで平安を得た日々が書かれている。私たちは祈りの中で求めたたくと同時に神様と交わり心を開いていきたい。

2020/2/9

2020年2月2日「主のための祭壇」(士師記6:25~32、ヤコブ5:13~15)

 娘さんの思い出によると、元同盟教団の理事長である安藤先生は、どれだけ忙しい時でも神様の前に静まる時間を持ち「いつも主の祭壇を築いていた」という。今週の箇所は、先週のギデオンと三百人の勇士によるミデヤン人との戦いから時間が戻ることになるが、その勝利の基となったのが「主の祭壇を築く」ことであったと考える。

 今日は、まず「祭壇を築く」ことについて考えたい。今日の箇所にギデオンが「主のために祭壇を築いた。」(士師記6:24)とあるが、祭壇を築くことは旧約聖書の当初からなされていた。ノアは洪水後の新しい世界で祭壇を築き(創世記8:20)、アブラハム(12:7)やイサク(26:25)も新しく与えられた地で祭壇を築いた。出エジプト以降に築かれた祭壇は(出エジプト27)、幕屋の中心に置かれる金がかぶせられたアカシア材で作られたものであったが、それ以前は屋外に石で積み上げられたものであった。ギデオンがこの時に石の祭壇を築いたのは、イスラエルの信仰を、もう一度、原点に戻そうという彼の決意からではないか。

 つぎに、ギデオンが祭壇を築いた意味について三つの面からもう少し深くみていきたい。第一に「焼き尽くす神との出会い」についてである。先々週の箇所で御使いと出会った時、ギデオンが用意したささげ物を御使いが焼き尽くしたとある(士師記6:21)。焼き尽くしたささげ物は「最も聖なるもの」(レビ記10:12)とされるが、ギデオンは図らずも最も聖なる神様と出会ったのである。二番目に「感謝の応答としての祭壇」についての意味がある。聖なる神様と出会って「死んでしまう」と恐れるギデオンに、神様は「安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない。」(6:23)と声をかけた。その神様にギデオンは、「祭壇を築いて、これを『アドナイ・シャロム』と名づけた。」(士師記6:24)とある。ここには神様と交わり、完全に受け入れられたことの平安がある。第三に、ギデオンの家にはバアルの祭壇があった(6:25)。神様は、これらを壊すことによってギデオンに自分の信仰を明確にすることを求められた(6:25~26)。ここに「バアル信仰との決別」という意味がある。

 最後に、「祭壇を築く」行為と町の人々との関係についてみていきたい。聖書の記述を見ると、このバアルの祭壇はギデオンの父の家のものであったが、家の中にあるのではなく、町の人々も礼拝できるものであったようだ(6:28)。そして翌朝、人々が見たのは新しく築かれた祭壇と全焼のいけにえの雄牛であった。この行為に対して町の人々の怒りは頂点に達し、父ヨアシュに「あなたの息子を引っ張り出して殺しなさい。」(6:30)とせまったが、彼は対峙する人々に「バアルが神であるなら、自分の祭壇を取りこわされたのだから、自分で争えばよいのだ。」(6:31)と答えた。地域の慣習に流されてバアル信仰を取り入れていた父も、ギデオンの行為によって本当の神様に立ち返り変えられたことがうかがえる。

 私たちが築く祭壇とは、祈りである。それは「神を神とする」ことであり、「私たちが神様によって新しくされていく」ことである。そして聖書は、祈りの中に神様が働かれると述べている(ヤコブ5:13~15)。さまざまな困難に直面する時、私たちは意識して祭壇を築く=祈るべきであろう。そして「あの時、何をどのように祈ったか」「その祈りの中で神様がどのように働かれたのか」を思い起こすとき、私たちの信仰は確かなものとなる。

2020/2/2

2020年1月26日「勝利を得る者」(士師記7:2~22)

 今年はオリンピックの年であるが、死期が迫る中でパウロが弟子のテモテに「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」(Ⅰテモテ6:12)と言ったように、私たちもまた信仰の戦いを戦っている。今日の箇所は、この主の戦いについて教えてくれる。

