仙台のぞみ教会
いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中ですぐれているのは愛です。
2022年6月26日「岩の上に建つ家」(マタイ7章21~29節)
【140字ダイジェスト】
砂だらけのパレスチナでは岩の上に建てた家も砂の上の家も一見分からない。私たちの人生も、同じように見えても、死後のさばきという「洪水」が起きると人生がすべて無に帰されるような大きな差ができる。聖書のことばを神様のみことばとして受け止め、イエス様に根ざして生きる人生を生きていきたい。
私たちが神様を礼拝し、そのことばを聞くことができることは、大きな恵みであり特権である。世界だけでなく、日本においても聖書を読みたくても読めない事情の方もいる。その一方で、聖書のことばを聞いても神のことばとして聞くこともできない人もいる。それをイエス様は「狭い門と広い門」「良い木と悪い木」「岩の上の家と砂の上の家」に例えられた。
今日は第一に「人生における二つの異なる家」について見ていきたい。イエス様は「わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます」(マタイ7:24)と例えられた。「家の土台」も「まだ成っていない木の実」も、ひと目では見分けがつかない。「狭い門と広い門」も、その行く先は見えない。砂の下の岩に到達することも木の実がなることも、相当の時間がかかる。世の新興宗教は「家内安全」「商売繁盛」など、信じることで生活が上手くいく」ことを主張する。またキリスト教を信じても人生が上手く行かなければ信仰する意味はないという人もいる。しかしイエス様のことばは、聞いてすぐに得するような、何かの人生訓のように安易なものではない。イエス様のみことばを、信仰をもって深く受け止め求め続けていく必要がある。「賢い人」「愚かな人」の差は、人生の外枠である「建てた家」からはよく分からない。
第二に「賢い人と愚かな人を分けた洪水」について見ていきたい。イエス様は「洪水」のときにその違いが分かるという。この「洪水」(7:25,27)を人生の苦難だと捉えている人がいるが、そうではない。イエス様の「たとえることができます」(7:26)は未来形であり、神様のことばを無視して生きてきた人生の果てに、死んで神様の前に立たされたときを指す。ノアの箱舟のときも、神様が大水で人びとを滅ぼすときまで、自らの欲望と暴虐に満ちた人生を振り返ることはなかった。私たちも死後、自分の人生が裁かれる。その時に希望につながる生き方をしてきたか、そこに私たちの人生の意味がかかってくる。だからこそ、表面上同じような家を建てていても、イエス様という「岩」に立ち、そのみことばを受け止めていく生き方を送っているか否かが突き付けられる。
第三に「賢い人の賢さと愚かな人の愚かさ」について見ていきたい。群衆は「イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたから」(7:29)驚いた(7:28)と聖書には書いてある。当時、律法学者たちは旧約聖書に詳しくて、それにまつわる口伝や規則の体系に詳しかった。一方、「田舎のガリラヤ出身の若い大工」に見えるイエス様が語ることばは、学問として語っているのではなく、ご自身が権威ある神として語っておられた。律法学者は神のことばを聞きながら、神殿で学問として、人人を支配する目的で語っていた。そこには神様と人々をつなぐ役目から最も遠いものであった。私たちは「神の御前に立つ」ということはどういう意味があるのだろうか。私たちの毎週の礼拝は、死後、神の前に立つことのひな型でもある(Ⅱテモテ4:1-4)。多くの人は「死=葬式」と考える。しかしパウロは、ここで「生きている人と死んでいる人をさばかれる」(4:1)と言っているように、死後に生死がある。「賢い人」は、死後のその先の神様との関係を考える。そして今、神様を信頼し、そのみことばに立った生き方をしていきたい。
2022年6月19日「真実さを見分ける実」(マタイ7章15~20節)
【140字ダイジェスト】
イエス様は「良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます」と言われた。良い木とは罪を告白して十字架の赦しを得てイエス様に繋がるのが「良い木」で、その人が聖霊様の実を結ぶことを神様は良しとされる。人間の悟りに従い良く見える行いをしていても、神様の目には私たちは罪人でしかない。
サクランボが店に並ぶ季節となった。館山に住んでいた頃は枇杷の季節でもあった。植物に詳しくない人でも、実が生れば何の木か分かる。先週、「狭い門」から入るべきだという話をしたが、「狭い門」を選んだ人も偽預言者に惑わされることがある。
