仙台のぞみ教会
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2024年9月29日「償いの業」(Ⅰサムエル6:1~12)
聖書は災害とか病について原因探しをするものではない。危機的な状況においては、誰もが同じ所に立っているからである。そのためある状況において、神との関係を問い直すように導かれることがある。イスラエルの歴史において信仰を見失った民のため、苦しみに直面したペリシテ人の取り扱いを通して、その証しがされた。
1.ペリシテ人たちが戦利品とした神の箱は、イスラエルと主なる神との関係性を証しするものであった。ペリシテ人は、その箱を自分たちの領域に持ち込んだのあるから、自分たちと主なる神との関係が問われるべきであった。けれども、ペリシテ人の民衆の側にはそうした発想が一切なく、自分たちの所から出て行ってほしいと願うだけである。そのため占い師や祭司が呼ばれた。神は律法において、占いとか偶像礼拝を禁止しておられる。それでもイスラエルが信仰を見失ったとき、神はこうした異教の知恵者たちを用いながら、神を尋ね求めるようができるよう導かれた。
2. ペリシテ人たちは、自分たちの上に降った神の重い手を自覚していた。そのための償いが必要であるとされた。それはダゴンの神に屈したイスラエルの神という発想を打ち砕くものである。償いは罪を認識し、それが取り去られることを願うものである。5つの金のネズミは、腫物の病を広げた元凶であるばかりではなく、ペリシテ人自身を示す。これが神への金という価値あるものに
変えられて献げられることに意味がある。
3.神の箱は、ペリシテ人によってイスラエルに返すことになった。けれどもこの背後に働いているのはイスラエルの神である。神の箱は、牛に曳かれた車
の上に載せられた。「新しい車を用意し、くびきをつけたことのない、乳を飲ませている牝牛を二頭とり、牝牛を車につなぎ、その子牛を小屋に戻しなさい。また、主の箱をとって車に乗せなさい。償いとして返す金の品物を鞍袋にいれて、そのそばに置きなさい」(7,8) 用意された雌牛は、子育て中の牛であるから気が荒く、通常ではこのような任には適さない。それを御者抜きで
目的地に行かせるのである。ここでは常識外れの方法が設定されたが、牛は右にも左にもそれずに「一本の道を真っすぐに進んでいく」(10) ペリシテ人たちは、この光景に背後に働いている神の意思を確信した。
2024年9月22日「切り離されたダゴン」(Ⅰサムエル5:1~16)
「ダゴン」は、当時、この地域で農耕の豊穣を祈る「神」として祭られていた。それは人間が自分の思いを形にして作ったもので、そもそも人や世界を創造した聖書の神様とは全く異なるものであった。一方、生ける聖書の神の象徴としてイスラエルに預けられていたものであった。
今日は第一に「ダゴンの神殿におかれた契約の箱の証し」について見ていきたい。イスラエルに勝利したペリシテ人は「神の箱を取り、ダゴンの神殿に運んで来て、ダゴンの傍らに置いた」(Ⅰダニエル5:2)。ここで注意したいのは「神の契約の箱」とは、神様そのものではないという点である。一方、ダゴンの像はペリシテ人の想像する「神」そのものとして崇められていた。ペリシテ人は、ダゴン像の足元に神の箱を置いて、「イスラエルの神が、ダゴン神に屈した」と表したかったのだろう。このときより百年前、サムソンがダゴンの神殿に連れて来られて見せしめにされたことがあるが(士師記16:23-25)、このときイスラエルの統合の象徴である「神の契約の箱」が置かれたことは、さらにひどい状況であった。繰り返すが、「神の契約の箱」は神様ではない。しかし、ペリシテ人が翌朝、さらに翌朝見るとダゴン像が倒されたりバラバラにされたりしていた。それは生ける神様のさばきであり、そして神様はペリシテ人の「最高神」を、「人の手で作ったガラクタである」ことを示された。現在の私たちも、人の手で作ったものに過ぎない像を崇めるが、神様はそれをさばかれることを忘れてはならない。
第二に「わざわいとなった主の御手」について見ていきたい。ペリシテ人が「神の契約の箱」を破壊せずに神殿に置いたのは、「力あるイスラエルが自分たちの側に着く」ことを期待したのであろう。しかし期待に反して「主の手はアシュドデの人たちの上に重くのしかかり、アシュドデとその地域の人たちを腫物で打って脅かした」(Ⅰサムエル5:6)結果となった。現代の私たちも「神様が多ければ後利益が多い」と考え、多くの神々を祭ることがある。しかし生ける本当の神はただお一人であり、それに気づかせ、あるべき姿に人びとを導くためのさばきであったのだろう。ちなみに「アシュドデ」は海沿いにある町で、おそらく海洋民族でもあったペリシテ人は、海に乗り出すときにダゴン神を拝んだりして安全や安心を得ていたのであろう。ところが、その神殿に「神の契約の箱」を置いたことで、ダゴンの神殿は自分たちの不幸や恐れの源となった。そして、ようやく「イスラエルの神の箱は、われわれのもとにとどまってはならない。その手は、われわれとわれわれの神ダゴンの上に厳しいものであるから」(5:7)と気づいた。「神の契約の箱」を戦場に持ち出して景気づけようとしたイスラエルの民よりも、よほど「神の契約の箱」を畏れその意味をよく理解したのは皮肉なことである。このような謙虚さや畏れがなければ、表面的に信仰があるように見えても意味がないことを忘れてはならない。
第三に「神の契約の箱の帰還」を見ていきたい。ペリシテ人たちは、ダゴン神殿のあった「アシュドデ」から20キロ内陸(イスラエル寄り)の「ガテ」の「神の契約の箱」を移したが(5:8)、そこでも恐慌を起こしたため(5:9)、さらに少しシロに近い「エクロン」へと移した(5:10)。本来、ペリシテ人の大勝利の戦利品であった「神の契約の箱」が、ここにいたって完全に畏れの対象になっていた。これらの出来事を通してペリシテ人の間で「神の契約の箱」と生ける神様がどういうものかが、おぼろげながら伝わって行った。つまり生ける神様は人間が自分勝手に利用できるものではなく、自分たち遥かに超越した存在の神様のさばきにあっていることを理解した。その結果、「イスラエルの神の箱を送って、元の場所に戻っていただきましょう」(5:11)と考えるようになった。彼らは神様が与えられたわざわいを通して、神様と自分たちの関係をどう正すべきか模索を始めたのである。たしかにわざわいは降りた。しかし聖書を読む私たちは、そこに神様の大きな愛と卓越した業を見出すことができる。
2024年9月15日「栄光が去った日」(Ⅰサムエル4:1~18)
私たちは何度か失敗をする。信仰生活においても失敗から学ぶこともある。それが成長の糧になるものもあるが、「もう二度と誤ってはいけない」というものもある。今回のイスラエルの歴史は、神の祝福が契約に裏打ちされたことであり、そのことを忘れた場合に起こることを示している。
