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2019年4月~2019年6月

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2019630日「罪おおわれた人の幸い」(ローマ4:1~15)

東京基督教大学の山口先生は、東日本復興記録集の中で「この世の幸いよりあの世の幸いを求め生きた信徒たちの忍耐と喜び」が東北の切支丹の特徴であると述べている。例えば、関ヶ原の戦い後に伊達政宗に仕え、現在の水沢市の一部を知行した後藤寿庵は、後に幕府による切支丹取り締まりが厳しくなった折に、寿庵を惜しんだ政宗が「布教をしない」「宣教師を近づけない」ことを条件に信仰を許そうとしたが、これを拒否して殉教している。私たちはそんな先達の信仰から、神の国に生きていくことの大切さを想う。

今日の箇所で語られるアブラハムは、イスラエルの民にとって自分たちの信仰の出発点であり、自分たちの「父祖」でもあった。パウロは、この手紙を読者に「私たちの先祖アブラハム」(ローマ4:1)と呼びかけることによって、その中の多くのユダヤ人に語りかけた。創世記には、神様の言葉に従って故郷を捨て神様の示す地に行ったことや(12章)、神様の命に従い最愛の息子イサクを捧げようとした(22章)アブラハムの生涯が書かれているが、彼が神様によって義と認められたのは、これらの行いによってではない。神様に約束された相続人が生まれず思い悩んだ時に、星空を見せ「あなたの子孫はこのようになる。」(創世記15:5)と言われた神様の言葉を信じたからである(15:6)。たしかにアブラハムの信仰者としての行いは素晴らしいし、ユダヤ人はこのようなアブラハムの子孫であることを誇りにしていた。しかし、神様の前には、このような人間的な評価がしばしば神様のめぐみの大きさを見誤らせることにもなる。アブラハムが義と認められたのは、彼が「神のめぐみに対して心を開いて受け止めた」ことであり、それは行いの報酬ではなく、「何の働きもない」「不敬虔な者」も受け取ることができる神様からの一方的なめぐみなのである(ローマ4:5)。

 ユダヤ人が尊敬するダビデもまた姦淫や殺人の罪も犯している。だが彼は、それらの罪に対して悶々と苦しみ、その中で罪の赦しというものを確信するようになった(詩編32:1)。彼はその喜びを「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、その罪をお認めにならない人は。」(詩編32:1)と語っている。私たちは罪によって神様から遠ざけられているが、自分では罪を取り去ることができない。だからこそ人は苦しむのであるが、その部分に神様がめぐみとして働いてくださっているのが「罪の赦し」である。このことは人間の行ないからでなく、人間側からすると受け身であり、「神様への信仰」によってのみなされるものである。私たち自身が行いによって罪をどうにかしようとすることは、このような神様のめぐみを妨げることになるとパウロは述べている。アブラハムが割礼を受けたのは、信仰によって義と認められてから13年もたってからである。だからパウロは、義と認められることは割礼の有り無しとは関係はないと述べている(ローマ4:10)。アブラハムの信仰にならうと言うということは、彼の行いのならうというのではなく、彼が立った神様との約束を素直に受け入れることである。先ほど述べた山口先生は、震災のことについて切支丹のことに触れ、短期的には人間として思い悩むこともあるが、長い視野の中で神様の義に生きることの大切さを述べておられる。そして、そのように神様を信じる信仰こそが義と認められるのである。

2019/6/30

2019年6月23日「信仰による神の義」(ローマ3:19~31)

 初めて教会に来て、一番わかりにくいのが「罪」という言葉のイメージである。ある人たちは、罪とは人間的な弱さ、能力的な弱さと考える。罪をミスやエラーのように修正可能なものととらえる人もいる。しかし聖書の中でいうところの罪とは、そんなものではない。罪は罪を生み、人間は罪を持ったままでは決して神に受け入れられない。清い神と罪ある私たち人間は相入れないのであり、信仰によってしか神との関係は回復できない。

 そもそも私たちは、自分の個人的な怒りの気持ちには敏感だが、神が人間の罪に怒っておられるとは考え及ばない。パウロは「ローマ人への手紙」の1〜3章で、私たちは神の怒りを受けるべきであると語る。そしてユダヤ人が拠り所としてきた律法と、信仰による神の義の関係を説明している。

 律法とは、私たちに罪が見えるよう神が示されたものであり、プールの中でゴーグルをかけると鮮明に水中が見えるように、人間にとって何が正しいのかわかるためであった。しかし今や、イエス様が私たちの代わりに罪を負ってくださり、私たちの罪を清めてくださった。律法が無意味なのではない。申命記30章14節には「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。」とある。実は聖書全体、人は信仰によって神の義を知るのだと繰り返し語っているのである。

 私たちは、神様ご自身がなだめの供え物としとくださったイエス様の贖いによって、買いもどされたのである。神の清さが全うされながら、私たちが受け入れられる道を作ってくださった。

 パウロは3章27節で「…私たちの誇りはどこにあるのでしょうか」と、ユダヤ人と律法と信仰の位置づけに切り込んでいく。誇りとは、自分が立つ基盤という意味である。ユダヤ人は自分たちを律法を持つ者として選り分けることを基盤としていた。その基盤は、より広い世界に導かれたのだからもう必要なく、取り除かれたのである。信仰による義は律法を無効にするのではなく、かえって律法を確立するものであるとパウロは述べる。ユダヤ人も異邦人も、信仰によって差別なく互いに関係でき、差別されない。