今日は、第一に「偽預言者と偽教師」について見ていきたい。イエス様は「偽預言者たちに用心しなさい」(マタイ7:15)と警告している。私たちは教会にいる、クリスチャンであるというだけで心を開いてしまう傾向にあるが、イエス様は「彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です」(7:15)と言われる。その様な人たちは「神の愛に生かされている」と思うより、貪欲な「自我欲」で満たされている。その人たちは「イエス様は神である」という点を曖昧にしたり否定したりして、「善良な愛の人イエス」と捉えている。また、これらの人は、イエス様の十字架と復活を否定する。イエス様を十字架につけた人々は、自分たちは「神の義」を実行したと信じていた。だからこそ、イエス様の十字架による罪の赦しと、復活による救いを認めることができなかった。さらに、これらの人々は聖霊の働きを否定する。エレミヤの時代、多くの偽預言者は聖霊による啓示より王に仕えて保身することを選んだ。私たちは常に偽預言者に警戒しなければならない。
第二に「偽預言者を見分ける術」について見ていきたい。イエス様は「あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか」(7:16)と述べられた。茨とあざみは、荒れ果てた土地の象徴であった(創世記3:18)。イエス様のいう「良い木」とは、人間として性格や行いの動機が良い人のことではない。すべての人間は罪人である。その罪人を、神様はイエス様の十字架によって新しく生まれ還らせてくださった。それを神様は「良い」と言われる。だから形として愛があるような人でも、イエス様につながっていなければ「良い実」はならない。だから自分の経験や悟りに頼ったりする善行ではなく、イエス様につながり聖霊によって結ばれる実が「良い実」であると述べている。そして、その結末は明確である(マタイ7:19)。
第三に「実を結ばない事への警告」について見ていきたい。イエス様は「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」(7:21)と言われた。私たちは、神様を呼んで告白しているように見える偽預言者に気をつけなければならない。彼らはイエス様、神様につながっていない。父の日は、南北戦争からの帰還後に妻を亡くした父が、彼女たち6人の子どもを育てた父へのドッド(Sonara S. Dodd)感謝の思いから創設された。そこには「母の日に対抗して父の日を作った」という安易な思いはない。私たちも神様の愛に対する感謝と信頼でつながっているだろうか。イエス様は、神様の愛につながっていない偽預言者たちに対して「わたしはおまえたちを全く知らない。訃報を行う者たち、私から離れて行け」(7:23)と述べるといった。完全な断絶である。人間的に良い行いのように見えても、神様の目からは大きな違いがある。私たちは外から入ってくる情報に振り回されるのではなく、きちんと神様の愛に根ざして、良い実と悪い実を注意深く見分ける必要がある。
2022年6月12日「ゴールとその門」(マタイ7章13~14節)
【140字ダイジェスト】
イエス様は「狭い門から入りなさい」と述べられた。「滅び」か「いのち」かと言われれば「いのち」を選びそうだが、実は私たちは「門の広さ」しか見ておらず、門の行き先を見落としている。自らの罪を自覚させられ、打ちくだかれる「狭い門」を選ぶことは孤独で苦しいが、そこにいのちに至る道がある。
中国の大学入試である「高考」が始まり1,193万人が受験したというニュースがあった。まさに「狭い門」という言葉は聖書を意識したアンドレ・ジードの小説の題名で一般的になったが、その意味するところが理解されているとはいいがたい。
今日は第一に「信仰の選択」について見ていきたい。イエス様は「狭い門から入りなさい。滅びにいたる門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです」(マタイ7:13)と述べられた。「狭い門から入りなさい」と述べているが、それを強制しているのではなく、私たちにその選択を委ねられた言葉である。創世記でおいても神様は、生と死という重大な選択を人間に委ねられた(創世記2:16-17)。神様は人間をロボットのように命じたいのではなく、自由意志を持った人格として扱われている。そこに神様の愛がある。そして信仰は「AもBも」どっちつかずではありえない。私たちは神様のことばを選ぶか背くしかない。