今日は、第一に「主の備えを欠いたイスラエルの戦いの末路」について見ていきたい。この時代、イスラエルは異教の神々を信仰する民族に囲まれ、絶えず侵略を受けていた。だからこそ、危険の中で神様に拠り頼むことで祝福された生活が保障されていた。このころサムエルは「主の預言者として堅く立てられたことを知った」(Ⅰサムエル3:20)とあり、一方で本来の大祭司であるエリは「九十八歳で、その目はこわばり、何も見えなくなっていた」(4:15)と肉体的な衰えだけでなく霊的な盲目でもあった。そのような状態で先住民ペリシテ人がイスラエルと敵対し、領地ギリギリのところに陣を張られていた(4:1)。そして戦いの結果、大敗北を喫していた。ちなみにイスラエルの死者四千人(4:2)というのは、天下分け目の戦いであった関ヶ原の八千人の半分にも上るものであった。それはなぜか。これまでのイスラエルの歴史を見ると神様に伺い、神様に従って戦ってきたが、このときは何も行わず単に戦いに行っていた。それはイスラエルの歴史や存在意義からすると当然であった。
第二に「その中で祭り上げられた神様」について見ていきたい。その敗北の原因について、十五にいただけのイスラエルの長老たちは「神様が敵の側について自分たちを打った」(4:3)のだと分析した。おそらく長老たちの頭には、モーセの時代の出来事を思い出し(出エジプト32:28)、契約の箱さえ持ち出せば神様は自分たちの側に着くと考えた(Ⅰサムエル4:3)。しかし、そこには「神様はどういう方で、神様は自分たちに何を望んでおられるか」とは一切考えず、自分たちの勝手な考えのもとで神殿から持ち出した。しかも神様の前に悪を積み重ねてきた大祭司エリの二人の息子ホフニとビネハスが中心にいた。その結果は、「三万人が倒される」(4:10)という歴史的な悲惨な状況となった。このことから私たちは、次のようなことを考えるべきである。私たちは問題に直面したとき、その現実にだけ対応しようとする。しかし私たちはそこで立ち止まり、神様のみことばに耳を傾け、神様と自分との関係を考え直し、信仰的に成長する機会を神様が与えてくださっていることを考えなければならない。
第三位「結果として失われたイスラエルの栄光」について見ていきたい。契約の箱がイスラエルの陣営に到着したとき「全イスラエルは大歓声を上げた。それで地はどよめいた」(4:5)という状況となった。一方、ペリシテ人の方は「これは、荒野で、ありとあらゆる災害をもって、エジプトを打った神々だ」(4:8)と、神様がイスラエルについていたことを知っていた。ペリシテ人は、イスラエルに強大な神がついていて「困った」と感じた(4:7)。だが神様は、人間の自分勝手な要求に従う、ご利益宗教の紙ではない。イスラエルもペリシテ人も恐れた「契約の箱」は実際には戦場で何の影響も与えず、戦いにおいて追い詰められて気力を奮い立たせたペリシテ側の大勝利となった(4:9)。イスラエルの大敗北と、その上に神の箱が奪われたことを聞いた大祭司エリは「門のそばにあおむけに倒れ、首を折って死んだ」(4:18)。イスラエルから神様の栄光が取り去られたこの出来事の中に、サムエルのことは一度も出ていない。つまり「サムエルのことばが全イスラエル」(4:1)に行き渡りながら、サムエルを通して語られた神様のみことばが無視され、聞かれなかった結果ということである。神様のことを自分勝手に考え、神の箱を持ち出して戦ったイスラエルは悲惨な結末を迎えた。このような歪んだ信仰や信頼は、時に無信仰よりもなお危険である。私たちも、神様が何を語り、何を望んでおられるか、それを真摯に受け止め、みことばに従っていかなければならない。
2024年9月8日「主の御声を聴く者」(Ⅰサムエル3:1~14)
【140字ダイジェスト】
神様は大祭司エリではなく、サムエルに語り掛けられた。神様は、サムエルに語りかけると同時に、なぜ大祭司に語りかけなかったのかをエリに気づかせたかったのかもしれない。私たちは神様の声に聴き従い、語りかけておられることに耳を傾け考えなければならない。そのことが、祝福の道へ転換点となる。
人間関係をスムースにするための「話し方」についてはよく語られる一方で、「聞き方」についてはあまり語られない。イエス様は弟子たちに「聞き方に注意しなさい」(ルカ8:18)とおっしゃっているが、神様の声をどう聞くかは、私と神様の心がどう結びついているかに関わってくる。
今日は第一に「神様の前に備えられていく生活」について見ていきたい。神様の声を聞くことによって、私たちの生活が整えられていくことは重要である。サムエルは、幼いころから神殿(当時は幕屋であった)のあったシロにいて神様に仕える生活をしてきた。当時の幕屋には神様の「契約の箱」が置かれ、その中には神様がモーセと契約したときの契約の石板が置かれていた。そして夜中十絶やさずにともしびを灯す必要があった(レビ24:3)。しかし、高齢だった大祭司エリは「自分のところで寝て」(Ⅰサムエル3:2)、少年サムエルがその番をしていた(3:3)。このように大祭司エリは、自分に与えられた役割を軽んじて来ていた結果、神様からの働きかけはほとんどなくなっていた(3:1)。当時のイスラエルは、神殿を中心に信仰を守ることが十二部族の結束の象徴であったが、その部分が軽んじられてタガが緩んできた時代であった。そんな時代に神様が備えたのがサムエルであった。イスラエルの歴史の中でサムエルの登場は大きなものであったが、それは息子を欲した母ハンナの思いが、祈りの中で神様に仕えささげるものとなり、その祈りを神様が祝福されたことに始まる。サムエルも神様への祈りの中で母を思っていた。私たちも、神様の前に祈るとき、神様にどういう姿勢で聴き従うかが重要である。
第二に「主がサムエルを呼ばれた出来事」について見ていきたい。神様に呼ばれるということは、神様に召し出されるということである。このときサムエルは、三回目もエリの言葉だと誤解していた。ここで考えたいのは、神様が語りかけたのはサムエルだけでなく、「なぜ大祭司のエリに語られなかったのか」という点をエリに反省させるためではなかったか。このとき、エリは大祭司としての役目を軽んじて寝ていた上に、エリの二人の息子は神様へのささげものの儀式を自分たちで穢していた(2:16)。そんな状況の中で神様が呼ばわれたのはサムエルであった。「神様に呼ばれる」というのは「神様に召し出される」ということであり、この応答こそが礼拝の基本である。聖餐式も、神様がひとり一人を呼ばわれたことであり、単なる儀式ではなく「神様に召し出されている」という意識を自覚したい。
