東日本大震災から13年になろうとしています。あの日の夜は、停電のため街全体が闇に包まれていました。我が家ではローソクを灯し、家族が寄り添ってラジオから流れる報道に耳を傾けたのでした。けれども、アナウンサーが悲痛な声で語る被害の状況は、にわかに信じられないことばかりでした。
あれから13年が過ぎて、多くの復興事業が進みました。そこで頭をよぎるのは、この震災をどのように考えたら良いかということです。それは支援活動の中で議論されてきたことでした。そこにあったのは、理不尽さに立ち向かう魂の叫びであったと思うのです。
東日本大震災では、しばしばリスボン大地震のことが引き合いに出されてきました。1755年にポルトガルの首都で発生した地震と津波は、この町に壊滅的な被害を及ぼしているからです。これを契機にヨーロッパでは啓蒙思想が広がり、伝統的な教会と対立してきました。そうした経緯から神のさばきという見方は、ある人たちに対する説明になるかもしれません。けれども実際に多くの被災者に寄り添ってみたとき、そうした説明で被災者に近づくのは難しいと思わされました。求められていたのは、愛する人を失ったことを悼む気持ちであったり、混乱した気持ちを理解して話を聞いてくれる人であったからです。
支援活動の中では、「何故、このような災害が起こったのですか」と詰め寄る人がいました。そのときには「わかりません」と答えることにしています。人の理解が及ばない神の領域があると考えるからです。以前には無理に説明して相手を傷つけたり、躓かせたりしたという反省もあります。自然災害での被災者への支援は、神の復興の業と併せて考えたいと思っています。「何故」という問いに対する直接的な答えではありませんが、そこに新しい業を開かれる神の御心があると信じることができるからです。
更新日:3月1日
先日、久しぶりに海から昇る太陽を見ました。暗い水平線に白い一本の線が引かれ、雲が赤く染まってきて、だんだん空が白くなっていく。「春はあけぼの ようよう白くなりけり」という感動は、今も昔も変わらないものだと思わされます。
50年程前、私は勤めていた電気会社で、地上に太陽を作る製品の作業員をしていました。地上の太陽とは核融合装置のことです。太陽は水素と三重水素(トチチウム)の核融合がエネルギー源なので、人工的に同じ原理を用いる装置のことが地上の太陽と言われています。 会社の上司は、入社したばかりの私を勉強のためということで、最先端の部署に配置したのです。実験装置は、原子力研究所や大学から受注したものでした。けれども、その頃の私は、人生に何の意味があるのだろうといったことだけが関心事でした。会社では人材育成から物理の授業があったのですが、恥ずかしいことに私は隠れて三島由紀夫の小説などを読んでいたりしたのです。あるときそれが講師にみつかってしまい、上司はカンカン。真剣さがないということで、その部署から外されてしまいました。
核融合の研究は世界中で続けられています。最近見たネットニュースには、核融合のために政府はもっとお金をかけて人材確保し研究予算をとれというのがありました。もし成功すれば莫大な富をもたらすとあります。けれども、よくみると技術的な課題は、50年前とあまり変わっていません。
そうしたことを考えてみると、光と熱を安定して供給し続ける太陽が如何に優れたものであるかがわかります。巨大な太陽フレアが発生しても、地球では電磁波に影響を受けるぐらいのものですから。地上の太陽が実現するには、まだまだ時間が必要でしょう。あるいは未完成のまま終わるかもしれないです。いずれにしろ、いつも目にする太陽の恵みが当たり前でないことを知り、創造者に感謝することが大切なように思います。
更新日:2月23日
今週、まるで春を通り越したような日に、南三陸町市まで車を走らせて、キリシタンの史跡を巡ってきました。ニュースレターの取材をするという牧師たちに誘われて同伴したのでした。被災支援では何度も往復した道でしたが、こうした目的で歩いたことがなく、多くのことを教えられました。この地域一帯は、東北最大のキリシタンの殉教地と言われています。
最盛期のキリシタン人口は3万人とも言われ、寛永16年(1639)の弾圧では馬籠(まごめ)だけで309人が処刑されています。山間地にも関わらずこれ程のキリシタンがいたのは、この地で行われた製鉄事業と関係しています。永禄元年(1558) キリスト教は、「たたら」を作る技術と共に入ってきました。「たたら」とは川から採取した砂鉄を木炭で熱し、鉄を抽出するものです。幕府がキリシタンを本格的に迫害するようになっても、伊達政宗は密かにキリシタンを匿っています。それは「たたら」を生産していることが秘匿されただけでなく、その技術は信仰と共に継承されていたからです。そのためキリシタンの取り締まりが全国的に広まってからというもの、各地のキリシタンがここに逃れてきました。今のような通信手段を持たない中で、信仰のネットワークがそれを支えていたのでした。けれども遂に伊達藩も隠しきれなくなると、最後まで残っていた信徒たちを捕らえ、処刑します。
散在する史跡となる石には、朽ちかけた案内板に短い説明文があるだけでした。現代の感覚からは、遠い過去の出来事のように思われてしまうでしょう。けれども振り返ってみると、何かが語りかけられているようでもあります。それは風に揺れる笹の葉音などではなく、過去から現代に向けられた呻きの声であるかもしれません。レント(受難節)の期間とはいえ、心の中に強く迫るものを感じました。