あるとき、自分の水着の縫い目がほつれて、お尻に親指大ぐらいの穴が開いてるのを発見しました。そこで思い出したのが、一月ほど前、近くにある温水プールから出たときに、子どもたちや親たちの視線を感じたことです。誤解していたけれど、あれはバタフライを100メートル泳ぎきったことで注目されたんじゃない。「変なおやじがいるぞ」という警告の発信だったと確信し、急に恥ずかしさがこみあげてきました。かと言って生地が薄いので糸で繕うことはできそうもありません。それにしても買い替えるのはもったいない。そこで考えついたのが、耐水用の接着剤で継ぎ当てをすることです。ちょうど破れかかったザックがあったので、その内側の生地を切り取って、接着剤で補強してみたのです。これがなかなかいい感じです。あと1年は持つかもしれないです。
破れ口に立つとか、破れたものを繕うということが、元の意味を離れて特別な意味を持つことがあります。イスラエル史においては、「破れ」とか「破れ口」(ペレツ)は、神の恵みにも関わらず、その契約を破ってしまう不信仰の罪をあらわすものになっています。そこを神との関係によって修復する業が「破れ口に立つ」ということになります。破れたら買い替えるという発想では、思いつかない考え方かもしれません。
震災前から、一人の青年の破れ口に立たされるような出来事に関わってきました。社会の闇の深さから抜け出るためのもので、とても一人の力では太刀打ちできないし、恐れもあります。でも最近、不思議にも教派を越えて多くの仲間が結びつくネットワークができました。あるいはこれが破れ口には有効な働きをするかもしれません。
更新日:2023年11月18日
記録的に気温が25度を超えたのは、ほんの二週間前のことでした。そのときには11月に夏日になったのが、宮城県内では観測史上初めてであると報道されました。あれから一気に季節が進んだ感じがします。先日まで青空に映えていた街路樹の銀杏が、昨日の強い雨に打たれてほとんど落葉してしまいました。教会の3本のハナミズキでさえ、わずかの葉を残して冬支度をしています。
人生を四季にたとえるなら、自分はとっくに冬になっていることに気がつきます。同年代の牧師の何人かが既に引退しているのをみると、そうした時期にいることを否定することができません。冬は収穫したものが熟成する季節。けれども心の内を深く探ってみると、失敗や挫折、苦悩といったものが、雨に濡れた落ち葉のように残っています。
スイスの精神科医トール・トルニエは、人生にとっての冬を、断片的、孤立的、また無意味と思えた過去の出来事が見えざる神の導きであったことを知る時期であると言っています。それは新しい永遠に向かっての信仰理解への道なのでしょう。
冬の中にあっては、いくら形勢が悪くても一発逆転のホームランを狙うことはできません。そんな時期はとっくに過ぎている。これからは、心の中でしこりとなっているものを、信仰的な理解の中で受け入れていきたいと思わされています。
更新日:2023年11月10日
東北みやぎ復興マラソンが11月5日の日曜日に開催されました。できれば参加したかったのですが、日曜日でもあるし、それに42,195キロを走るとなると流石に足がもつれそうで断念しました。このマラソン大会は、震災で被害を受けた被災地を励まそうと始められとのことです。コロナ禍の期間は中断されたので、今回は実に3年ぶりになります。それだけにランナーも関係者も、テレビに映し出される顔には意気込みが感じられました。
津波被害はマラソンコースの10倍以上の範囲に及ぶのですが、映像では復興が進んだ海浜公園や整備された施設などが中心にアップで映し出されていました。それはコースに並んだ一つの切り口であって、見方を変えれば全く違う様相がみえてくるのも事実です。原発による放射能汚染の影響とか若者の流出による人口の減少、あるいは基幹産業の衰退による離職といったことはとり残されたままですから。
震災から12年、教会には実にさまざまな相談が寄せられました。そのひとつひとつに対応できたかと言えば、充分でなかったことが多かったように思います。中にはかえって傷つけてしまったのではないかと危惧するケースもあります。マラソンではないけれど、思いはあっても足がもつれてしまう。そんな恥を晒しながら、これまで牧師としての務めに励んできました。
「私らはよくもまあ生き残れましたねえ」先日、同世代の牧師と再会したとき、感慨深げにそんな声を掛けられました。その体は杖で支えられています。
私も彼も決して見栄えはしないしボロボロ。そんな現実の姿ではありますが、主イエスの内にあるなら、いつかきっと約束されたゴールに辿り着けるでしょう。それが真の復興と信じて。