 イエス様は私たちの罪を背負って十字架にかかられた。私たちは、この与えられた福音の恵みをもう一度受けとめる必要がある。そうしてこそ、確信を持ってあゆみ出すことができる。

2019/6/23
201/6/16

2019年6月16日「罪からの破壊と悲惨」(詩編14、ローマ3:1~18)

 人びとに福音を受け入れやすくするために「神の愛」を強調する伝道が多いが、この手紙の中でパウロは、第一章では異教徒の不義と不敬虔への、第二章ではユダヤ人への「神の怒り」を伝えている。しかしこの手紙が、当時、よく行われた問答形式の修辞法で書かれていることからもわかるように、これらは教条主義的な批判ではなく、「何とか分かって欲しい」、「一人でも救われて欲しい」というパウロの思いがあふれている。

 今日の問答でパウロは、「では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。」(ローマ3:1)と問い、「第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。」(3:2)と答えている。彼は第二章で、罪においてギリシャ人もユダヤ人も変わらないと述べたが、ここでは他の民族と異なり神様の言葉をゆだねられてきたユダヤ人の特別さも認めている。しかし、それは神様の一方的なめぐみだった(申命記7:7~8)。にもかかわらず、彼らは、その責任の重さを忘れて他民族を見下すようになった。同様の責任は、私たち現代のクリスチャンや教会にもある。ただパウロは、「彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。」(3:3)と問い、「絶対にそんなことはありません。」(ローマ3:4)と強く否定し、「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。」(3:4)と述べ、人間側に問題があっても神様の真実や十字架の救いはゆるがないと述べている。

 つぎにパウロは、「もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるのでしょうか。」「怒りを下す神は不正なのでしょうか。」(3:5)「『善を現わすために、悪を使用ではないか』と言ってはいけないのでしょうか。」(3:8)とも問うている。日本においても、島原の乱後に天草の地で仏教の復興を目指した江戸時代の仏教僧の鈴木正三が、著書『破吉利支丹』で同様の批判をした。また昭和の保守論客である山本七平は、キリスト教は善を勧めながら悪を広めている。神様がイスラエルをさばくのは、神様がイスラエルの悪を通じて自分の義を表すためではないかと論じた。しかしパウロは、それは神様を冒涜するとんでもない考え違いであると否定している(3:9)。このように、人の罪の深さを自覚せず神の義や十字架の救いについての論理を組み立てると、その理解はちぐはぐなものとなってしまう。

 さらにパウロは、詩編の14編を引用して「義人はいない。ひとりもいない。」(3:10)、「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。」(3:12)と述べている。「ひとりもいない」とは、罪の問題は自分も例外ではないということ、だが一方で「すべての人」とあるが、「わたしだけの問題ではなくみんな同じだ」と安心するべきではないこと。パウロは、イザヤ書を引用して神様から離れていることの悲惨と虚無の深さを述べ(3:12~18)、このような人びとを神様がさばかないことがあるのかと問いかけている。しかし神様は、ただ「私たちを追い詰めよう」とか「私たちをさばこう」としているのではない。私たちを何とか救いたいと考えている。そのためには罪を自分のこととして自覚して、初めて神様がなしてくださっているわざの大きさを理解できる。そのような福音のめぐみを感謝し、今こそ神様の言葉がゆだねられているという重さや責任を自覚していきたい。

2019/6/9

2019年6月9日「御霊による心の割礼」(ローマ2:17~29)

 今は、車で知らない場所に行くのにもカーナビ等が迷うことなく行き先を導いてくれる便利な時代になった。今日は聖霊降臨日(ペンテコステ)であるが、人生の行き先を的確に導いてくださるのが聖霊である。聖霊とは、父なる神様から与えられた「もうひとりの助け主」(ヨハネ14:16)であり、「あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたに話したすべてのことを思い起こさせてくれる」(14:26)働きをしてくださる。聖霊が私たちの内側に働かなければ、聖書を正しく理解し、力強い信仰生活を送ることができない。

 今日の箇所はユダヤ人に特化して語られている。子どものころから聖書(現在の旧約聖書)を教え込まれていたユダヤ人は、聖書についての圧倒的な知識を持っており、その知識が初期のキリスト教会で「聖書とは何か?」を伝えるための核となっていた。だが一方で、彼らは「自分たちは特別なのだ」という選民意識を持ち、自分たちは異邦人と同じように神様のさばきを受けることはないと考えていた。このような考えは、「自分もまた罪人である」という罪の問題を見えなくし、「自分は罪人としてその問題に痛み、苦しみ、もがいている」、だから「イエス様の十字架がないと、その問題から抜け出すことはできない」という福音のめぐみが伝わらなくなってしまう。これは「愛、清さ、正しさ」だけを伝え、「罪」の問題を抜きに語ろうとしがちな現在のクリスチャンも陥りがちな問題である。聖書は、御言葉の前にユダヤ人もギリシャ人もローマ人も、みな同じであると述べている。