第二に「道を安易に選ぶことの危険」について見ていきたい。イエス様は「滅びにいたる門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです」(マタイ7:13)とおっしゃっている。私たちは「滅び」と「いのち」を選べと言われれば「いのち」を選ぶことは当然と思われる。しかし私たちは「門の行き先」ではなく、目に見える門しか見ていない。「正常性バイアス」という言葉がある。これは自分にとって都合の悪いことは無視したり、過小評価しがちである。創世記のノアの時代、神様は暴虐に満ちた地上を滅ぼすとおっしゃられたことを(創世記6:11-12)受けて約100年かけて箱舟を建造したが(5:32,7:6)、その100年の間、ノアの家族以外誰もそれを見て行動をおこそうとしなかった。神様から離れることは、神様の恵みから離れることである。神様の恵みから切り離された人生はなんと悲惨なことか。私たちも人生の悲惨さや自らの罪に対して「待たれている状態」である。
第三に「いのちに至る道を選び覚悟」について見ていきたい。イエス様は「いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです」(マタイ7:14)とおっしゃられた。私たちが見るべきは「門の狭さ」ではなく、「その行き先」である。マラソンにおいて立派な競技場から大勢の人が華やかにスタートしても、行き先が定まっていなければ走っていること自体の意味がなくなる。パウロは「私は目標がはっきりしないような走り方はしません」(Ⅰコリント9:26)と言った通りである。「門の狭さ」とは、この場合「人々が関心を寄せないような生き方」と言い換えることができよう。だが私たちはそのような生き方を敏感に察知しない限り、いのちにいたる生き方はできない。しかし私たちには、あらかじめ「いのちに至る生き方を見分ける感覚」が備えられ、神様に従う生き方への渇望がある。この時も多くの人々がイエス様のことばを聞きに来ていた(マタイ5:1)。だが、どれほどの人がそのことばに、素直に聞き従っただろうか。やがて群衆は、イエス様を拒絶し十字架につけることになった。私たちは「狭い門」を選ぶことによって自分の罪を自覚させられ、うちくだかれる。イエス様は「それを見出す者はわずかです」(7:14)と言われるように孤独を感じるかもしれない。しかし、そこに神様と私の関係を再構築する「いのちへ至る道」が、わずかでも確かにある。
2022年6月5日「聖霊と律法」(マタイ7章12節、使徒2章1~4節)
【140字ダイジェスト】
ペンテコステは聖霊が降臨した記念日である。イスラエルの民は律法を重視したが、律法が浮き上がらせる自らの罪に対しては心を閉ざして来た。そのため神様は、聖霊を送られて私たちの心の律法を刻み、新しい契約を始められた。私たちは聖霊の導きにより罪を自覚し、新しい生き方を始めることができる。
今日はペンテコステ礼拝である。ペンテコステは「第50番目」を意味するギリシア語で、イスラエルの民がエジプトを脱出した記念日でもあり、新約の時代は聖霊が降臨した記念日で、ここから「教会」が始まった。私たちは聖霊の助けなしには信仰生活も成り立たず、そもそも自分の罪を自覚できない。聖霊によって私たちは新しくつくられることとなった。
今日は第一に「律法の民イスラエルの限界」について見ていきたい。今日開いたマタイの福音書は、ペンテコステの記事ではないが「人からしてもらいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です」(マタイ7:12)というイエス様のことばは律法を考える上で重要である。イスラエルは「一書の民」と呼ばれ、小さい時から旧約聖書を叩きこまれており、旧約聖書の律法を重視してきた。彼らはペンテコステを「律法授与記念日」とし(出エジプト19:11)、「神に選ばれた民」という意識を彼らに持たせた。だが神様に選ばれたのは、イスラエルの民が優れていたわけでなく、神様側の選びでしかなかった(申命記7:7-8)。しかも、彼らは律法を誇りに思いながらも、律法が浮き上がらせる自らの罪に対しては心を閉ざして来た。それが、神様から離れたイスラエルの歴史となった。
第二に「新しい契約と聖霊の約束」について見ていきたい。イエス様は、「人からしてもらいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です」(マタイ7:12)と、律法を実行する力について語っておられる。クリスチャンでなかった第24代ローマ皇帝セウェルス・アレクサンデルは、この言葉を気に入って金で刻んだという。しかし、金で言葉を書いても心の変化がなければ何もならない。イスラエルの民も石の板に書き記されたモーセ律法を大事にしてきたが神様との契約は破った(エレミア31:32)。だから聖霊様の力によって、人の心に律法を書き記す新しい契約に更新させると神様はおっしゃった(31:33)。それがイエス様の言う「聖霊のバプテスマ」(使徒1:5)である。聖霊降臨の瞬間の様子は「すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった」(2:2-3)と書かれている。それが起こったのは、ちょうど「ペンテコステ=旧約の律法授与記念日」であった。「人からしてもらいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい」という神様が本来求めていた律法は、聖霊に導かれてこそできることである。