第三に「御声を聴くための従順」について見ていきたい。ここで「神のともしびが消される前」(3:3)という表現に注目したい。神のともしびは、ずっと灯されているものであり、それが消されるということは、4章であるようにペリシテ人に神の箱を奪われてイスラエルの信仰の中心が消えることも指している。一方、サムエルは神様に対しても、大祭司エリに対しても従順に従っていた。その従順は、やはり母ハンナの信仰の姿勢から来たのではないだろうか。彼女の祈りは、神様は「弱い者」「貧しい者」を引き上げてくださる存在であると祈った(2:8)。彼女は、「神様が自分の祈りを聞き入れて息子を与えてくださった特別な存在である」などと高ぶらなかった。それかは彼女の祈りからもうかがえる。その信仰がサムエルに引き継がれた。さらにサムエルは、大祭司エリとの生活の中で従順さを身につけた。そんなサムエルに、神様は「サムエル、サムエル」(3:10)と語られた。そして神様は「主はサムエルに言われた。その内容は「エリの家についてわたしが語ったことすべてを、初めから終わりまでエリに実行する」(3:12)「エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に赦されることはない」(3:14)という厳しいものであった。人間的には厳しい話であったが、私たちは神様が私たちに何を語りかけておられるかを考えなければならない。そして御声に耳を傾けることが、人生を祝福の道へ大きく転換させる転換点となる。
2024年9月1日「主に仕える姿」(Ⅰサムエル2:18~21)
【140字ダイジェスト】
母ハンナはサムエルを与えられ、請願の通り息子を神に仕える者としてささげた。その祈りのはじまりは、自分が置かれた状況を変えたいとの思いからであったが、祈りの中でそれは昇華され神様に仕える思いが与えられた。神様はその小さな祈りを祝福し、イスラエルの歴史にとっての大きな実業をなされた。
人生を振り返るとき、いくつかの転換点があったことに気づく。そこで立ち止まって考えることにより、自分の人生を考えるようになる。多くの場合、そのときは必死で何も考えられなくても、聖書はその転換点をみことばを通して示し、神様の導きを表してくれる。
今日は第一に「主に仕えるサムエルの姿」について見ていきたい。聖書には「さてサムエルは、亜麻布のエポデを身にまとった幼いしもべとして、主の前に仕えていた」(Ⅰサムエル2:18)と書かれている。母ハンナは祈りの中でサムエルを与えられ、その請願の通り神様に仕えていた。サムエルは、そのような母と神様の「仕え―仕えられる」という「縦の関係」の中に置かれていた。ハンナは「この子のことを、私は祈ったのです。主は私がお願いした通り、私の願いをかなえてくださいました。それで私もまた、この子を主にゆだねます。この子は一生涯、主にゆだねられたものです」(1:27-28)と、祭司エリに表明した。母ハンナが作ったエポテは祭司のしるしであり、亜麻布は神の清さを表している。彼の服装には、母の強い決意が表れている。一方、祭司エリの二人の息子は、「よこしまな者たちで、主を知らなかった」(2:12)とある。彼らは世襲制である祭司の息子として儀式は行っていたが、神様のためのささげものを力づくで横取りしていた(2:13-16)。本来、引き継がれるべき者が、罪ゆえにその特権を別の者が引き継ぐことは、イスラエルの歴史に数多くあった。それどころか「選ばれた民」イスラエル自体が神様の福音を拒否し、異邦人へと福音が広がって行ったのが新約聖書の時代である。
第二に「ハンナの信仰と祈りの姿」について見ていきたい。せっかく授かった子どもに母ハンナが会えるのは、神殿にいけにえを捧げに行くために上る、年に一度だけであった(2:19)。しかし毎年「彼の母は彼のために小さな上着を作り」(2:19)というところに、母ハンナの愛と祈りが込められているように思う。そこには成長する息子を思いながら「私の心は主にあって大いに喜び」(2:1)とあるように、主に仕える息子の姿が彼女の力と喜びのもととなった。この祈りは、イエス様の母マリアの祈りに通じるものがある(ルカ1:46-55)。人間的にハンナは、サムエルの成長に関わることはほとんどなかった。しかし、神様への祈りを通して母と息子は深く結ばれていた。
第三に「主の顧みと祝福」について見ていきたい。ハンナ達夫婦に、祭司エルカナは「エリは、エルカナとその妻を祝福して、『主にゆだねられた子の代わりとして、主が、この妻によって、あなたの子孫を与えてくださいますように』」(Ⅰサムエル2:20)と祈った。ハンナが身ごもってから、もう一人の妻ペニンナは出てこない。また祭司エリも、以前は一生懸命祈るハンナに対して酒に酔っていると誤解していたこともある(1:14)。実際、祭司エリは、神様の前に二人の息子の行った不遜を止められなかったような信仰的な問題もあった。だが、この場面だけは「待ち望んだ息子を主に捧げるハンナの決意と痛み」について理解していたようである。神様は、そのようなエルカナとハンナを顧みて「彼女は身ごもって、三人の息子と二人の娘を生んだ」(2:21)のように祝福された。ここには祭司エリの祈りや同情からでなく、毎年神殿に登ってくるエルカナとハンナの行動からでもない、「祈りを顧みられる神様の業」を見ることができる。サムエルの時代は、政治的にも信仰的にも暗黒の時代であった。また家庭におけるハンナもつらい日々を過ごしていた。しかし、人々の小さな祈りの中で神様の業は働き、神様へ栄光を帰するとき、神様は私たちの想像をはるかに超えためぐみを見せてくださる。祈りは「自分の欲求を神様に聞かせる」ために行うのではない。「神様と自分自身との関係」を顧みて、それがまっすぐに「仕える―仕えられる」という縦の関係であったかどうか考える必要がある。人生の課題を抱えることは多い。しかし、そんなときにこそ、神様との関係を見つめて祈り、従っていく必要がある。
2024年8月25日「主への切なる祈り」(Ⅰサムエル1:1~11)
【140字ダイジェスト】
子どもがいない苦しみの中でハンナは、その問題を神様に祈った。そのハンナの祈りは、最初の動機だった利己的なものから、やがて神様に栄光を帰するものとなっていった。神様は私たちの小さな出来事に大きく関わり、私たちの期待や想像をはるかに超えたものとなった。「祈り」の力は、それほど大きい。
旧約聖書は、来るべきイエス様の救いの時代の神様との関係の「ひな型」である、神様とイスラエル民族との契約について書かれている。たしかに面白い「物語」はたくさん書かれているが、「ひな型」ゆえにそこから神様と人間との関係を理解するには難しい部分もある。その難しい部分をていねいによみとくことで、旧約聖書がイエス様の救いを指し示していることや、そこに働く神様の御業をより深く理解することができる。では、今日からの箇所に出て来るサムエルとは、どういう人物か。実は、それ以前のイスラエルは「国家」というより「幕屋を中心とした十二の部族集まり」という特殊な社会であった。やがてイスラエルの周りには外敵が多くなり、民衆は神様のもと「士師」と呼ばれた宗教的リーダーによる緩やかなまとまりでは対処できないと考えはじめ、やがてサウルやダビデによる王政に移行していった。このサムエルは、その橋渡しの時代に登場した人物である。今日は、サムエルの信仰の基となった、母ハンナの信仰について見ていきたい。
