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執筆者の写真秋山善久

 6月の第三日曜日は父の日です。その発端は1900年代初めに、アメリカのソノラ・スマート・ドットという夫人が、亡き父に感謝と尊敬を表したいと思ったことでした。

 ワシントン州スポーケンに住んでいたドット夫人は、南北戦争で英雄として知られたウィリアム・J・スマート軍曹の末娘でした。戦争が終わってやっとのことでウィリアム軍曹が帰還したとき、妻はそれまでの心労がもとで病に倒れ、間もなく天に召されてしまいます。そこでウィリアムは、苦労しながら残された6人の子供を立派に育てあげたのでした。

 ドット夫人にとって父は「英雄」であること以上に「家庭人」であったに違いありません。そうした父の姿をみていた彼女であればこそ「母の日」があるのだから「父の日」もあるべきだという思いをもったことはうなずけます。

 1907年、彼女は当地の牧師協会に父の日制定の嘆願書を提出しました。これが7年後、1916年に公に承知されることになり、1972年にはアメリカにおける国民の祝日とされるようになりました。

 親子の関係は愛と信頼の上に成り立ち、従うことによって実践されるものです。聖書に「主にあって両親に従いなさい。」(エペソ6:1)と言われるのは、主との関係から生じる愛と秩序が親子関係において生かされるためです。

 親に反発しながら神への信仰を持ち続けることは難しく、どこかに歪みが生じてしまいます。親への従順な姿勢こそが、神への信仰を具体化していくことになるからです。

 親からすれば、力によって子どもを支配したら家族の関係は崩れてしまう。ここにおいても「主にあって」という原則が守られなければならない。父の日がそうした親子の関係を問い直す日となれば幸いですね。

執筆者の写真秋山善久

 財布を持つのを忘れたままバスに乗ってしまいました。スマホは対応していないし、Suicaも持っていない。未だに整理券によって現金払いしているアナログ人間です。どうしようと冷や汗が出てしまいました。駅近くにある施設で開催された宣教会議のため、前の晩、パソコン、マイク、スピーカーと一つ一つを確認してカバンに詰め込んだのです。出がけにいつもなら車で行くのに、駐車料金が高いからと慣れないバスにしたことが大失敗。でも、駅が近くなって大恥をかくことを覚悟したときに、カバンの底から小銭入れが見つかって何とか支払うことができました。

 若い頃からへまを重ねました。いったい幾つになったら、こんな失敗から解放されるのだろうと考えてしまいます。そんな自分も変わるのはもう無理としか言えない年齢になっています。失敗を数えたらきりがありません。その会議の中で、ある人から失敗談を聞きたいという話がありました。私の場合、失敗談ならいくらでも出すことができるのですが。

 失敗と並んで人生を埋め尽くしているのが罪です。振り返ってみると、何と多くの罪が思い返されることか。失敗と罪は似通っているようでありながら全く違うことでしょう。失敗は忘れることができるし、時間と共に変質してしまうこともある。それに対し罪は赦されないかぎり解決することはないからです。毎日、報道されているウクライナとロシアの戦争。これは誰かの間違いや失敗ではなく、神の前にある人の罪だと気づかされます。

執筆者の写真秋山善久

 夏が来たかと思うような陽気は、今朝には一転して震えるような冷気に置き換わっていました。団地のロータリーに咲いていた桜が、昨夜からの雨に打たれて葉桜になっているのを見ると、大事なものを見逃してしまったような寂しさを覚えます。あれほど盛んに飛び交っていた燕はいったいどこにいってしまったのでしょう。想像するに、巣作りでは寸暇も余裕がないはずですが。それでも時おり庭先にすずめが来て、チュンチュンとかわいらしい鳴き声を立てています。

 雨模様の日には体調を崩したり、頭がいたくなる人が一定数いる。そんなことが、先日、NHKのテレビ番組で報道されていました。原因として、これまで気象的には無視されてきた微弱な気圧変化が原因しているとのこと。近年、データーを解析して、こうしたことがわかってきたとのことです。

 春は一瞬一瞬の変化が大きい。気圧の変化、日差しの変化、気温の変化、そうしたことが体調だけでなく、思考や気分などにも少なからず影響しているような気がします。ニュースにはなりませんが、野の草や山の緑が薄茶色から、淡い緑、黄緑、緑へと色彩を変えていく。そんな変化こそが、いのちのあかしなのかも知れません。

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