 今日第一に見たいことは、ギデオンと戦った三百人の勇士の話である。この時のギデオン側の兵力は合計3万2千人であり(士師記7:3)、兵力13万5千人 (8:10)のミデヤン人側と戦うには数の上で圧倒的に不利であった。ギデオンは、ミデヤン人を見下ろすハロデの泉に陣を敷き、少しでも有利になるよう人間的な知恵を絞っていた。だが神様は、不思議なことに「あなたといっしょにいる民は多すぎるから」(7:2)と言われ、その理由として「イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。」(7:2)と述べている。神様は「恐れ、おののく者はみな帰りなさい。」(7:3)と神様を信頼しきれない人を減らした上で、さらに「民はまだ多すぎる。」(7:4)と言って兵力を減らすよう命じた。「神の戦い」においては人間的な数は問題ではなく、本当に神様を畏れ信頼しともに歩もうとする人がいることが重要であった。教会も数や規模ではなく、教会の中にどれだけ神様を信頼して生きる人がいるかの方が重要である。最後に神様が選ばれたのは、戦いの前に武器をおいて犬が舐めるように水を飲んだり、ひざをついて水を飲む者ではなく(7:5)、戦いに備えて口に手を当てて水を飲んだ者であった(7:6)。この勝利は神様が与えるものであるから、どれだけ神様に信頼し、常に備えていることが重要だったのである。

 第二に、勝利の確信についてである。神様の命令で兵力を減らしたものの、本当に三百人で戦えるか、ギデオン自身も恐れが残っていたものと思われる。しかし、そのようなギデオンをも神様はきちんと取り扱い「若い者プラといっしょに陣営に下って行き、彼らが何と言っているかを聞け。」(7:10-11)と、二人だけで敵陣に潜入することを命じた。そこで彼らは、ひとりのミデヤン人が仲間に、ミデヤン人がギデオンに滅ぼされる夢を見たと話しているのを聞いた(7:13)。それによりギデオンは、神様がすでにミデヤン人の中にも働いていることを確信したのである。神様は、私たちの恐れも理解して下さり、ギデオンとは異なる形かもしれないが勝利を示し、信仰の勝利に導こうとしておられる。

 第三に「恐れから勝利へ」について見て行きたい。神様から確信を与えられた結果、ギデオンは「三百人を三隊に分け、全員の手に角笛とからつぼを持たせ、」(7:16)と具体的な戦略を指示することができ、恐れからあゆみへと転じることができた。彼は「主のためだ。ギデオンのためだ。」(7:18)と叫ばせが、それは、この戦いが勇士個々の戦いでなく神様の戦いであり、神様に命令されたギデオンとともに戦うことを明確にさせた。神様の戦いは、勇士の数ではない。どれだけ神様を信頼できるかである。このギデオンの戦いは、私たちの信仰の戦いについても多くことを示してくれる。私たちにも恐れがあるが、神様は戦いの前に私たちが勝利の確信を得られるように取り扱ってくださる。そのために祈りが必要なのではないか。私たちは13万5千人対300人の戦いにおいて、神様の取り扱いの中で恐れから解放され、勝利を確信し、信仰の勝利を得たギデオンの姿を覚えていたい。

2020/1/26
2020/1/19

2020年1月19日「主が用いられるとき」(士師記6:1~24)

 今日の箇所の士師記の時代は、紀元前1300年~1050年ごろで、イスラエルの民にとっての大きな出来事であった出エジプトの後の時代である(→「旧約聖書を読んでみよう」の「出エジプト(で海を割る話」「モーセの十戒」を参照)。その時に民を導いたモーセの後を継いだのが先週の箇所のヨシュアであったが、彼が生きている間に民族を導く後継者はでなかった。そのためイスラエルは部族ごとにバラバラになり、せっかく約束の地に入りながら、先住民を滅ぼすという神様の命令を実行せず堕落していった(→「聖書の舞台(生活・習慣)」のか行「カナン人の宗教」参照)。そんな民に神様は、異民族による侵略という形で警告を与えるが、神様は、その苦難の中で祈り求める声に、たびたび「さばきつかさ」を送って民を導こうとした。だが、その者がいなくなると、民は再び堕落することを繰り返した。士師記は、民の堕落と苦難だけでなく、何度も失敗する民を決して見捨てない神様の姿も記している。そんな中で立てられたギデオンは、士師記の中でも特別な存在だったが、彼も決して最初から信仰の篤い者ではなかった。