今日は、第一に「ハンナが抱えていた個人的な問題」について見ていきたい。第一歴代誌を見ていくと、サムエルは神殿の奉仕をするレビ族の家系であった(Ⅰ歴代誌6:1-31)。父エルカナは二人の妻がおり「ニンナには子がいたが、ハンナには子がいなかった」(Ⅰサムエル1:2)ため、二人の妻は日常的にいさかいがあった(1:6)。当時、幕屋はエルサレムでなくシロにあった(1:3)。司祭であるエルカナが、毎年、幕屋に行って神様に動物を献げていた。この動物犠牲は、最上の部分である脂肪は焼いて神様に捧げ、それ以外の部分は地位に応じて家族で一緒に食していた。このときエルカナは、子どもたちがいるペニンナと、子どものいないハンナに同等の部位を同量与えていた(1:5)。そのような扱いにペニンナは怒り、ハンナは泣いて食べなかった。本来、家族で幕屋に行き、神様に献げ、家族で共に感謝して食事をする幸せなシーンだが、実際はギスギスした家族関係が毎年繰り返されていた。その状況にエルカナは気づいていたが、彼はそのような妻の気持ちがわからずのん気に尋ねている(1:8)。
第二に「ハンナの切なる祈り」について見ていきたい。このような状況の中でハンナが行ったのは、神様に祈ることであった(1:10)。しかし絶望の中で主に祈ったことが、ハンナという小さな存在だけでなく、イスラエル社会の状況を決定的に変えた。たしかにハンナは、はじめこそ自分の心の中にある痛みについて祈っていただけだが(1:10)、神様はその小さな出来事に大きく関わっていらっしゃった。私たちは神様が私たちの出来事に関わるということは、自分の期待や創造をはるかに超えたものであることを忘れてはならない。「祈り」の力は、それほど大きい。
第三に「ハンナの祈りの請願」について見ていきたい。ハンナの祈りは、単に「ペニンナを見返すために男の子が欲しい」というものではなかった。彼女は「万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭に剃刀を当てません」(1:11)と祈った。多くの人は「自分の願いをかなえるため」に祈ると思いがちだが、それは神様を「自分の欲望を満たすためにしもべ」と扱っている。だがハンナは、心の苦しみを吐露する中で、祈りの内容が清められ、神様の御心にかなうような請願となった。人間的に考えれば、せっかく与えられた子どもを神様に渡すなら、何のために祈ったのか分からないと思うかもしれない。でもハンナは、「与えてください」という自らの欲望を超え、祈りの中で神様を称える行為や信仰へと変わっていった。そのハンナの祈りと信仰を通してサムエルが与えられ、サムエルによってイスラエルが変わっていった。私たちの祈りは小さいが、そこに働かれる神様の御業は大きい。そのことを忘れず、神様に祈り続けたい。
2024年8月18日「地の果てに届くことば」(マタイの福音書28章11~20節)
【140字ダイジェスト】
モーセ以外は許されなかった旧約と比べると、弟子たちが山に登りイエス様を礼拝したということは、すでに十字架によって罪許された状態になった証拠である。そんな私たちに、イエス様は、「神様と個人的なつながりに基づく信仰」に留めず、教会で交わり成長し、外に対して宣教を行うよう命令をされた。
1891年にアメリカからの15人の宣教師が来て日本の僻地で宣教を始めたことが源流の日本同盟基督教団は、五年に一回大きな大会を開き世界宣教の使命を共有してきた。現在、世界中に福音を届ける機械は発達したが、伝えるメディアが変わっても神様のことばを揺るがしてはいけない。
今日は第一に「神様に心を閉ざした祭司長や長老たちの工作」について見ていきたい。著者マタイは、祭司長たちの言動は「地上的な権威の破綻」だと見てきた。安息に戸の翌日「墓の中にイエス様の身体がない」という事実が明らかになった。この事実に対して、祭司長たちは「そこで祭司長たちは長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、こう言った。「『弟子たちが夜やって来て、われわれが眠っている間にイエスを盗んでいった』と言いなさい」(マタイ28:12-13)という工作を行った。封印されローマ兵によって警備された墓から身体がなくなるということはありえないことであった。ここで注目したいのは、ローマ兵たちは総督ではなくユダヤの祭司長たちに報告に行った点である(27:11)。その理由として、①総督にはこのような不思議な現象が説明できないこと、それ以上に②身体がないという現象がローマの権威を超えた何かの業が働いたと直感的に感じたからであろう。だから祭司長たちに報告に行ったのだが、それを聞いた祭司長たちは「墓の中に身体がない」ことは信じたが、その現象をイエス様の預言の成就とは考えなかった。彼らの決断は、神様の業であるとも、ローマの権威を守る行動もせず、兵士たちを丸め込んで(28:13-14)ひたすら自己保身を図った。彼らが兵士に語った言葉は、以下にむなしく卑しいものであった。
第二に「礼拝の中で神のことばを受け止める大切さ」について見ていきたい。一方、弟子たちは「十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。そしてイエスに会って礼拝した」(28:16-17)と書かれている。これは初めて弟子たちが行った「公の礼拝」である。旧約聖書では、モーセがシナイ山で神様を礼拝し、契約の石を受け取ったが、そのときに民は山に近づけなかった(出エジプト19:21-22)。それは罪の問題を取り扱っていない時点では、神様に近づくことができなかった。一方、「イエス様を裏切り逃げる」という大きな罪を犯した弟子たちにイエス様に近づき礼拝ができるようになったということは、すでに十字架によって罪許された状態になった証拠である。罪ある私たちはイエス様の十字架によって清められ、公に神様を礼拝できる。その中には神様のことを、まだよくわからないもの(マタイ28:17)、ともに教会で祈ることを許されている。そのめぐみは画期的である。
第三に「宣教の広がり」について見ていきたい。イエス様は弟子たちに「わたしは天においても地においても、すべての権威が与えられています」(28:18)と宣言されている。ローマ総督は皇帝の権威によってイエス様を裁き、祭司長たちは神様に対する儀式を行う権威があると主張した。しかし、そのような人間的な権威を、イエス様は十字架を受け入れるという徹底的なへりくだりを超えて、それらをはるかに超える権威を神様から与えられた。そのイエス様が、あらゆるものを超える権威で発したことばが「あなたがたは行って、あらゆる国の人たちを弟子としなさい。父、子、聖霊に名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように教えなさい」(28:19-20)と命じられた。つい数日前にイエス様を裏切り逃げ去った欠けの多い弟子たちに、三位一体の神様の権威に基づいて、地上での代理として神様とのつながりを持たせなさい(バプテスマ)という重大なミッションを与えられた。それが今における教会の使命である。「私が神様と個人的なつながりと親交があればよいのではないか」という人もいるが、それは違う。教会の中で交わり、成長し、外に対して宣教を行っていく。そのイエス様の命令の重要性を、この時代だからこそ再確認していきたい。
