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執筆者の写真秋山善久

 相談に来られた人を支援するのに、その人が語る物語り「ナラティブ」(narrative)を通して問題を解決していこうとする考え方が、社会の様々な分野に広がっています。ナラティブに近い意味でストーリー(story)という言葉がありますが、それを用いないのは支援においては構造主義に陥ってしまう危険があるという反省です。相談者の話を聞いたとき、それを一つの枠の中に入れて問題を解決しようと考えてしまう。そんなことは牧師である私の経験の中にもあります。パターン化しておけば、相談を受けた側としては理解し易いという利点があります。その分、対応も素早くなるでしょう。けれども、それだと相談者が抱えている本質的な悩みに迫ることができないし、対応そのものが的外れなものになってしまうことがあるというのです。これを聞くと冷や汗が出てしまいます。臨床心理の現場では1990年頃から相談者の自主的な語りを重要視するようになり、これをナラティブ・アプローチと呼んでいるようです。

 こうした資料をみていたときに、福音書に記された主イエスの姿がそうであることに気がつかされました。例えば道端に座っていた目の不自由な人が、主イエスのもとに呼ばれた出来事です。(マタイ20:32) このとき主イエスは、「わたしに何をしてほしいのですか」と聞かれました。目が不自由な人であるから、目を開けてほしいのだろうと決めつけていません。この人に対して人々が抱いている評価や感情からも切り離しています。そして目の不自由な人が「主よ、目を開けていただきたいのです」と語った言葉に、主イエスは深い憐みを示されました。ナラティブ・アプローチでは、自己決定の意思も重要視されます。福音書では、主に目を癒されたこの人が「イエスについて行った」と記している。そのことにも改めて教えられます。

執筆者の写真秋山善久

 この夏の酷暑に耐えた挿し木は3本だけでした。後の7本は根を張る前に枯れてしまったからです。やはり挿し木は水遣りだけでは何ともならない。枝が切り離されることは、いのちの元が絶たれるわけで、枝にとってそれは最大の危機と言えるでしょう。とするならば挿し木をするということは、ちょっと待って・・・見方によれば弱さへの支援につながることかも?しれない。それにしても一律にいかないことを考えさせられます。

 社会的な弱者への支援では、対象となる人の状況回復に長い時間と個人差があることを考慮しなければならないでしょう。問題は、支援者がその個人差を受け止めて真摯に向き合うことが出来るか否かだと思います。そこに人に寄り添って現実を知ることの難しさがあります。支援者の側がそのストレスに耐えきれなくなって即効性を求めたり、あるいは問題を単純化して勝手に解決してしまう。そんなことは実例を挙げるまでもなく、これまで数多く報告され、私自身も経験してきました。緊急支援のようなものであれば、そうしたことも有効なのですが、そうでない場合には、せっかくの労力や資源が弱者の回復のためにはかえって弊害となってしまうことさえある。それに「いい物語り」を作ってしまう危険。これが意外にやっかいものです。労したことが実を結んだという美談で、その結果、分析も評価もいいかげんなものになり失敗を繰り返してきたということ。このような反省は私のような者の中にもないとは言い切れません。そろそろ、根本が何であるかを見つけ出し、それをベースに少しづつ積み上げるようなものに方向転換しなければならない。最近、あることを通してその糸口を見つけたような気がしています。

執筆者の写真秋山善久

 東北宣教区のフェローシップ聖会が24日の午後7時~25日の午前まで行われました。全体のテーマが「祝福される交わりと喜び」、講師には東京キリスト教大学大学院教授の岡村直樹先生をお迎えしました。会場は仙台駅に近い貸し会議室で、宿泊も駅に近いホテルです。

 聖会の二日目の朝、岡村先生は、ルツ記をテキストに不安について語られました。平安の反対語としてある不安。キリスト者であっても、この不安を逃れることはできないと、御自身の体験を交えてあかししてくださいました。そうした中で、ルツ記にあるナオミとルツの出来事は、慰めと希望に満ちたものであることを強調されました。教会の交わりの時間に、ミッション東北の一人の先生が、震災による放射能汚染を恐れて県外に避難した人たちのことに触れられました。それが、ルツ記の情景と重なったというのです。「この地に飢饉が起こった。そのため…モアブの野へ行き、そこに滞在することにした」(1:1)

 人々から取り残されたような現実と、将来に対する不安。そうしたことは、あの震災のときに被災地にいた人たちの気持ちでもあったと知りました。それだけに、ルツ記の出来事は、大きな慰めと希望を与えてくださいますと、その先生は話されました。

 私事ですが、実は24日の朝、ヤフーメールがログインできない状態になり、慌てて操作している内に完全に回復できない状態になってしまいました。データーもアドレスも全て失われたしまう。こんな小さなことでもパニックになってしまう弱さ。だからこそ神の前に自分の気持ちを注ぎだすことができることの幸いを思います。

 今回の聖会は、オンラインを併用してのもので、実際に会場に足を運んだ人とオンラインで参加された人は半々ぐらいでした。コロナ禍以降、集会の持ち方は大きく変わって、今回の企画も試行錯誤をしたことの結果です。それでも、久しぶりに聖会らしい聖会を持てたような気がしています。


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