 ユダヤ人の中にあったもう一つの問題は「形式的な信仰」というものであった。「割礼」は、ユダヤ人としての信仰の証しとなってが、その結果、「無割礼」の異邦人を侮ることにもなっていた。だがパウロは、割礼を受けていない異邦人がキリスト者的な生活をしている一方で、割礼を受けたユダヤ人が割礼を受けたことで満足し不道徳な状態にあることを問題にしている(ローマ2:21~24)。今日の最初に「信仰生活を導いてくださるのは聖霊である」と確認したが、私たちは「神様の前に罪ある者であり、その罪を自分自身では解決できない」だからこそ「イエス様の十字架にあずかり、聖霊に導かれて生きる」生活を選んできた。旧約聖書の歴史は、神様が細心の注意と特別なめぐみをもって導いてきたのにもかかわらず、ユダヤ人が神様から離れて不信仰になっていった失敗の歴史でもある。しかし神様は忍耐とめぐみをもって彼らを導かれ、律法の契約を、「心に記された契約」にひとり一人が生きていく契約へと更新された(エレミヤ31:33)。そして、新しい契約のもとで生きる民が神の民であると聖書は述べている。パウロも「外見上のユダヤ人がユダヤ人でなく、外見上の割礼が割礼なのではありません。」(ローマ2:28)と言い切っている。そして「人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人」(2:29)であるのは、心の内側で神様と自分の関係で、神様の前に正しく歩んでいきたいと思う心こそが重要なのである。そして御霊が「何が正しいことであり、何が間違ったことなのか」を教えてくださる。律法を誇りにしていたユダヤ人に対して、パウロは「その誉は、人からではなく、神から来るものです。」(2:29)と述べている。自らを誇るのではなく、神様の前にあって私たちの罪を自覚し、福音のめぐみに与って聖霊に導かれて生きることを、「神から来る誉」であると聖書は述べている。

2019/6/2

2019年6月2日「慈しみと悔い改め」(ローマ2:1~16)

 思春期の時期には、自分を特別なものと考え他人の忠告や意見を聞かない、俗に「中二病」と呼ばれる時期がある。こうした傾向は自己形成の過程で必要な面もあるが、それがずっと続くことは好ましくない。先週の箇所でパウロは、神様から離れた人間の「罪」の帰結を述べたが(1章29~31節)、私たちはそれを自分のこととして受け止めることができるだろうか。罪の自覚がないと、神様の備えられた福音の働きについては理解できない。

 今日の第一の指摘は、「神様の前に私は罪人である」という自覚についてである。他人をさばくことは、「自分は罪から遠い」との考えからくる。預言者ナタンが「富む者が貧しい者の唯一の雌羊を取り上げる話」をして、どう思うかダビデ王に尋ねたところ、ダビデは「そんなことをした男は死刑だ。」(Ⅱサムエル12:5~6)と怒りをもって答えた。だが、それは部下であったウリヤを死なせて彼の妻を自分のものとしたダビデの行動そのものであった(12:7)(→新約聖書を読んでみよう「五人の女」参照)。他人をさばく時は見えなくなる自分の罪も、神様の言葉に触れることで自覚することができる。「ローマ人への手紙」を書くときにパウロが念頭においたユダヤ人たちは、自分たちは異邦人とは異なり神様のさばきの外にある選びの民であると考えていた。しかしパウロは、ユダヤ人も異邦人と同じく生まれながらに神様のさばきを受ける存在であり、ただ今は神様が「豊かな慈愛と忍耐と寛容」(ローマ2:4)をもって私たちの悔い改めを待っている期間だと述べた。宗教によっては死後の恐怖や神への畏れによって罪を自覚させる方法をとっているが、私たちが悔い改めをするのは恐怖からではなく、罪を自覚した上で、その私が神様の慈愛の中に生かされているという福音の働きを受け止めたときである。

 第二に、私たちは他人をさばくことによって罪を積み上げているという指摘である。罪を自覚せずに放置すると、罪が罪をつくり上げ、その行動は神様の前に罪として積み上げられていくことになる。パウロは「信仰による義」を主張しているが、行動を否定しているわけでも、信仰と行いは別物だと言っているのではない。「ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになるのです。」(ローマ14:12)とあるように、いずれ神様の前に自分の行いの「会計報告」をし、それに対して責任を取らなければならない時が来る。そんな自分が福音によって、その負債の一切が贖われているのだという自覚に立てば、他人をさばいたり、「自分だけでなく他の人もしている」という言い訳をしたりはできない。

 第三の指摘は、神様は公平な方であるという点である。ユダヤ人は、律法を持つ民であることに誇りを持ってきた(→聖書の舞台(人物・組織)あ行「イスラエルの民」参照)。だが聖書は、律法を持たない異邦人も、罪を自覚するための神様の律法が生まれつき刻み込まれていると述べている(2:14)。一方、律法を与えられたユダヤ人も、それだけでは意味がなく、与えられた律法を通して罪を自覚し、神様の救いの中でしか生きることはできない自分を自覚してこそはじめて意味があるものとなる。ユダヤ人であろうとも異邦人であろうとも、すべて私たちは罪を自覚し、神様のあわれみによって新しく変えられなければならない。それが悔い改めである。神様の御言葉に対して「それは私の問題だ」と罪を自覚することはつらいことであるが、その先には神様の慈愛の道が備えられている。そのような神様の福音にあずかる生き方をしていきたい。

2019526日「魂の暗黒からの救い」(ローマ1:1832

 私たちが人生の中で、神様を知ることは大切なことである。先週は「神の義」がテーマだったが、これは倫理的な意味と言うより「神様が私たちを救おうとしている」という「神様の意図」を知ることであった。建物でも入り口が分からないと中の様子はうかがい知れない。同様に、「神様が私たちを救おうとしている」という「福音という入り口」が分からないと、神様のことを知ることができない。