2024年8月11日「復活の希望」(マタイの福音書28章1~10節)
【140字ダイジェスト】
「イエス様を知る」ということは、私たちが特別な体験や奇跡的な出来事に触れて存在を感じることではない。それは神様の命じるところに従い、行動を起こすことから始まる。イエス様の墓に行った女たちは、御使いのことばに従ってイエス様の復活を弟子たちに知らせた。それが最初の宣教の働きとなった。
今年は79回目の終戦記念日である。当時の日本人の中には終戦を受け入れられず、戦争に負けたことが信じられなかった人も多かった。しかし、この敗北を受け入れたところから戦後の日本の復興が始まった。十字架直後の弟子たちも、同様にイエス様の死を受け入れられなかった、
今日は第一に「週の初めの日になされた神様のわざ」について見ていきたい。聖書には「安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った」(マタイ27:1)と書いてある。当時の社会では女性の地位は低かったが、この復活の事件の中ではこの女性たちが歴史的な目撃の主役となっている。ルカの福音書には、彼女たちはイエス様の遺体に香料を塗るためにやって来たと書かれている(ルカ24:1)。しかし現実には、ローマ兵が番をして校庭に権威による封印がなされていたので、人間的には行っても「無駄足」のように思う。だが彼女たちは、イエス様に対する思いに突き動かされて行動せずにはいられなかったのではないか。十字架の絶望に呆然とするしかなかった彼女たち(マタイ27:61)。それでも闇の中で小さな信仰の行動を起こす。そのようなわずかばかりの信仰に、神様は歴史的な大きな役目を与え、神様の御業の目撃者とした。
第二に「神の現実としてのよみがえり」について見ていきたい。さらに聖書には「すると見よ、大きな地震が起こった」そして「主の使いが天から降りてきて石をわきに転がし、その上に座ったからである」(27:3)と書かれている。石はローマ皇帝の権威のもとで封印されていた。しかし御使いはその権威を転がし、その上に座った。皇帝の権威をはるかに凌駕する神様の権威を示している。そして番兵たちは、その恐ろしさに震え上がり死人のようになった(27:4)。御使いは、ローマの番兵を完全に無視し、女たちに「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい」(27:5-6)と述べている。人間的には完全な封印であったが、その間にイエス様はよみがえられ墓から去ってしまわれた。御使いは「前から言っておられたとおり」と、神様の預言されたとおりに神様の御業がなされたと言った。復活の御業は、みことばと結びついている。私たちは神様のみことばに聞き従うことで、復活の福音にあずかることができる。
第三に「みことばによる確信」について見ておきたい。御使いは「イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます」(27:7)と語った。「イエス様が直接弟子たちのところに行ったらよいのではないか」と考えるかもしれない。しかし信仰とは、イエス様の命じるところに従い、行動を起こすことから始まる。「イエス様を知る」とはどういうことか。それは私たちが特別な体験や奇跡的な出来事に触れることで神様を感じるのではない。そうではなく、まず私たちは小さな信仰の芽で「イエス様のみことばに従ってみる」という第一歩から始まる。その中でイエス様との交わりが始まり、イエス様を知るようになる。聖書をいかに深く研究しても、イエス様の復活を信じてみようとする一歩がなければ、本当にイエス様のことを知ることはできない。女たちは御使いのことばを聞いて「彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち上がり、弟子に知らせようと走って行った」(27:8)と、すぐに大いに喜んで行動に移した。「イエスは死人の中からよみがえられました」(27:7)という長い聖書の歴史の中でも、最も重要なメッセージが、社会的に地位の低かった女性たちに託された。そして神の御子としてイエス様が表れた最初の礼拝をおこなった(27:9)のも、「福音を弟子たちに伝える」という最初の宣教の使命(27:10)も彼女たちに託された。これらはキリスト教会が今も行っている活動の、最初の一歩であった。
2024年8月4日「封じられた墓」(マタイの福音書27章57~66節)
【140字ダイジェスト】
ヨセフが社会的地位の喪失を恐れずイエス様の身体の引渡しを願い出た一方で、祭司長たちは保身のため墓の封印をピラトに願い出た。イエス様が私たちのために十字架にかかりよみがえられた事実を、信仰を持って受け止めた人々と、神様の福音の業を自分たちの勝手な解釈でゆがめた人々の姿がここにある。
パリで第33回のオリンピックが、華やかに開催されている。近代オリンピックは平和の祭典として開かれてきたが、その時代は戦争や民族間の紛争の時代でもあった。多くの人が傷つき、憎しみは増大しつつある。私たちは聖書に書かれているところの平和について考えるべき時なのかもしれない。
今日は第一に「葬りをしたアリマタヤ出身のヨセフ」について見ていきたい。ヨセフは「からだを受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた」(マタイ27:59-60)と書いてある。このヨセフについては、四つの福音書がそれぞれの視点で記録している。当時、十字架につけられた人は野ざらしにされることが多かった。しかし親族が来て下げわたしを願う時は、遺体が渡された。ヨセフは最高法院(サンヘドリン)のメンバーの一人であったのでピラトに直接願い出ることができたが、多くの弟子たちが逃散する中で、社会的地位を危険にさらしながら申し出ることは注目すべきことである。なぜならヨセフは、弟子としてイエス様の十字架の判決には同意しなかったが(ルカ23:51)、弟子であることは隠していた(ヨハネ19:38)からである。四つの福音書がヨセフを取り上げたのは「勇気を出して」(マルコ15:43)申し出た彼の信仰をほめたたえたかったからであろう。