 一方、今日の箇所に出てくるミデヤン人も、同じアブラハムを祖とし(創世記25:2)、モーセの妻の民族だったが(出エジプト2:16~21)、イスラエルに堕落と不道徳を引き起こし敵対する存在となっていった。しかし神様は、あえて「彼らをミデヤン人の手に渡した。」(士師記6:1)ため、ミデヤン人はイスラエルに対して略奪を繰り返すようになり、そのため民は山の中や洞窟に住まざるを得なくなった。神様は、イスラエルの民の妥協と不従順がその状況を引き起こしたことを知らせるために「ひとりの預言者を遣わせた。」(6:8)ものの、やはり民は神様の命令に従わなかった。そこで立てられたのがギデオンである。

 この時、御使いは、ミデヤン人から逃れ隠れるように「酒ぶねの中で小麦を打っていた。」(6:11)ギデオンに、「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」(6:12)と呼びかけた。だがギデオンは、「もし主が私たちといっしょにおられるのなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょう。」(6:13)と答え、「出エジプトのころとは時代が違う」「主は私たちを見捨てた」と反論し、まったく信仰心のない状態であった。御使いが「わたしがあなたを遣わすのではないか。」(6:14)と述べた時も、「私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」(6:15)と拒絶している。しかし神様は、そんな「まったくない者」を用いられる。ギデオンは、超自然的な現象ではなく普通の人の様に接触してきた御使いを信用しきれず「お願いです。私が話しておられるのがあなたであるというしるしを、私たちに見せてください。」(6:17)と食い下がる。ただ、ここでギデオンの求めた「しるし」とは、海が割れたり岩から水が出たりするような超自然的現象ではない。彼は、捧げものの準備をして御使いの前に捧げ、御使いは火でそれを焼いた(6:18~21)。これは「礼拝」の古い形式であり、「神様がギデオンを受け入れた」という意味になる。イスラエルの民は、目前の安全だけを見て異民族となれ合ったが、そこには本質的な平安はなく、堕落による多くの苦難を背負った。一方、ギデオンは、ミデヤン人の襲撃に恐れ「主は私たちを捨てた」とまで思っていたが、神様に受け入れられたことで「アドナイ・シャロム(=主は平安である)」(6:24)という確信を得た。ギデオンのように何の力もなくてよい、神様がともにおられることを確信することで、私たちも本質的な「主の平安」にあずかっていきたい

2020年1月12日「ときの声と祈り」(ヨシュア6:1~21)

 今年の私たちの教会の目標は「祈る教会」であるが、祈りとは何であろうか。今日の箇所で神様は、エリコの街との戦いを通じて神様の導きに従うことの重要さを示された。

今日、第一に見たいのは、この「神様の導き」についてである。この戦いで神様は、イスラエルの民に町にあるもの「すべて剣の刃で聖絶」(ヨシュア6:21)するように命じられた。この部分だけ見ると「愛の神」との落差に戸惑うかもしれない。だが、それはイスラエルの民がこの地に戻ってくる時までに彼らの咎が満ちて、ついにさばきの時が来たということなのである(創世記15:16)。イスラエルの民も神様のさばきの道具として用いられただけで、「あなたが彼らの地を所有することのできるのは、あなたがたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。」(申命記9:5)と書かれている。ヨシュア記にたびたび使われている「聖絶」という言葉は、ヘブル語で「ヘーレムחֵרֶם」と言い神様のさばきとしての「完全な破壊」を意味する。ただ私たちが見るべきは、この破壊自体ではなく、神の清さが実現されるプロセスであることを覚えなければならない。かのモーセも、「イスラエル人の中で、わたしに対して不信の罪を犯し、わたしの神聖さをイスラエル人の中で現わさなかったからである。(申命記32:51)という理由で約束の地を眺められる場所で生涯を終え約束の地には入れなかった。あれほどの活躍をしたモーセ(→「旧約聖書を読んでみよう」の「出エジプト(で海を割る話」「モーセの十戒」を参照)に対して厳しいようにも見えるが、神様がいかに清さを大切にしているか、そこを考えなければならない。