 「というのは」(ローマ1:18)という接続詞からはじまる今日の箇所は、先週の「神の義」を受けて書かれている。目には見えなくても、神様は「私たちを救いに導く業」を実行されて来たが、その意図が分からない私たちは「なぜ自分は救われなければならないのか」を納得できないでいる。しかし聖書は、「あらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されている」(1:18)という厳しい状況の中に私たちが立っていると述べている。神様は創造の時から、壮大な大自然の中に、小さな花や小動物の中に、人間の体の中に存在を示してきた。だが人間は、その神秘さを感じながらも「神様はいない」「神様がいない方がいい」と心で拒絶してきた。そして神様を認めないことが、何か自由で、自分にとって好ましいと状況だと考えてきた。それでも「神を神としない」ことに対する痛みがあった人間は、その痛みをごまかすために自分の都合の良い偶像を作りだして崇拝してきた。しかし、人間でさえも他人に労した際の感謝が全くの別の者へ向けられたら怒るが、いわんや偉大な神様の業に感謝せずに、その感謝が「滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもの」(1:23)などに向けられたらどうだろうか。しかも人間は、「なぜ、これが神なのか?」との疑問も持たず無批判に偶像を受け入れている。そこに人間の弱さがある。そう言うと、「人間の弱さを認める宗教心は、人間性の豊かさの反映ではないか」と反論する人もいるだろう。しかし聖書は、偶像礼拝は「人間性の豊かさ」ではなく、むしろ「神は、彼らをその欲望のままに汚れに引き渡され」(1:24)た怒りの結果であると述べている。本来、神様を知ることが私たちの拡大する欲望のブレーキとなるはずだが、都合のいい偶像礼拝は、その欲望を加速させてしまう。怒れる神様は、そんな人間を「良くない思いに引き渡され」(1:28)た。それによって、私たちがどん底で自分のやっていることを省み、神様を知るためである。これも「神の啓示」である。ローマ1:2931に書かれた罪のリストは、私たちが神様から離れた結果として私たちの内側に造られてくるもので、自分の意図に反して私たちは「不義と悪とむさぼりと悪意」(1:29)に満ちる存在になる。神様は、そのような人間に怒りを示されていると同時に、それを全く新しく作りかえたいと思っている。それが「神の義」である。

今日の交読詩編の部分に「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は」(詩編32:12)と言うのがあった。この詩編の作者は、以前は「一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました」(32:3)が、神様に罪を知らせ罪のとがめを赦されて(32:5)、「幸いなことよ」と感嘆している。このように「福音」を受け入れ神様に感謝する生き方こそ幸いな人生であり、「神の義」はそれを求めている。

2019/5/26

2019年5月19日「福音に示された力」(ハバクク2:1~4、ローマ1:16~17)

 先日、岩手県大船渡市に誕生した「グレースハウス教会」は、私たちの教団の被災地ボランティアの受け入れ拠点としてはじまり、文化や民族が異なる国内外からの多くの人びと福音によって結びつけてきた。福音はすべての人に働くの「神の力」である。

 初めて聖書を開いた人から福音について質問されることがよくある。福音こそが聖書の中核であり、それは「御子イエスがこの世に来られ、十字架につけられた」という歴史的事実と、「その出来事に私たちがどう応答するべきか」という部分の二つからなる。この「ローマ人へ手紙」を書いているパウロは、以前はキリスト教徒を弾圧していたが、福音によって変えられ福音を異邦人に伝える働きに導かれた人物である(→新約聖書を読んでみようの「目からウロコ」参照)。彼は「私は福音を恥とは思いません。」(ローマ1:16)と書いているが、裏を返せば福音を「恥」だと思う人が大勢いたことになる。アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトは、かつて著書『菊と刀』の中で「日本人は罪よりも、恥を重視する民族である」と論じたが、当時のローマ人も名誉を重んじる人びとであった。パウロは、ローマの獄中から書いた「テモテへの手紙」でも同様に、福音のための苦しみを「恥とは思いません。」(Ⅱテモテ1:12)と書いている。人によっては「神様を信じ福音を伝えているパウロが、なぜ救われもせず獄中にいるのか」と嘲ったかもしれないが、パウロはその状況が「救いを得させる神の力」(ローマ1:16)の賜物であることを理解していたからこそ、その状況を恥じ入ることはなかったのである。この「神の力」の原語は、ダイナマイトの語源ともなったギリシャ語の「力のもと=デュナミス(δύναμις)」である。だが、この「神の力」も水道管のように私たちのすぐ側まで来ているが、先入観や偏見、恥と感じる感情で私たちが心を閉ざしていれば、せっかくの力を受け取ることはできない。蛇口をひねるという動作(私たちが受け止めて信じること)があって初めて発動するのである。