第二に「祭司長たちの行動」について見ていきたい。ヨセフの信仰に一方で、祭司長たちは「閣下、人を惑わす男がまだ生きていたとき、『わたしは三日後によみがえる』と言っていたのを、私たちは思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと弟子たちが来て、彼を盗み出し、『死人の中からよみがえった』と民に言うかもしれません。この惑わしの方が、前の惑わしよりもひどいものになります」(マタイ27:63-64)と述べている。ここから読み取れることは、祭司長たちはイエス様の十字架に対して、何の反省もなかった点である。十字架を見て「この方は本当に神の子であった」(27:54)とつぶやいたローマの百人隊長とは正反対である。しかも彼らは普段の言動とは異なり「備えの日の翌日」(27:62)すなわち安息日をわざわざ穢している。さらに彼らは、イエス様が「わたしは三日後によみがえる」(27:63)ということばもちゃんと覚えていた。信仰を失った祭司長たちは、復活の福音を聞きながら「弟子たちが来て、彼を盗み出し、『死人の中からよみがえった』と民に言う」(27:64)と、自分勝手な解釈で間違った道に進んでしまった。「神のことばを聞く」とは信仰の目を開くことであり、自分の論理の中に押し込めて歪めることではない。
第三に「封じられた墓」について見てみたい。ピラトは、祭司長たちの要求を受け入れ「番兵を出してやろう。行って、できるだけしっかり番をするがよい」(27:65)と言い、祭司長たちは「行って番兵たちとともに石に封印をし、墓の番をした」(27:66)。ピラトは「この惑わしの方が、前の惑わしよりもひどいものになります」(27:64)という言葉に恐れた。つまり、イエス様に罪状は見られなかったが群衆が暴動寸前にまで進んだ時のことを思い出し、ローマの傀儡としてその再来は避けたかった。イエス様の封印は、①大きな石を転がしておいた(27:60)(→「聖書の舞台(生活・習慣)」のは行「墓と埋葬」参照)、②(ローマ皇帝の権威に基づく)封印が施された(27:66)、③ピラトの命令で番をしたローマ兵(27:66)という三つなされた。特に②③は、ローマの権威を背景にした強力なものであった。さらに番兵が見張っていた時間は、安息日から翌日の朝までの時間だったから神様の介入がないと移動は無理である。このとき、ローマ皇帝をはるかに超えるような神様の権威が働いた。しかし、それを認めたくない祭司長たちは、多額のお金を渡して「自分たちが寝ているときに弟子たちが盗んだ」と兵士たちに偽証させるしかなかった(28:11-15)。イエス様は、私たちのために十字架にかかり、死にて葬られ、よみがえられた。その事実を、信仰を持って受け止めた人々と、信仰を持てずに自分たちの勝手な解釈でゆがめた人々の姿がここにある。
2024年7月28日「神の子キリスト」(マタイの福音書27章51~56節)
【140字ダイジェスト】
イエス様を「宗教家」や「慈善家」でなく「神の御子」だとは、信仰を持たない人には受け入れにくい。だが聖書を知っているはずの祭司長たちが十字架を否定した一方で、ローマの百人隊長が「神の御子であった」と認めている。イエス様の死の受け止め方によって、自分の罪への向き合い方が異なってくる。
イエス・キリストが、「宗教の改革者」や「慈善家」というのではなく「神の御子」であるという事実は、信仰を持たない人には受け入れがたいことかもしれない。だが十字架の場面での群衆の言動を見ても、彼らは「神の御子」だとは受け入れられなかった。しかし、それが信仰の出発点でもある。
今日は第一に、「神殿で起こったこと」について見ていきたい。聖書には「すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(マタイ26-51)と書いてある。イエス様が十字架の上で息を引き取ったのは城壁の外にあるゴルゴダの丘であり、神殿の内部(しかも 年に一度、大祭司しか入れない至聖所との間の幕)の出来事について、群衆は知らない。なお当初、至聖所には「マナの入った壺」「アロンの杖」「モーセの契約の板」(へブル9:4)が「契約の箱」に置かれていたが、紀元前587年にバビロンのネブカデネザル王の侵略で持ちされ、イエス様の当時は空っぽであった。大祭司は、それらがないことを知っていたが、群衆に知られないように儀式だけが続いていた。十字架と同時刻に幕が真っ二つになった時点で、より多くの人に「契約の箱」がないことが知られた。だが神様は、人の手で作られた「契約の箱」と年に一度の儀式は仮の姿であり、イエス様の十字架の贖いによって神殿礼拝が意味のないものとなり、本当の贖いが行われたことを明らかにされたのである(9:11-12)。
第二に「このときの百人隊長の信仰告白」について見ていきたい。このとき「地が揺れ動き、岩が避け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った」(マタイ27:52)。なお使者の復活はイエス様の復活の後であり(27:53)、このときは地震と地割れだけであった。そうでなければ、この記述は「私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすること」(へブル9:14)のことを表しているかもしれない。ローマの百人隊長たちは、十字架までの一連の出来事の中で、イスラエルの祭司長や律法学者たちの行動やイエス様を嘲っていた群衆を、支配地イスラエルの宗教出来トラブルであると冷ややかな目で見ていたと思われる。だが、イエス様が十字架から人々に語ったことや、預言通りに罪もなく十字架の死を受け入れたこと、そして十字架のあとに起こった出来事を見て「この方は本当に神の子であった」(マタイ27:54)と発言している。私たちも、イエス様の死をどう受け止めるかによって、イエス様が負われた自分の罪を見つめることにつながる。だからこそ私たちは、イエス様を「神の御子」であると受け止めることができるのである。
第三に「十字架を遠くから見ていた女たち」について見ていきたい。聖書は、「そこには大勢の女たちがいて、遠くから見ていた。ガリラヤからイエスについて来て仕えていた人たちである」(27:55)と書いてある。彼女らは、ガリラヤでイエス様のみことばや奇跡に触れてきて、イエス様に仕えるためについてきた。彼女たちにとって、最も大切だと思っていた人が最も悲惨な目にあっている状況を見るのは、本当につらいことであっただろう。だが彼女たちは弟子たちのように逃げることなく、遠くからその情景を見守っていた。さらに読み進めると、「その中にはマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子たちの母がいた」(27:56)と名前が残されている女たちがいる。このマグダラのマリアは、七つの悪霊に支配されて悲惨な人生を送っていた(ルカ8:2)。彼女はイエス様と出会って、人生に大きな転機を得た。またヤコブとヨセフの母マリアは、人間的に言うところのイエス様の母と思われる(ヨハネ19:26)。ゼベダイの子の母は、ガリラヤ湖からすべてを捨ててイエス様のつき従ったヤコブとヨハネと一緒にイエス様につき従った母である。彼女たちにとってイエス様の十字架は、人生そのものを失ったような出来事であった。だが神様の御業は、その絶望の中から始まった。その後の状況の中で、彼女たちはイエス様の復活の希望の中で大きな役割を果たしている(マタイ28:1)。