 このエリコの町の住民は、神様の民と戦うことに恐れをなしていたが(ヨシュア2:11)、同様に、城壁に籠って鉄の武器を持ったエリコとの戦いを前に、ヨシュアが不安を感じていたことは想像に難くない。しかし、そんな彼に神様は「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。」(6:2)と完了形で話されている。ヨシュアがすることは、自分の力で勝利をつかむことではなく、神様の業を確認するだけのことである。私たちも祈りの中で行うべきことは、神様の御声を聞き、神様がすでに用意された業を確認することである。この時も、ヨルダン川を渡った時も「見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている。」(3:11)とあるように、神様が私たちに先に立ってくださる。エリコ攻略では、司祭がならす角笛の音のみが響き、民の声はまったく聞かれなかった(6:10)。通常の戦いでは、自分たちの力を誇示するために大きな声を出すが、この時、角笛の後を沈黙した民が弱々しくついて行くような不思議な光景だったことだろう。神様がこの戦いの中で民に求められたのは、自分の思いや行動で先走り自らの力に頼って戦うのではなく、神様の約束を従順に守る姿勢であった。私たちも、神様に祈り求める際には、自分の思いで先走るのではなく、神様に徹底的に従いついて行く姿勢が必要である。「民が角笛を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁が崩れ落ちた。」(6:20)とあるが、神様の時が来れば、御業が一気に成し遂げられる。イスラエルの民は、神様に従って成し遂げられたこの体験によって、信仰を深めたことであろう。同様に、私たちも祈りを通じ「あの時、祈り、神様によって成し遂げられた」という経験を繰り返すことで、神様との関係を深めることができ、神様が御業をなしてくださること確信できるようになる。

2020/1/12

2020年1月5日「最良の求め」(ルカ11:5~13)

 今年、仙台のぞみ教会は「祈りの教会」を目指していきたい。「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者は開かれます。」(ルカ11:9~10)を、私たちの教会の中心に考えていきたい。この箇所は、マタイの福音書にある「人に見せるために祈る偽善者の祈り」や「同じ言葉をただ繰り返す異邦人の祈り」(マタイ6:1~8)と対比されている。この直前に、弟子たちがイエス様に祈り方を聞いている(ルカ11:1)が、イエス様は具体的な祈り方を教え(11:2~5)、さらに、この箇所で二つのたとえで私たちが祈る時の姿勢について教えている。

 イエス様はまず、「真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちに来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。」(11:5~6)というたとえを話した。一般にパンは、その日の分しか焼かないため、真夜中に来た友人には「明日になったら焼くから、今日は我慢してほしい」と言えばいいかもしれない。しかし空腹でたどり着いた友人に、この人は「どうしても」何か食べさせてあげたいと思ったのだろう。これに対して頼まれた人は「『めんどうをかけないでくれ、もう戸締りもしてしまったし、子どもも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』」(11:7)と対応した。それでも、なおこの人は食い下がり頼み続けている。同じルカの福音書には、悪い裁判官に頼み続けるやもめの話もある(18:2~5)。私たちは人間側の論理で祈りをあきらめることもある。だが、それは祈りの中で神様がなそうとされている御業を塞いでしまうことになる。私たちは「祈り続ければ、神様の御業を働かせてくれる」という強い確信をもって祈り続けていく必要がある。イエス様は「求めなさい。そうすれば与えられます。」(11:9)と述べられているが、その道は私たちの願い通りの道ではないかも知れない。だが、神様はそれに代わる最良のものを用意されているかもしれない。だから「捜しなさい」とイエス様は述べられている。さらに、それは神様が最良の時に与えられるのだから、自分の時に与えられないからと言ってあきらめず、「たたきなさい」とイエス様は勧められている。