 さらにパウロは、「福音のうちには神の義が啓示されている」(1:17)と述べている。現実社会を見て、「本当に神様がいたら、戦争や苦しみが起こるはずがない」と言って福音を信じない人もいる。しかし福音は、自分の基準からでなく、「私たちに必要な救いは何で、神様は何をされようとしているのか?」という「神の義」から見ないと理解できない。紀元前600年ごろ預言者ハバククよって書かれた旧約聖書の「ハバクク書」は、国中が「暴虐」に満ちあふれていた当時のイスラエルや、救いの声を聞いてくださらなかった神様への絶望からはじまる(ハバクク1:2)。彼は、神様への信仰が揺らぎ「主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるか見よう。」(2:1)と訴えた。これに対して神様は「幻を板の上に書いて確認せよ。」(2:2)「それは必ず来る。遅れることはない。」(2:3)「正しい人は信仰によって生きる。」(2:4)と応えられた。私たちも、長い信仰生活の中で、時に信仰に対する疑念を持つことがあり、その迷いと苦しみの中で「神様を信じる」ことの選択を迫られている。しかし聖書は、くりかえし「義人は信仰によって生きる」と述べている。「信じる」ことで神様のわざが働かれるし、神様の栄光を仰ぎ見る段階に進めるのである。

2019/5/19
2019/5/12

2019年5月12日「共に受ける励まし」(ローマ1:8~15)

 良いジャーナリストとは、そのニュースがどう伝わるかを注意深く考えるものである。パウロが、この手紙で福音信仰の全体像を伝えたかったローマの教会は、まだ新しく、福音についての知識も未熟であったが、人びとは喜んで信仰生活を送っていた。その教会に「有名な」パウロが来て(→新約聖書を読んでみようの「目からウロコ」参照)、上から目線で「その信仰は不完全だ」と言ったらどうなっただろうか。

 まずパウロが、細心の注意を払って手紙で伝えたのは「福音宣教に共にあずかれることの感謝」であった。まず彼は、ローマ教会の人びとに「あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。」(1:8)と語っている。これは「パウロがローマで行うべき伝道を代わりにしてくれて感謝」という意味ではない。パウロは、まだ未熟で信仰の全体像がよくわかっていないかもしれない彼らに「あなたがたは福音を語るにはまだ早い」とは言わず、同じ「世界宣教の同労者」としてその働きを感謝しているのである。それがパウロのスタンスであった。私(秋山牧師)も、まだ聖書を通読したことがなかったにも関わらず、喜んで福音を伝えていた時のことを思い出す。

 第二に注目したいのは「共に受ける励まし」である。パウロは、ローマ教会に対して「御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたい」(1:11)と述べている。パウロは、手紙を書いた時点でまだローマ教会の人びとには会っていない。だが、自分の働きもローマ教会の働きも、御霊の働き(神様の導き)(→はじめての教会用語辞典のま行「御父・御子・御霊」参照)によって支えられ、同じ福音を語り、共に励まされている確信があった。一方で、エルサレムから遠く離れたローマの人びとには、より力強い働きをするために福音の全体像を理解する必要があるとも考えていた。だが、それを前面に出すことは、一歩間違えば、今の彼らの福音宣教の働きを否定したり阻害したりすることもなりかねない。パウロの手紙からは、同じ「御霊の賜物(福音を語る役割)」を与えられた同労者として、そのことを彼らにどのように伝えればよいのかという細心の思いがあふれている。パウロは、一度「あなたがたを強くしたい」(1:11)とストレートに言っているが、続けて「互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」(1:12)とも述べている。そこには自分も弱さを抱えた一人のクリスチャンであるが、みなさんと同様に「御霊の励まし」を受けている人間なのだと言う彼自身のスタンスがある。

  第三に「返さなければならない負債」についてである。パウロの「世界宣教」のビジョンにとって地中海世界の中心地であるローマに行くことは重要な戦略であったが、当時はその思いが様々な要因によって阻まれていた(→新約聖書を読んでみようの「エーゲ海旅行」参照)。だがパウロは、その使命を「返さなければならない負債」(1:14)と表現している。これは申命記15章にある「自分の方から奴隷となる規定」を彷彿とさせる。この規定は、贖われて自由になったけれど、主人の愛ゆえに主人に仕えて行きたいとき決めた時、自ら奴隷のままでいることができる規定である。パウロも、イエス様の十字架によって罪から贖われたが、神様の愛と恵みに応えるために自分の方から「神様の奴隷」として仕えていきたいと考えたのであろう。このパウロの手紙は、未熟ながらも生き生きと福音を伝えていたローマの教会の人びとへ、同じ神様に仕える者としての励ましに溢れ、その後の世界的なキリスト教の広がりに大きな働きを遺すこととなった。

201955日「大能による啓示」(ローマ1:17

 新一万円札の顔に決まった渋沢栄一は、幕末に派遣されたパリ万博で世界に触れたことで日本の近代化に危機感を抱き、後に「日本の資本主義の父」とよばれるような働きをした。私たちも、どのような世界観を持つかは信仰において非常で重要である。

 今日の第一のポイントは、「しもべ」としてのパウロの意識である。「ローマ人への手紙」は、パウロの第三次伝道旅行中にコリントで書かれたものである(→新約聖書を読んでみようの「エーゲ海旅行」参照)。パウロ自身は、福音を全世界に語るためローマに行きたいとの強い思いがあったが(ローマ1:10)、旅行中に集まった献金を届ける使命があり、手紙をフィベという女性に託すしかなかった。この手紙は、諸教会の具体的問題について書かれたパウロの他の手紙とは異なり、ローマの教会のまだ見ぬ人びとに向けた内容であるため、それを通じて現在の私たちにも福音が理解できるものとなっている。もしこの時、パウロがローマに訪れていたのなら、私たちに「ローマ人への手紙」という宝は残されてはいなかった。私たちは、神様のご計画の中で自分の思いとは異なる方向に導かれ落胆や失望を覚えてしまうことも多い。だがパウロは、そこに神様の最善のご計画があることを確信していた。手紙の冒頭部の原語は、日本語訳とは逆に「キリスト・イエスのしもべパウロ」(1:1)という肩書からはじまる。そこには、たとえ自分の計画とは違っても、「しもべ」として神のご計画に従うというパウロの強い思いが表れている。