2024年7月21日「全地を覆う闇」(マタイの福音書27章36~50節)
【140字ダイジェスト】
罪のない他人を冤罪に定めてしまった人は長年にわたって罪の意識に苛まれる。だが驚くことにイエス様を十字架に定めた人びとには、そんな罪意識は見られなかった。だが著者マタイは、イエス様の十字架を巡る人々の闇を語ると同時に、イエス様がこのような罪ある人々を救われたことを雄弁に述べている。
点字ブロックは1967年に、日本の三宅精一氏が近くの盲学校の生徒さんたちのために発明したもので、現在では世界中で使用されている。闇の中で暮らしている私たちも、点字ブロックのようにいくべき方向を指し示してくれる神様のことばが必要である。罪のない人を積みに定めることは「冤罪」でもあり、他人を冤罪に定めてしまった人は長年にわたって罪の意識に苛まれる。だが驚くことにイエス様を十字架に定めた人びとには、そんな罪意識は見られない。そこに人間の闇が垣間見られる。
今日は第一に「十字架と人々の嘲笑」について見ていきたい。イエス様の十字架刑は、多くの人々が見られるような公開処刑であった。その公開処刑のイエス様の頭上に、ローマ人たちは「これはユダヤ人の王イエスである」(マタイ27:37)と掲げ、「ユダヤ人の王とはこれほどみじめなものだぞ」という嘲りを行った。そして彼らは、イエス様の左右に強盗を掲げ、まるでイエス様が二人の極悪人を従えるボスのような扱いを行った。また先の裁判で祭司長、律法学者、長老たちは、イエス様に明確な罪状を認めることはできなかったため、言葉尻を捉えて「神を冒涜した」と言った。だが、ここで「ユダヤ人の王」とされても、彼らは、ユダヤ民族と王を選ぶ神様の権威の冒涜とは考えず、一緒にののしっていた(27:41)。人々も「神殿を壊して三日で建てる人よ。もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(27:40)と、頭を振りながらイエスをののしった。人々は「この神殿を壊してみなさい。わたしは、それを三日でよみがえらせる」(ヨハネ2:19)ということばも聞いているし、多くの人々を救ったことも知っている(マタイ27:42)。それなのに、今の状態のイエス様をののしっている。このような人々の行為を描写することで、罪に対する無感覚と人の痛みに対する無感覚を著者マタイが描写している。さらに言えば、「今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう」(27:42)と、「神様はこういうものだ」という自分勝手なイメージを押し付けている。「十二時から午後三時まで闇が全地をおおった」(27:45)というのは、気象や天文の意味以上に、人々の霊的な闇を表しているとも言える。遠藤周作の「沈黙」という小説は、一般にキリシタンの殉教に対して何も語られなかった神様の沈黙に対して信仰のジレンマをテーマにしたと考えられている。しかし「沈黙」というタイトルは編集者が考えたもので、遠藤周作の意図とは違ったと山根道公は「遠藤周作その人生と『沈黙』の真実」で語っている。このときの「闇」は、「神の沈黙」でなく「雄弁」だったのである。
第二に「十字架の上でのイエス様の叫び」について見ていきたい。午後三時、イエス様は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(27:46)と叫ばれた。「神様に捨てられた」ことが、人間の罪に対する神様の贖いの代償であった。神様を信頼していたイエス様の発した「どうして」ということばは、神様に対する疑念などではなく、神様のさばきを受ける極限の状態から出たものであろう。だが著者マタイは、イエス様の状態よりも、周りで傍観している人々の姿により力点を置いて記録している。「この人はエリヤを呼んでいる」(27:47)「待て。エリヤが救いに来るか見てみよう」(27:49)という人々の発言は、「預言者エリヤが超自然的に登場して、何か奇跡が起きないか」と期待している異常な状況を示している。葦の棒に付けた酸いぶどう酒を飲ませようとした人の行為(27:48)は、乾きと痛みに抗っているイエス様へのからかいに過ぎない。周りの人々の様子はまったくひどい状態で、霊的な闇が満ち溢れていた状況であった。そんな中でイエス様は大声で叫んで父なる神様に霊を渡され、超自然的な奇跡を起こすことなく死を全うされた(27:50)。神様の沈黙、そして著者マタイの描写は、イエス様がこのように罪にまみれた人々を救われるという偉業を成し遂げられたことを示している。その罪は、私たちのものでもあり、そこに神様の愛の御業が表れている。
2024年7月14日「十字架を負われた主」(マタイの福音書27章27~35節)
【140字ダイジェスト】
これまで旧約聖書を示しながらイエス様の生涯を意味づけてきた著者マタイだが、旧約聖書の預言の成就の最たるものであるイエス様の十字架の場面については、引用もなく淡々と描写している。それは、十字架の出来事の中に働く神様の御業や計画について読者自身で意味を考え気付いてほしいためでもある。
当時の十字架刑では、刑罰が行われる場所まで自分で重い十字架を負わされたが、今日の箇所はクレネ人シモンが十字架を負わされたような描写がある(マタイ27:32)。しかしイエス様が負わされなかったわけではない(ヨハネ19:2)。では、イエス様と私たちの負う十字架はどう違うのか。
今日は、第一に「十字架を負って従う」ことについて見ていきたい。イエス様は以前「だれでもわたしについて来たと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(マタイ16:24)とおっしゃった。しかしイエス様の負った十字架とは異なる。弟子たちは、イエス様がローマを打ち破り栄光のイスラエルを復活させることを期待してついて来ていた。だから、このことばの意味を理解できなかった。だから実際にイエス様が十字架を負った場面に遭遇すると、みなにげて隠れてしまった。神の子として人間の世界に来られたイエス様は、最期に人びとのひどい蔑みに直面した。しかしイエス様は、それに反論をしたり怒りをぶつけたりはしなかった。自分たちは、そんな経験があっただろうか。実は私たちは、十字架を負って歩かれるイエス様を仰ぎ見るように招かれている。日々の生活の中で、そのような経験があったとき怒りや復讐心を表すのではなく、イエス様に倣いたい。
