近くの水の森公園を歩いていて、蕗の薹(ふきのとう)が顔を出しているのを見つけました。子ども心になって、春を探していると楽しくなります。散歩コースであるこの公園の端に丸田沢という溜池があります。毎年、ここに多くの鴨や白鳥たちがきて観察者たちを楽しませているのですが、その白鳥たちが北に帰るときが近づいてきました。夕暮れになると、周辺の餌場から編隊を組んで引き揚げてきて、少しづつ高度を下げながら布をかけるように静かに舞い降ります。それは何度みても見事と思える着水で、その姿をカメラに納めたい人にとっては絶妙なシャッターチャンスになります。
遊歩道を歩いていて、そうした構えをしていた御婦人に「いい写真が撮れましたか」と声をかけてみました。するとその方は軽くカメラを持ち上げてニコリとしました。「今は五十羽ぐらいですかね。先週は百羽ぐらいいました」と私。「五時半ぐらいがピークになると思います。その頃には百羽になるでしょう。」と明るく答えてくれました。その時間には風も冷たくなるでしょうに、ずっと待っているようでした。
北に帰る白鳥には、どことなく郷愁のようなものを感じます。一旦飛び立ってしまえば数千キロの旅をしなければならない。それは過酷な試練に違いないのです。それでも生き延びるためにはどうしても通過せざるを得ない。そうしていのちを繋いできたんだなあと考えてしまいます。それからすれば、地上に張り付いて生きている人というのは、愚かな存在にみえてしまうかもしれません。そういえば、聖画に描かれた天使の絵には、見事な翼が描かれていました。
更新日:2024年2月2日
冬から春に向かうこの時期を、光の春と表現することがあります。もともとは冬が長いロシアの言葉らしいのです。それが日本でも用いられるのは、春らしい陽気とはいえないけれど、確実に日差しが伸びていることに春を感じようとする気持ちがよくあらわれているからでしょう。
能登半島地震の被災地では、ライフラインの復旧が急がれています。なかなか進まない工事に苛立ちを募らせる人も多いと思われます。仮設住宅の建設が遅れているので、そこに移転するまでに疲れ切ってしまいはしないか心配です。東日本大震災とは全く状況が異なるので、軽率なことは言えないのですが、共通した部分が見出されるたびに心が痛みます。あの時の被災地では、梅や桜の開花も話題にならなかった。そんなことに気にとめる余裕などなく、朝、床から起きたときにある課題のため終日走り回っていました。それでも春が来て、何かが少しづつ動き出していったような感覚があります。
春は待ち遠しいけれど、その足音がなかなか近づいてくれない。まるで行ったり来たりしているように思われてしまう。北風に晒されたり、雪と氷に閉ざされるようなことが起こったりもする。あるいは裏切られたような気持ちになってしまう。それでも確実に春は来る。冬枯れの中に、突然に花を咲かせるアーモンドのことを、パレスチナでは目覚めの木と呼ぶようです。春にはそんな驚きと感動があります。
神への信仰では、春を待つ思いと共通なものがあると思います。神の言葉が成るということでは、光の春と同じような確実さがあるからです。近くの家の庭先に福寿草が咲いていました。春はそこまで来ていると実感しました。
更新日:2024年1月28日
牧師としての歩みを振り返ってみると、いつも障がい者との関わりがあったことに気付かされます。その出会いは常に新しい発見であり、神の恵みを知る機会でもありました。クリスチャンになったのは21歳の頃。教会には、Hさんという知的障がい者がいました。ある日のこと誘われるまま彼の自宅にいきました。すると、Hさんのお母さんはとても喜んでくれて、手打ちうどんを御馳走してくれたのでした。お母さんの話を聞けば、Hさんは職場では辛い思いをしているとのこと。教会でいつもにこにこしているのと違う現実があることを知らされたのでした。牧師になってその教会から離れても、Hさんから度々電話がありました。その交わりはHさんが癌で召されるまで続きました。
実家で障がい者のNPO法人が立ち上がったのは、それと直接は関係がありません。それでも主の御手の内に、どこかでつながりがあるような気がするのです。あるとき、義姉から福祉事業の話を聞きました。義姉は市内の私立病院で長年看護士をしていました。定年退職をしたときで、これからは地域のために何か福祉的なことを始めたいというのです。そこで同じ気仙沼市内にある障がい者施設を紹介しました。東日本大震災のとき、地元の人と支援者で協力して設立したNPO法人・セミナーレで、私はその立ち上げに関わった一人だったからです。こうしたことから、それをモデルとすることがトントン拍子で決まり、短期間でNPO法人・水梨カフェとして設立認可を受けるに及んだのです。ただ施設と言っても実家の納屋の一部であるし、そこはビニールで仕切った部屋が含まれていました。ですからスタートはとても小さく、不便さが満ちていました。それが1年程して思いがけなく大きく変わることができました。近くの廃校になっていた小学校を借り受け、全面移転することができたからです。今では職員20名を擁する多機能の施設として広く用いられています。納屋で始まったときから数えると5年。怒涛の変化でしたが、弱い者に目を注がれる主の導きと恵みであったように思うのです。