更新日:1月28日
牧師としての歩みを振り返ってみると、いつも障がい者との関わりがあったことに気付かされます。その出会いは常に新しい発見であり、神の恵みを知る機会でもありました。クリスチャンになったのは21歳の頃。教会には、Hさんという知的障がい者がいました。ある日のこと誘われるまま彼の自宅にいきました。すると、Hさんのお母さんはとても喜んでくれて、手打ちうどんを御馳走してくれたのでした。お母さんの話を聞けば、Hさんは職場では辛い思いをしているとのこと。教会でいつもにこにこしているのと違う現実があることを知らされたのでした。牧師になってその教会から離れても、Hさんから度々電話がありました。その交わりはHさんが癌で召されるまで続きました。
実家で障がい者のNPO法人が立ち上がったのは、それと直接は関係がありません。それでも主の御手の内に、どこかでつながりがあるような気がするのです。あるとき、義姉から福祉事業の話を聞きました。義姉は市内の私立病院で長年看護士をしていました。定年退職をしたときで、これからは地域のために何か福祉的なことを始めたいというのです。そこで同じ気仙沼市内にある障がい者施設を紹介しました。東日本大震災のとき、地元の人と支援者で協力して設立したNPO法人・セミナーレで、私はその立ち上げに関わった一人だったからです。こうしたことから、それをモデルとすることがトントン拍子で決まり、短期間でNPO法人・水梨カフェとして設立認可を受けるに及んだのです。ただ施設と言っても実家の納屋の一部であるし、そこはビニールで仕切った部屋が含まれていました。ですからスタートはとても小さく、不便さが満ちていました。それが1年程して思いがけなく大きく変わることができました。近くの廃校になっていた小学校を借り受け、全面移転することができたからです。今では職員20名を擁する多機能の施設として広く用いられています。納屋で始まったときから数えると5年。怒涛の変化でしたが、弱い者に目を注がれる主の導きと恵みであったように思うのです。
先日、ある方から、どうして牧師になる決断をしたのですかと質問を受けました。職業として考えたら、牧師とはきわめて稀有な存在に思われたのでしょう。数のことではなく、損得の考え方とは別の次元にいるということのようでした。自分では踏み慣らした道であっても、他の人から見ればそうでないのかもしれません。振り返ってみれば、牧師としての歩みは荒野に備えられた道のように、困難はあっても恵みの道でした。そんな感慨を抱きながら、その道に踏み入る決断をしたときのことを思い出しました。
当時、私は某電気会社の社員でした。教会に通うようになって五年ぐらい経っていて、青年会の会長をしていました。教会にはたくさんの青年が集まり、常に活気が溢れていました。あるとき、牧師は、教会のリーダーの訓練会を始めると言い出しました。テキストとなったのが、スポルジョンによる「牧会入門」でした。私は小説以外にそんな分厚い本を読んだことがありませんでしたが、それでも読む前から神聖なものを感じたのでした。その第一章に記されていたのが教役者への召しということです。今でも印象深く残っているのは、「もしあなたが教役者にならなくてもいいと思っているところがあるなら、ならない方がいい」と書いてあったことです。要するに教役者になるには、自分では抑えることができない程の内的な確信がなければならないということなのです。預言者エレミヤが「私は内にしまっておくのに耐えられません」(エレミヤ20:9)と述べているような熱意です。それは神からの召しということで、これがないなら教役者になってはならないとありました。
それをどのように受け止めたのか、記憶に曖昧なところがあって、論理的にうまく説明することはできません。それでも自分の思いだけで決めたなら、教会が立ちいかなくなったとき、自分自身の方向性を見失うだけでなく、教会にも迷惑をかけるだろうと考えたことは覚えています。実際にこれまでの歩みの中には、そんなことが数多くありました。それでも前に進むことができたのは、主の召しが真実であったからだと思っています。
更新日:1月13日
能登半島地震の被害状況を知るにつれ、13年前の東日本大震災の記憶が呼び覚まされます。あのときも寒かったけれど春分の日が近かった。今回の地震は冬真っ只中です。底冷えがする西風に、子どもや高齢者の健康が害されはしないかと心配です。障がい者やその家族の中には、避難所さえも利用できない状況が発生しているかもしれません。東日本大震災のとき、支援活動をしていた地区で障害者の窮状を知ったのは、地震の発生から一年が過ぎてからのことでした。
緊急避難では、ライフラインの確保が最優先にされます。それが防災の鉄則ですが、道路が寸断されているので、避難所に水とか食料品さえも十分に届いていないということです。被災した人たちの中には、「自分たちは見捨てられた」と孤独感や喪失感に陥っている人がいるということです。そうした人たちに支援の手が届くことが、社会全体の役割りとして強く求められていることでしょう。小さくても、そんな働きの一つに加わってみたいと願っています。
被災者の悲しみが癒されるのはいつのことになるでしょうか。それでも必ず復興のときが来る。そう信じて一歩一歩前に進んでもらいたいです。そうした中で、失われないものに目を止めることができるかもしれません。東日本大震災を通して、そうした希望を見出した人たちがたくさんいるのですから。