更新日:2022年3月18日
ドフトエフスキーの「罪と罰」を読んだのは、会社員をしていた二十歳前後のときでした。別に文学好きということではありませんでしたが、高校生のときに読んだトルストイの「戦争と平和」の記憶が頭に残っていたためであったのでしょう。文庫本を購入したのは、その頃、休日ごとに立ち寄っていた日立市の中央通りにあった本屋でした。寮に帰って読み始めた途端、たちまち引き込まれたことを今でも鮮明に覚えています。なぜ、それほどに夢中になれたのか、後から考えると題名が示すように罪がテーマであったからのような気がします。そこに示される罪は、なぜか自分の心の中を見透かされたようで、軽い疼きのようなものを感じていました。小説の中でのことなのに、昨日の出来事のように感じられる不思議さもありました。自分ではこの事件に大興奮しているのに、本から目を離すと何も変わらない日常の時間が流れている。同室の住人であったT君が、電気ポットにインスタントラーメンをつっこんで、岡林信康のチューリップのアップリケなんかを聞いている。そんなことが奇妙に感じられたことが懐かしく、またおかしく思い出されます。
そんなこともあって、青年時代の私にとってロシアは未知の地であり、あこがれでもありました。会社をやめて、ハバロフスクからシベリア鉄道でヨーロッパに渡ろうと計画したこともあります。ただ、これは資金が足りなくて諦めましたが。そのロシアとウクライナが今、戦争をしていることがとても悲しい。
11年前のあの日、日頃から気心の知れた3人の牧師が集まって祈り会をしていました。会場となったのは、市内北部に位置する泉聖書教会です。中野先生による聖書の短い奨励が終わって、これから祈りに入ろうとするときに地震がきました。大きな横揺れがあり、それが次第に強くなってきます。私たちは、この地震が直ちに治まるよう祈り続けましたが、会堂の奥からはガラスが割れたり、物が倒れる音が鳴り響いていました。
帰途、信号機がつかない道路は渋滞が始まっていました。慎重に車を運転しながら自宅に戻ると、教会の前に家の屋根瓦が砕け落ちていて、「お宅の屋根の十字架が落ちてくるかと思いました。」と不安げに言われたのです。思わず塔の上に立つ4メートルの十字架を見上げました。
停電はすぐに復旧しないとわかったので、クリスマスのときに使った蝋燭を探し出して、何とかその晩の明かりを確保しました。少し安堵したものの、ラジオから流れる情報に耳を疑いました。多賀城市のジャスコに津波が押し寄せている。長女が近くの市役所に勤務していて、携帯での連絡もとれないのでいました。
11年という歳月が昨日のように思い出されます。あの泉聖書教会は、その後、基礎が壊れたことで立て直しとなり、今は困難を乗り越えて新しい会堂が建っています。震災直後に連絡のとれなかった長女は、後から聞くと、上司の命令で海と川をつなぐ水門を点検しに行っていたとのこと。生死を分けるところで、すんでのところで生き延びてきたのだと思わされます。この期間、変わったものと変わらないものがはっきりとしてきました。震災時の光景は大きく変わりました。昨日、仙台港近くの公園に足を延ばしてみると、きれいに整備された砂浜が広がっていました。変わらないのは目にみえない部分です。そこにどれだけ心を寄せることができるか。主の前に試されているような気がします。
初めて空気感の違いを強く体験したのは、東日本大震災があった年の4月に東京まで出張したときのことでした。その頃、仙台市内のライフラインは徐々に復旧していましたが、教会周辺のガスとか水道はまだ使えない状態でした。新幹線も再開の目途が立っていなかったので、仕方なく満員の夜行バスに揺られて東京を往復したのです。新宿駅に降り立ったとき、そこに日常の生活があることが不思議に思えたことが思い出されます。電車はひっきりなしに動いていて、人々が忙し気に行き来している。今まで見てきた光景が、被災地の様子とあまりにもかけ離れていることに怒りに近い苛立ちを感じてしまいました。
その頃、私は目が覚めたときから夜寝るまで、何かの救援活動に携わっていました。被災地に救援物資を届けたり、東北ヘルプでの会議があったり、支援者を被災地まで案内するなど、以前の日常が激変していました。被災地に足を延ばせば、子供の頃に海水浴を楽しんだ海沿いの町が、津波に襲われて跡形もなくなっていました。
ロシア軍の攻撃から避難するウクライナの人たちを映像でみていると、あの大震災で感じたことが、逆の立場になっていることに気付かされます。助けを叫ぶ声や、悲しみ嘆く姿が映し出されても、映像では伝え切れない現実があるのでしょう。報道を見ていることにさえ、申し訳ないような気持ちになってしまいます。