 イエス様のもうひとつの例えは、父親と子どもの話である。私たちの祈りは、私たちを深い愛を持て養ってくださっている全能の父なる神様に対してなのである。「子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与える父親が、いったいいるでしょうか。卵をくださいというのに、だれが、さそりを与えるでしょうか。」(11:11~12)と述べられているように、父なる神様は、神様への私たちの信頼に応えたいと思っておられる。神様は、常に私たちが願い考えていることよりも大きいことを考え、私たちに最良のものを与えようとされている。「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょうか。」(11:13)と、突然、聖霊の話が出てくれば、聖霊が与えられることが、私たちの願いや問題の解決に対してどれほど大きいことかと、イエス様は述べられている。

 今年のはじまりにあたって、祈る中で、あきらめず「求め続け」「捜し続け」「たたき続ける」ことをし続け、神様の愛に対する信頼をもって求め続けていきたい。

2020/1/5

2020年1月1日「新しいことの始まり」(イザヤ43:18~21)

 「今」という時が、歴史の中で私たちに与えられていることの不思議さを考える。今日の箇所では、神様によって新しい業が始められようとしていることが書かれている。イザヤ書は紀元前700年ごろに書かれたもので、この時代のイスラエルはアッシリアとエジプトという超大国にはさまれ、どのようにバランスをとるべきか人びとの心は揺れ動いていた。その中でイザヤは、目の前の大国ではなく神様の言葉に拠り立っていくべきだと述べている。

 今日の箇所には「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな」(イザヤ41:18)とあるが、この「先の事」とは「出エジプト」を指している(→「旧約聖書を読んでみよう」の「出エジプト(で海を割る話)」参照)。エジプトでの奴隷状態から神様に導かれて故郷に帰還した奇跡はイスラエルの信仰の原点であるが、イザヤはそれを「思い出すな」と述べ、さらに「見よ。わたしは新しいことをする。」(41:19)という神様の言葉を預言している。「出エジプト」にこだわることは、一見、信仰的に見えるかもしれないが、イザヤは、そのこだわりが、神様が新しくなすべき業を妨げているというのである。民は超大国に挟まれた状況の中で、「出エジプト」のように神様が外敵から解放してくださることを願っている。しかし神様がなそうとしていることは、現実の外敵からの解放ではなく、民自身の内面にある「罪」からの解放なのである。今日でも、私たちは「現実の問題」からの救いを神様に求めがちである。例えば、南米では「解放の神学」と言うのが提唱され、抑圧や貧困などの社会問題からの解放を聖書の中に見出していこうとする潮流があった。だが、それが聖書の語っている「罪の問題」を指し占めているか、現実社会における救いは聖書の指し示す「真の救い」なのか、考えていく必要がある。

 それでは神様は何をされようとしているのか。実は、このイザヤの預言から150年後にイスラエルがバビロンに滅ぼされ、民が捕囚として連れて行かれる「バビロン捕囚」が起きる(→「旧約聖書を読んでみよう」の「バビロン」参照)。この事件でイスラエルの民は、それまで持っていた選民思想を打ち砕かれるが、捕囚として生きる中で神様に立ち返り、やがてペルシャによって解放され故郷に帰還する。もちろんイザヤ書が書かれた時代にバビロンはまだなく、民を解放したペルシャ王クロスも存在しない。しかしイザヤ書には、出エジプトと対比して「見よ。わたしは新しいことをする。」(43:19)と書かれ、さらにクロスの名前も預言されている(44:28)(45:1)。批判学者は、これらの箇所は後の時代に書き足されたというが、旧約聖書であるイザヤ書がイエス様の存在を預言した部分もあり、その批判はあたらない。重要なのは、神様は常に歴史の中で私たちを導きつつ、私たちの「罪」から救いをなそうとされている事実である。「バビロン捕囚」も後の時代から見れば、イスラエルの民のプライドが徹底的に打ち砕かれ内面から変えられることになった事件であった。私たちは外側にある社会問題から解放されたいと思っている。しかし神様は、私たちの内面にある「罪の問題」について問いかけられている。神様は、私たちが「罪」の問題に向き合うように求めるが、突き放したりはしない。神様が、その問題を先に立って取り扱い解放へと導いてくださる。「確かに、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。」(43:19)とあるように、神様は確かに新しいことを始めようとしておられる。新しい年の始まりにそのことを確認していきたい

2020/1/1
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