 第二に、パウロが語りたかった福音の豊かさについて見ていきたい。パウロは、手紙の序文の途中で、あいさつ文もそこそこに、いきなり福音について語りはじめる。そして、イエス様の十字架が突発的なものではなく「神がその預言者を通して、聖書において前から約束された」(1:2)ものであり、イエス様が「死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された」(1:3)ことを述べている。私たちは、この事件を通して「死から生へ」「絶望から希望へ」と変えられたのだが、パウロが序文でいきなり語りだしたのは、このことを「どうしても」語らなければならないという強い思いからであった。私たちは、この福音の出来事を自分とは関係のない事件と見るのではなく、自分自身の日々の生活の中で受け止める必要がある。

 最後に「召された」というパウロの自覚である。いわゆる「十二使徒」は、十字架以前にイエス様がから接任命されたため、十字架以降に「使徒」と自称しているパウロを批判する人も多かった。またパウロ自身も、反キリストの過去のことで使徒と名乗る資格はないという思いもあった(→新約聖書を読んでみようの「目からウロコ」参照)。しかしパウロには、「自分がどう思い、人がどう言うか」よりも、神様が「召された」ことの方が重要であった。パウロの書いた「ローマ人への手紙」には、繰り返しこの言葉が出てくる。パウロに「自分は何よりも神様の召しに従って歩いていく」という意識がなければ、自分の願いや計画とは異なる方向に導かれていく自身の状況に不満を持ったかもしれない。しかし彼は、福音によって過去の自分自身が新しくされていること、見たことのないローマの地にも同じ神様の召しに従い歩んでいる人びとがいることを確信していた。私たちは「神様に従う」ことは自分自身が不自由になることだと思いがちであるが、そうではない。神様に召され、過去の自分が新しくされて神の計画に立って歩むことは、私の思いを超えた可能性の中に導かれることであり、そこから新しい道が拓かれるのである。

2019/5/5

2019年428日「トップニュースである福音」(マタイの福音書281120節)

 毎日、様々なニュースが流れているが、私たち人間にとって、イエス様が復活された福音(Good News)こそが歴史的なトップニュースである。

 今日の第一のポイントは、「福音を聞くこと、指示に従うこと」にある。今日の箇所には、先週見た女たちの行動とは対照的なローマ兵たちの行動がある。墓の中の遺体が消えたという超常現象に驚き混乱した彼らは、本来ならばピラト総督に報告すべきところを、奇妙なことにユダヤ人の祭司長たちへ報告しに行っている(マタイ28:11)。そこで彼らは、祭司長たちに多額の金で買収され、復活の出来事を否定する偽装に加担することとなった(28:1215)。このような彼らの行動は、復活のイエス様に会って再び信仰を取り戻すために、信仰の原点であるガリラヤに向かった弟子たちや女たちの行動とは対照的である→2019年4月21日「復活の力により」参照)。「復活の現象が解明されない限り、復活を信じることはできない」と多くの人は言う。だが聖書は、復活の事実に対して「どう向き合い」「どこに向かっていくか」を問うているのである。

 第二に、福音を信じた弟子たちに注目したい。復活の出来事の後、弟子たちはガリラヤに行って指示された山に登り、復活したイエス様を礼拝した(28:1617)。教会のはじまりはここにある。そして礼拝の本質は、呼び集められた私たちが復活のイエス様にお会いすることにある。日曜日ごとに教会で行われている礼拝のプログラムは、この出来事の追体験なのである。この時の弟子たちは、その直前に十字架のイエス様を裏切ったという罪や苦しみの中にあった。そんな弟子たちに、イエス様はご自身の方から近づいて来られ語りかけてくださった(28:18)。その上で「わたしは天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(28:18)と宣言されている。かつてイエス様に罪の赦しの権威があるかという議論があった時、イエス様はその権威があることを公に証明して見せた(9:19)。当然、その時に弟子たちはイエス様の権威を、直接、見聞きしたはずである。だが、その彼らでさえも自分の罪や悔やみに向き合った時、イエス様の御前に立つことを躊躇した。そもそも「罪を赦す」とは、途方もない神様の権威である。その途方もない権威を明示されたこと加え、イエス様が自ら十字架につけられてまで私たちの罪を負い、さらには復活の姿を現されたことで、私たちの罪が赦されたことが確信に変わる。

 罪や悔やみの中にあった弟子たちに、イエス様は権威をもって赦しを語られ、新たな使命を与えられた(28:1920)。それは「選ばれた民」として神様とともに歩んできたユダヤ人以外の、「あらゆる国の人びと」(28:19)を弟子とするために「出て行く」ことである。この命令を受けた弟子たちも、世界中のあらゆる辺境にまで旅立った宣教師たちも、イエス様の命令通り「出て行って」「あらゆる国の人びと」に宣教を行ってきた。それができたのも、彼らが自分の罪を深く自覚するとともに、それに対する神様の救いや愛を知って「神様はいつも私たちとともにおられる」という確信を持つにいたったからである。マタイの福音書は、「インマヌエル」(神はわたしたちとおられるという意味)とも呼ばれるイエス様の誕生にはじまり(1:23)、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(28:20)という宣言で終わっている。私たちに対するイエス様のこの励ましこそが、復活のイエス様を信じる私たちのしあわせであり、信仰生活の原動力になるのである。