第二に「十字架を背負わされたシモン」について見ていきたい。聖書は、兵士たちがたまたまそこにいたシモンという名のクレネ人に「イエスの十字架を無理やり背負わせた」(27:32)と描写している。判決の後の拷問で疲弊していたイエス様は、心底疲れ切っていただろう。ただ兵士たちは、城壁の外の「どくろ」の地までイエス様が十字架を運ぶのに合わせていたのでは時間がかかるので、そこにいたクレネ人シモンを捕まえて背負わせた。おそらくユダヤ人ではなさそうな、田舎から出てきた異邦人という差別の気持ちもあったことだろう。しかしシモンからすると、十字架を背負わされて歩かされるので「重罪人ではないか」と罵声を浴びせたことと考えられるため、ひどい災難でしかなかった。しかし、この時のシモンの歩みは、「自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(マタイ16:24)というイエス様の勧めに近い状態だったのではないか。シモンはその後、クリスチャンとなり自分の息子ルフォス(ローマ16:13)にキリスト教を伝えたが、この時十字架を背負わされたときに最後まで反発していたらそうはしなかっただろう。私たちも、信仰の中で突然に自由を奪われたり蔑みを受けたりすることもあるかもしれない。そのときに「従順」にイエス様に従い、その意味を見出すことが大切である。
第三に「十字架に置いての預言の成就」について見ていきたい。映画や小説における十字架の場面は、残酷で痛ましい映像で表現していることが多い。しかし聖書は、そのような場面を抑制して描写している。人間は、異常でショッキングな場面に気を取られやすい。しかし聖書は、その残酷さを伝えたいのではなく、十字架の出来事に何が働いていたかに注目してほしかったと考えるべきである。マタイは、これまでイエス様の生涯を描写する上で旧約聖書の箇所をいちいち指し示しながら、これこそが「旧約聖書の預言の成就」であるということを説明しようとしてきた。しかい十字架の場面では、そのような方法は取っていない。しかし旧約聖書に親しんできた当時のイスラエル人や教会に集っていた人々には、すぐに詩編の22編が思い浮かんだことであろう。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」(詩編22:1)という言葉も、十字架の上のイエス様が発せられた千年も前に預言されていた。マタイは、十字架の出来事を淡々と描くことで、それが「旧約聖書の出来事の成就」であることを自分自身で気付くことを重視していた。十字架の出来事は、人間の残酷さや罪の深さが表れたような出来事であるが、そこにも神様のことばが働いていたこと、そして、そこにイエス様のいのちによる永遠の命が約束されるという神様の大きな恵みと愛が表れていたことを忘れてはならない。
2024年7月7日「十字架刑を求む声」(マタイの福音書27章11~26節)
【140字ダイジェスト】
イエス様を十字架についた出来事は、人々の心の奥底にある罪や醜さが表面化した出来事であった。しかし、それは自分とは関係のない「当時のユダヤの人々のしたこと」ではない。「十字架につけろ」と叫んだ群衆と同じ神様に反抗する心が私の中にも潜み、彼らの醜さや言動は罪ある私自身のものでもある。
外部からキリスト教を見たときに、「清く美しい」というイメージがある。しかし私たちは、美しいイメージの奥にある自分たちの罪や醜さから目をそらせてはいけない。私たちの中には、自分たちでも気づかない大きな罪があり、イエス様の十字架を通して私の罪が暴かれたと考えるべきである。
今日は、第一に「ローマ総督ピラトの前に置いてのイエス様の沈黙」について見ていきたい。ピラトは裁きのなかで「あなたはユダヤ人の王なのか」(マタイ27:11)と尋ねている。ローマの支配下にあり傀儡政権が王を務めている当時のユダヤで、「自分はユダヤの王である」と自称することは、ローマへの明確な反乱であった。ユダヤの最高法院では「神を冒涜している」というのが死刑に値するが、ローマは宗教的な判断には立ち入らなかった。そこで「ユダヤ人の王と自称している」というローマへの反乱の意思を取り上げていた。しかしイエス様はピラトに「あなたがそう言っています」(27:11)としか答えなかった。そしてイエス様が「祭司長たちや長老たちが訴えている間は、何もお答えにならなかった」(27:12)と書かれている。イエス様は反論したり、ましてや神の御子として裁いたりしようとはせず、彼らの罪をひたすら受け止めようとされている姿勢が見られる。
第二に「ピラトの裁判における善と悪の選択」について見ていきたい。ピラトは、ユダヤ人の訴えを検討したらイエス様に罪がないことを知っていた。その一方で、ユダヤ人社会から「死刑にしたい」と言っている人物を「無罪だ」という判決を下したら、ユダヤ人社会の反発を食らうと恐れていた。そこで思いついたのが「祭りの中での恩赦」の制度(27:15)であった。これは律法に決められた制度ではなく、祭りのイベントのひとつでしかなかった。ピラトは、まさか行頭や殺人を犯した人物の釈放を民衆が望むとは考えていなかった。多くはユダヤ人のためにローマで戦ったような民衆に人気のある人物が、民衆による恩赦要求の対象となってきた。それがローマ支配下の「ガス抜き」として効果があったためである。だからピラトは、「強盗と殺人でユダヤ人社会に恐怖を与えたバラバ・イエス」か、キリストとして民衆に人気のあったイエス様かという二者択一を用意して、民衆を誘導して判断させようとした(27:17)。ピラトの予想では、ユダヤ社会の一部からは反発があったが、まさかあの悪人と比べたら民衆も悪人を選ばないだろうというものであった。しかし民衆は、ひとこと「バラバだ」(27:21)と答えた。ピラトは、ローマの傀儡政権を預けられた王として、公正な裁判によってローマの権威を徹底させる役割があった。しかし彼は、ユダヤ社会における自分の立場を慮って民衆の反感を恐れ、公正を装いながら自らの判断を放棄する選択を行ったのである。私たちも、この世の論理や人の眼を気にして、神の正義を行うこと曲げてはいないだろうか。
第三に「十字架を求めた人々の声」について見ていきたい。ピラトは「語ることが何に役にも立たず、かえって暴動になりそう」なのを見て、暴動を恐れる自らの心が悟られないように、ユダヤの律法(申命記21:6-8)にある水を取り、群衆の目の前で手を洗う(マタイ27: 24)とのパフォーマンスをして見せた。さらに聖書は、ピラトが判断を丸投げしただけでなく、イエス様の十字架を決める決定的な役割を果たしたのが群衆であると聖書は述べている(27:21,22,25)。ちなみに十字架刑自体はローマの制度である。普段からローマに反発していた群衆が、ユダヤの律法の石打ち刑ではなく、ローマの総督にローマの死刑方法を求めたことも異常である。そこに神様に対する徹底的な反発心が見て取れる。これは、自分たちとは関係のない「ある一時代」の「ユダヤの一部の人々」にあった心ではない。私たち人間がみな共通に宿している大きな罪なのである。イエス様を「十字架につけろ」と叫んだ群衆の中に、私もいたことを忘れてはならない。