第三に「聖霊による新し歩み」について見ていきたい。イスラエルは五旬節を「七週の祭り」と呼んでいたが、これは「刈り入れの祭り」でもある(出エジプト34:22)。この日は大麦が終わって小麦の収穫が始まる日である。神様は、新しい刈り入れのはじまり示す日を、新しい聖霊による生き方のはじまり日にされたのではないだろうか。この時のペンテコステは、轟音がとどろき、炎の舌のようなものが下され、みなが異国の言葉で話し始めた。その奇跡的な宗教的体験に注目しがちである。しかし聖霊様が下ること以上に、それによって新しい律法が私の心に書き記され、心の律法によって聖書の神様のことばの真意を理解し、聖霊様の導きにより新しい生き方がはじまることである。私たちはペンテコステにあって、聖霊様の力を借りて神様のことばに耳を傾け、実行していきたい。
2022年5月29日「求め探したたけ」(マタイの福音書7章7~11節)
【140字ダイジェスト】
イエス様は祈り求め続けるように言われた。だが弱い私たちは「祈っても何も変わらない」と考え、また自分の思い通りでなければ「祈りは聞かれなかった」と思う。祈りが応えられるのは神様の完全な約束であるが、それは私の思うままがかなうのではない。神様は愛をもってそれより良いものを与えられる。
「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイ7:7)のことばは、一般的に「何事にも積極的に行動しなさい」という意味だと誤解されている。しかしイエス様は、そのような人生訓として語られたのではない。「求める」とは「神様に祈り求める」ことである。これを聞くと「何と消極的な」と思う人もいるが、神様に祈り求める幸いを考えるべきである。
今日は、第一に「神に求める祈り」について見ていきたい。イギリスの牧師ピーター・フォーサイスの名著『祈りの精神』の中に「クリスチャンの最大の罪は祈らないことである」という指摘がある。イエス様は「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます」(7:7)というが、私たちは「祈っても何も変わらない」「祈るよりもすべきことがある」と考えがちである。またイエス様は「まず神の国と神の義を求めなさい」(6:33)というが、弱い我々にはなかなか難しい。しかし私たちは「求め続ける」べきである。それは同じ言葉を繰り返すことではなく(6:7)、神様と私の関係を見つめ続け「神様の導きを求める」ことである。「探す」とは「必ずある」と確信して行う行為であり、また「たたく」とは真夜中に友人を叩き起こしてパンを求めるような、切羽詰まったしつこい行動であるとイエス様は言われる(ルカ11:5-10)。「真夜中だから」とあきらめず、神様の御心を確信して求め祈り続けることが重要である。
第二に「天の父なる神様の約束」について見ていきたい。イエス様は「だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます」(マタイ7:8)という。私たちは自分の思い通りでなければ「祈りは聞かれなかった」と思う。しかし神様は私たちの思いを越えて必ず応えてくださる方だという。神様と私の関係は、信頼によって結ばれた関係である。だからこそイエス様は「あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか」(7:9-10)という。私たちは良いものと悪いものが見分けられない。だからこそ神様は、常に良いものを与えようとされている。この大原則を私たちは決して見落としてはならない。私たちは困難や問題にぶち当たると神様への信頼が揺るぎがちである。しかし神様の愛は揺るぎない。
第三に「良いものを与えられる神様」について見ていきたい。イエス様は「あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです」(7:11)と言われる。ツバメの季節であるが、ツバメさえも親はひな鳥のエサやりを優先する。不完全な愛しか持たない私たちでも、親子関係を保っている。「それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか」(7:11)と、それは完全な約束なのだというイエス様は言われる。ただ注意したいことは「私が望むまますべて与える」のではなく、「私にとって良いものを神様は与える」ということである。使徒パウロも、自分の身体の痛みを取り去ってほしいとの願いをずっと持っていたが、神様は取り去られなかった(Ⅱコリント12:7-8)。しかし神様は、パウロに恵みを働かせるために、痛みをそのままにされた(12:9)。私たちは祈り求め続けるだけでなく、そこに働かれる神様の愛と恵みを受け止めていくことも必要である。