2019/4/28

2019421日「復活の力により」(マタイ28:110

 イースターとは、イエス様の復活の出来事である。ここには、八方ふさがりの状態に絶望してしまう「自分の現実」とは別の、絶望を希望に、悲しみを喜びに変える「神様の現実」がある。聖書のすべては、この「イエス様の復活」に向けた出来事が連綿と記されている。

 イエス様は十字架の後、岩を彫って作った「新しい墓」に納められた(→「聖書の舞台(生活・習慣)」のは行「墓と埋葬」参照)。その墓から弟子たちが遺体を盗み出さないように「墓の入り口には大きな石をころがし」(27:60)、その上にローマによる封印がなされ、さらに番兵が墓の番をしていた(27:66)。ユダヤ教の安息日の次の日に「マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た」(28:1)が、やむにやまれぬ気持ちに突き動かされて来たものの、本来なら墓の封が解かれるはずもなかった。そのような、人間的には「自分達ではどうにもならない」状況で彼女たちが見たものは、「天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわった」(28:2)主の御使いの姿であり、それを通して「死を打ち破った」ことを高らかに宣言する「神様の現実」であった。私たちは「死」を含め、自分たちにはどうにも動かしがたい「墓の石」のような現実に直面し、絶望することがある。だが「神様の現実」は、その絶望を希望に変えてくれる。

 御使いは、彼女らに「十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っている」(28:5)と述べている。だが「十字架で死なれたイエスを捜す」行為には、絶望や悲しみしかない。私たちが捜すべきは「十字架の上にはおられない復活のイエス様」であり、それを見つけるために「ガリラヤに行く」ことである(28:7)。当時のイスラエルにおいてガリラヤは、エルサレムから100キロほど離れた辺境の地であり→「ローマ支配時代のユダヤ州・シリア州」、弟子たちが新しい王国を築く希望とともに捨ててきた故郷である。しかし、イエス様は十字架の直前に「わたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤに行きます」(26:32)と預言し、復活後も「そこでわたしに会えるのです」(28:10)と言っている。ガリラヤは弟子たちがイエス様と出会った信仰の原点であり、そこで「復活のイエス様と会う」ことは、弟子たちが本当の意味での宣教をスタートするためには必要であった。聖書には、復活のイエス様に会った弟子たちの内の「ある者は疑った」(27:17)とあるが、それも私たちの現実である。イエス様は、絶望にあった私たちを、ひとり一人にあった「出会い方」で待っていてくださる。

 有名な「Footprint in the Sand」の物語→「砂の上の足跡」では、ある人が自分の人生を夢の中で振り返り、砂浜にイエス様と歩んできた二組みの足跡を見た。ところが、人生の最もつらい場面で一組みの足跡しか見つけられず、思わずイエス様に「どうしてあの時に側にいてくださらなかったのですか」と聞く。それに対してイエス様は「あれは、あなたの足跡ではなく、あなたを抱えていた私の足跡だ」と答える。私たちの人生には、「墓の石」に塞がれて取り除くことのできないような、自分の力である国はどうしようもない場面がある。しかし「神の現実」から見れば、そこに復活の栄光があり、新しい信仰のスタートがある。イエス様が行くように命じた「ガリラヤ」は、問題に直面すると私たちが捨てたくなる、自分の身近な日々の生活という「イエス様に出会った場所」なのである。「神様の現実」から見たイースターとは、私たちが主に出会って信仰の原点に立ち戻り、主にあって変えられ、主の復活にあずかれる出来事なのである。

2019/4/21
2019/4/14

2019414日「一番重要な律法」(マタイ22:3446

 今日から受難週である。イエス様が受難の道を歩まれたのは、神様が世を愛し「ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため」(ヨハネ3:16)という願いからである。そうした神様の愛に応えるためには、どのような生き方をすればよいのか。

