仙台のぞみ教会
いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中ですぐれているのは愛です。
(1) 神を信じるということ
夕焼けの空に沈む太陽の荘厳さに感動したり、夜空に輝く星々の輝きを
不思議に思ったり、身近に触れる生き物の神秘さに驚くということは誰に
でも経験があることです。そんなとき、この世界が誰かに造られたもので
はないかと考えたことはないでしょうか。自然の中にみられる完璧な設計
と美しいデザイン。そこには現代科学をもっても説明のできない、あまり
にも多くの知恵が隠されています。
新約聖書の著者の一人であるパウロは、自然は創造者による作品であっ
て、自然を通して神の本性を知ることができると語っています。
「神の目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造
された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるの
あって、彼ら(人々の意)に弁明(神を知らないとすることの意)の余地
はないのです。」(ローマ人への手紙1章20節)
「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した西行法師(1118~1190)の和歌は、日本人の宗教的な感性に響くものとして時代を越えて広く親しまれています。この歌の中で詠われている「なにごと」は、目にみえない超自然の存在であり、そこでは信仰の対象が隠されたままぼんやりしています。作者はそれでも、確かな理由もなく感謝の想いに「涙こぼるる」のです。この歌が多くの人の共感を呼ぶのは、日本人の心の中にはもともと信仰の対象よりも信仰心を重要視する宗教的な傾向があるからでしょう。今でも「信仰」よりも「信心」の方がピッタリ感があるという人も多いのではないでしょうか。
信じるとき、軸足が自分の内側に向いているなら、信じる対象がどうであるか追い求めることは重要なことでなくなります。信じているのは自分で、それは動かないままであるからです。それに対して信じる対象として軸足が外側に動くとき、何を信じているのかわからないままでは済まされないでしょう。場合によっては、信じる価値のないものを信じて、後から裏切られたことに気がつくこともあるからです。その場合の喪失感は他に比べようがありません。
人間関係で他者を信じるというのは、言葉や行いによって関係づけられる人格的な行為です。実際には関係の浅い深いの違いはありますが、関係が真実であるためには相手の言葉の背後にある人格を受け入れることが欠かせません。もし相手の言葉が曖昧なままであるなら、どうして真実をもって信じる関係が成り立つでしょうか。自分の願望として信じても、それはいつ壊れるかもしれない不安を抱えることになるのではないでしょうか。聖書において神を信じるということは、創造者である神がおられることを信じ、その神との関わりをもって歩むことを意味します。信仰生活においては、神の言葉である聖書が重要になってくる理由がそこにあります。
(2) いのちの言葉
神は聖書によって、すべての人に対する御自身の愛を明らかにしておられます。ですからもし人が神を見出すなら、たとえその人が困難に遭遇してたとしても、あるいは絶望的な状況に陥っていたとしても、神が備えられる脱出の道をみつけることができます。その信仰の道を迷わないよう、手をとって案内するのが聖書です。
聖書は1冊の本のように思われがちですが、実際は様々な本の合体で、紀元前に書かれた旧約聖書39巻と紀元後に記された新約聖書の27巻が合わさってあります。それぞれ書かれた時代も著者も異なっているのですが、主題はキリストという点で一貫して構成されています。その理由として著者の背後に神の働きがあったことが示されてます。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」 テモテへの第二の手紙3章16節
「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりのときには、御子によって私たちに語られました。」 ヘブル人への手紙1章1節
本は書かれた目的に沿って読まれる必要があります。文芸書と学術論文あるいは情報誌では文体も表現方法も異なっているのが普通です。それを無視して読み進むときに、とんでもない誤解をしてしまうことがあるでしょう。神の言葉である聖書は、文学的手法や歴史書の叙述方法が用いられていますが、基本的には文芸書でも歴史書でもなく、神の救いを指し示す啓示の書です。ですから目的とする主題から離れてしまうと、混乱するばかりということがおこってしまいます
聖書は今も世界の隠れたベストセラーですが、各時代の中で内容が否定されたり、攻撃を受けてきました。そこには神の言葉に真摯に向き合わないで、最初から神を否定する論理が働いている場合が多いのです。逆に考えれば、そうした試練に耐えてきてあるからこそ、真実さが明らかにされてきたとも言えます。1世紀にキリストの弟子として迫害を受けたヨハネは、聖書が書かれた目的を次のように記しています。
「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子であることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」 ヨハネの福音書20章31節
(3)キリストの福音
現在のトルコ南西部に、2千年前、タルソと呼ばれる町がありました。この町で生まれたユダヤ教学者にサウロ、後の名をパウロと呼ばれた人がいます。ユダヤ教ではキリスト教を異端視していたので、サウロはキリスト者を激しく憎んでいました。ところがクリスチャンを迫害するため旅をしていたとき、天からの啓示により復活のイエスに出会います。そこで罪を示され、悔い改めてイエスを信じ180度人生の大転換をしました。それからサウロは人々の中でイエスこそ救い主であると語り、熱心にキリストの恵みをあかししました。
やがてパウロと改名されてからは外国人伝道のため活躍する人物になっていきます。新約聖書の3分の1はパウロの記述によるものです。
このパウロが聖書で最も大切なことを記しています。そこには「キリストは聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと」、また「聖書の示すとおりに三日目によみがえられたこと」とあります。死は不可逆なことで、死からの復活は起こり得ないことです。ですから、復活と聞いただけで心を閉じてしまったり、馬鹿げたこととして頭から否定する人もいるでしょう。
しかしここでは、復活が全能者の御手により歴史の中でただ一回起こったこが告げてられています。それが「聖書の示すとおりに」と言われていることに注目してください。この場合の聖書とは、キリストが誕生する以前に記された旧約聖書のことです。つまり1500年以上の年月に渡って書き留められた聖書が、キリストの死と復活を予め預言をし、その真実性を証言しているということです。