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執筆者の写真: 秋山善久秋山善久

 昨日は誘われて、近くの高校の吹奏楽部による定期演奏会を鑑賞してきました。大きな県民会館の席はほぼ満席で、それだけで前評判通りであることを物語っているようでした。全体が一部と二部に構成され、一部はコンサート形式、二部はマーチングと取り入れたミュージカル仕立てになっていました。演奏そのものだけでなく、全体の構成や演出も含めて本当にすばらしいものでした。

 それと比べようがないのですが、私も高校生のときには吹奏楽部に入っていました。担当した楽器はクラリネット。ハーモニカ以外楽器に触れたことがなかったので、まともに音が出るようになるまで一年以上かかったような記憶があります。やっと音が出るようになっても、突然、ピーという外れた音が出るのが常でした。楽譜を読むということもはじめての経験。楽譜通りに指を動かすというのは至難の業でした。すべて先輩から教えられたのですが、その忍耐には今思い出しても冷や汗ものです。そんなこんなでレベルが低く、せいぜいが文化祭で演奏したり、お祭りの出し物としてパレードに参加するといったものでした。それでも皆で音を作っていく楽しみというものは共有できたように思います。

 クラリネットは楽器を右手の親指で支えるので、その部分に負担がかかりタコができます。そのタコが残っていた間は、自分はクラリネット奏者だということを自覚することもあったのですが、それも消えて過去のものとなりました。それでもクラリネットの音は今でも好きで、疲れた時にモーツァルトのクラリネット協奏曲を聞いたりすると身も心も休まる気がします。けれども、また最初から練習する気にはなれないのは、仲間がいないということでしょう。それに代わって、今はときどき尺八を吹いています。クラリネットと尺八では吹き方は全く違うのですが、縦笛であるだけに似たような部分がないでもない。それに仲間がいなくていい。山の中で一人で讃美歌を吹いてみたりできます。ときどき通る人に、変人がいるという噂が立っているかも知れないのですが。

執筆者の写真: 秋山善久秋山善久

 新芽の多彩な緑に囲まれた森林公園の東屋で、残酷なまでにのたうち回っている格闘を目にしました。体格だけを比べたらまるで違うのに、盛んに足を動かしている黒く小さい方が圧倒的に有利な戦い。大きい方は、敵の硬い鎧のような体からはみ出た鋭い歯にその柔らかく白い腹を嚙みつかれ、為す術もなく引きずられていました。痛みに耐えるように体をくねらせながら執拗な攻撃をかわしている。その哀れさはこの上ないもので、力の差は歴然としています。獲物に食らいついた方は、勝利感を漂わせながら必死に根城の穴に運び込もうとしているようでした。途中から仲間が加わったのですが、経験不足で処理のしようがわからないのか、行動がまちまちで一向に協力体制が整わないという風です。そんなところを小鳥に見つかってしまい、虫も蟻も一瞬のうちに小鳥についばまれて、白昼繰り広げられたこのドラマは終わりとなりました。

 今の季節、自然の営みの中にいのちの根源に触れるような出来事が、あらゆるところで展開しているようです。卵から孵った幼虫が繭を作り、それが蝶となって飛び立つというのも何と不思議なことでしょう。生物学的には蝶は完全変態と言われます。トンボなどの不完全変態と違って幼虫と成虫では姿も各器官tも全く違っている。よく考えてみれば、これ程に変化するものかと思ってしまう程です。そのプロセスは科学的に未だに解明されていません。小さな虫の中に人知を遥かに超えたことが起きるとすれば、創造者が人を新しくされることに、疑いを挟む余地はないように思うのです。

執筆者の写真: 秋山善久秋山善久

 初めて地動説を唱えたコペルニクス。根本的に考え方を新しくすることを表現するのにコペルニクス的転回という言葉が使われてきました。少しきざな感じがしますが、相手に考え方が大きく変わったことを納得してもらうのにこれ以上の表現はないような気がします。

 20代の初めにキリスト教信仰をもったとき、それまでの世界観が大きく変わったような感覚がありました。教会からの帰り道、住宅街にあるすべての風景が輝いてみえたのでした。そのときは幸福感に満たされながら「どうして聖書の言葉を信じることを堅く拒絶していたのだろう」と不思議に思ったのでした。それは半世紀が過ぎた今も変わりません。

 最近、ある宗教の方々とお交わりの機会が与えられ、その関係の本をいくつか読みました。そこにはキリスト教に対する批判も書いてあります。少し古いものなので、今はどうなのか知りませんが、キリスト教について「救われない宗教」とありました。生活の苦悩を説明するだけで、現実の生活を変える力がないというのです。彼岸と此岸という世界の中では、キリスト教は彼岸(あの世)ばかりみていて、此岸(現世)は変えようとしていない、それについては諦めていると。

 私からすれば、それはそれでコペルニクス的な転回でありました。逆にどうしてそんなふうに結論付けられたのだろうと思うのです。ただし歴史を振り返ってみるならば、そのような批判を受けなければならないことが散在しているので、言い訳もできないだろうという気がしないでもない。そうしたことを踏まえながら、互いに批判し合うのではなく、共に聖書を学び合う関係ができていることを感謝しています。それがどのような方向に向かうか予想はつかないのですが、真理が道を分けることになるだろうと思います。内容は違っても、どちらも真理が基礎に置かれ、それが希望に繋がっているからです。

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