 律法の根底に関わる今回のパリサイ人の専門家の質問は、「宗教家」としてのイエス様を貶め、その回答によってはイエス様を捕らえさせて命を奪おうとするものであった。いわゆる「モーセの律法」は、248個の積極的な命令と365個の禁止命令の合計613個の戒めからなる。そのため、この時の「その中で最も大事な律法は何か」という質問は、宗教的議論としては当を得たものであった。だが彼は、宗教的議論ではなく「イエスをためそうとして」(22:34)この質問をした。これに対して、イエス様は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:4)を引用して答えている。この箇所は、ユダヤ教の礼拝でもたびたび取り上げられ、ユダヤ教徒が常に額と腕にくくりつけているほどなじみ深い律法である(→「はじめての教会用語辞典」のま行「モーセ五書」参照)。当然、彼らもこの回答を予想しており、その上で、当時の神殿の「虚構の権威」を批判するイエス様の行動を批判し「律法を忠実に守りつつローマ支配を打開する救世主を待ち望む、自分たちのやり方こそが『主を愛する』ことではないか」とでも迫るつもりであったのだろう。だがイエス様は、間髪を入れず「『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒め」(22:37)は、第一の戒めと同じように大事であると述べた。「パリサイ」人には「分離派」と言う意味がある(→「聖書の舞台(人物・組織)」のさ行「サドカイ派」は行「パリサイ派」参照)。彼らは、律法を知らずに生きている人とは違うとの自負を持ち、律法を守らない、または守りたくても守れない人々を見下していた。また彼らは、弱い人、病んでいる人、傷ついた人には「穢れている」として距離をとってきた。だが、ヨハネの手紙第一には「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽りです。目に見える兄弟を愛していないのに、目に見えない神を愛することはできません。」(4:20)とある。「神を愛する」と言いながら同胞たちを蔑むパリサイ人たちは、律法や聖書から離れた生き方をしていることになる。イエス様が挙げられた二つの戒めは、互いに無関係ではない。私たちが本当に神を愛するならば、その中で弱さや痛みを抱えている隣人を愛するようになる。これらの戒めには「律法全体と預言者」(22:40)、すなわち聖書全体がかかっているのである。

 最後にイエス様は、「ダビデの子」(→「聖書の舞台(人物・組織)」のた行「ダビデの子」参照)についての質問を彼らにしている(22:41~46)。ダビデの子孫に救世主が出現するという預言はパリサイ人たちの信仰の核であり、律法を忠実に守ることによって、その救世主が現れると信じていた。しかしイエス様は、そのパリサイ人に詩編110編をとりあげ、なぜダビデが、肉体的には子孫である預言の救世主を自身の「主」であるというのかと問い、彼らの根本的な間違いを指摘している。パリサイ人たちの目の前には、肉体をもって出現したイエス様がいた。だが彼らはイエス様を亡き者とした。彼らは聖書を読みこんでいたが、神様の前に謙遜していたとは言えなかった。私たちはどうだろうか。神様に謙虚に向かいつつ「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして」愛すること、それを通して隣人を愛することが神様の愛に応える生き方ではないか。

2019/4/7

2019年4月7日「生きている者の神」(マタイ22:23~33)

 キリスト教に好意を持つ人でも、罪や復活について語ると心を閉ざしてしまうことがある。だが、これを抜きにしてキリスト教を語ることはできない。今日の箇所のサドカイ派の人たち(以下、「サドカイ人」と称す)は、先週のパリサイ派とは対照的に復活を信じていない(→「聖書の舞台」のさ行「サドカイ派」は行「パリサイ派」参照)。今日の箇所は、そのサドカイ人たちが聖書を盾にイエス様を笑いものにしにやってきた場面である。

 今日は第一に、「サドカイ派とその人生観」について見ていきたい。サドカイ派は神殿祭司の集団やユダヤ人の貴族らからなり、神殿礼拝の権威を基にユダヤ社会に影響を与えていた。彼らは復活を否定し、「モーセ五書」(→「はじめての教会用語辞典」のま行「モーセ五書」参照)以外の預言書や「タルムード」と言うユダヤ教の「口伝律法」を信じていなかった。律法の知識に自信を持っていた彼らは、「モーセ五書」の申命記25:5を基にした復活と律法の規定に関する矛盾を突いた質問(22:23~28)で、公の場でイエス様をやり込めようとやってきた。ここに見られるサドカイ人たちの考えは、「死後の世界」を考慮せず宗教的倫理観を重視するものであり、この世的な(功利的な)価値観だけで「生きることの意味」や物事の価値を測ろうとする現代社会に共通するものである。だが私たち人間の罪の問題は、死後の世界やさばきにこそ、より大きな影響を及ぼすのである。

 二番目に見たいのは「聖書にあかしされている神の力」についてである。イエス様に論争を挑んだサドカイ人たちは、「自分たちは聖書のことをよく知っている」と思っていた。だが、イエス様は彼らに「そんな思い違いをしているのは聖書も神の力も知らないからです。」(22:29)と述べ、彼らが拠り所にしている「モーセ五書」の出エジプト記3:6から反論をし、また死後の世界や復活時の状態(22:30)を説明された。たしかにヨブ記19:25~27やイザヤ26:19など、聖書は多くの場面で復活について言及している。だが「モーセ五書」だけに固執するサドカイ人たちは、それを理解してはいない。その結果、彼らは、いかに「思い違い」をし「聖書も神の力を知らない」(22:29)のかとイエス様に指摘されることになる。

 三つめに「復活に結びつく信仰」についてである。イエス様が引用された「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(出エジプト3:6)とは、「契約を結ばれた神」の姿である。サドカイ人の論調ならば、「その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか」(22:28)と同様に「誰の神なのか」ということになろう。だが神様の契約は、一人と結ばれたわけではない。たしかに、その契約はアブラハムにおいても、イサクにおいても、ヤコブにおいても結ばれたが、実際にはアブラハムも、小さな領地とわずかの子どもを得ただけで「約束の成就」の前に死んでいる。しかし神様の契約は、地上における生涯の間にではなく、最後の復活時にすべてが成就するのである。このことが「説き明かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。」(へブル4:2)と聖書は述べている。ただサドカイ人たちは、それを「信仰によって、結びつけけられなかった」(へブル4:2)のである。そして私たちも、復活を示した聖書の言葉をどう受け止め、自分たちの生き方にどう結び付けるのかが問われている。

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