2022年5月22日「さばきの量りの重さ」(マタイの福音書7章1~節)
【140字ダイジェスト】
「さばく」とは「より分ける」という意味で、自分の義を優先して兄弟姉妹とのつながりを断ち切ることである。他者に対して注意や指導が必要ないというのではないが、そこに罪の自覚と他者への愛があるかで大きく変わる。それゆえ教会は神のことばに耳を傾け、目の前の問題や対立に向き合うべきである。
教会は人間の集まりではなく、神の前にある集団である。しかし神に従う教会であっても問題が起きないわけではない。そんな時には、神のことばに耳を傾ける必要がある。
今日、第一に「偽善者のさばき」について見ていきたい。イエス様は「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです」(マタイ7:1)と述べられた。だが、このことばは「人を裁くと同じように自分が言われるからやめたほうがよい」という人生訓ではない。この「さばく」とは「より分ける」という意味で、本来の教会の兄弟姉妹(→「はじめての教会用語辞典」のか行「兄弟」、さ行「姉妹」参照)とのつながりを断ち切ることである。イエス様が「あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです」(7:2)というように、教会の中で他人をさばくのは自分であるが、その自分をさばくのは神様である。だが、これは教会において他人に対する注意や指導がいらないというのではない。その差は兄弟姉妹に対する愛があるか(Ⅱコリント12:15)、他人への拒絶や分離なのかという大きな違いがある。うわべだけを見るのではなく「自分はキリストに属している者」(10:7)との確信を持つべきであろう。
第二に「罪人である自覚」について見ていきたい。目にちりが入ったとき、他人にむやみに目を触られると怖い。自分の罪とはそういうものである。しかも、私たちは「あなたの目からちりを取り除かせてください」(マタイ7:4)と、なぜいうのかとイエス様は問いかける。さらに私たちは「多少、自分を甘く見ているかもしれないが、他人に対しての見方と比べてそんなに公正さは失われていない」と考えがちである。しかしイエス様は「ちり」と「梁」ほどの差があるという(7:3)。そして、その「梁」は自分ではどうしようもない。裁く人は、神様と向き合い、自分の罪と向き合うべきである。それなのに私たちは、裁くときに自分の義が主張され、自分の罪を覆い隠し、神様との関係が見失われてしまう。それでは神様の愛が見られなくなる。だからこそイエス様の十字架と、そこに注がれた神様の愛を見れば、そこまでして贖われなければならなかった自分の罪の大きさを自覚できる。
第三に「罪の赦しと回復」について見ていきたい。イエス様は「偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます」(7:5)と厳しく述べる。私たちは、巨大な梁のような自らの大きな罪に気づき、それを「取り除きなさい」と言われている。だが目のようにデリケートな人間の心の奥底にある巨大な罪を、どう取り除けるのか。「取り除きなさい」といって、自分自身で取り去ることはできない。しかしイエス様は、私たちにできないことを命じているわけではない。それが神様の福音である。私たちは自らの罪を悔い改めて神様により頼むことで、何が罪なのか「はっきり見えるようになって」(7:5)、初めて他者に愛をもってかかわることができる。そこには対立や、相手を圧倒しようとする打ち負かしを含むような裁きはなく、相手を活かし、相手の痛みを取り除く癒しがある。このように教会の交わりは、私たちが神様に取り扱われたのと同様の、愛のうちに行われなければならない。だからこそ教会での対立は、ある面、神様のめぐみであり訓練である。その時は神様のことばに耳を傾けて、自分の「梁」のような罪を自覚し、他者の「ちり」の痛みを取り除きたい。
2022年5月15日「明日のことは明日」(マタイの福音書6章25~34節)
【140字ダイジェスト】
信仰を持っていたとしても悩みは尽きないが、虚像でしかない目の前の悩みそのものを見るか、私たちを愛しそこに働く神様の働きを見るかで状況は異なる。神様は、私たちの日常の必要を否定されているのではない。むしろ神様に信頼することで、いかに神様が私たちの日常を支えてくださっているか分かる。
五月は、新緑の美しい季節である一方で「五月病」の季節でもあり、悩みを抱える人が多く出る。信仰者と言っても悩みは避けられない。しかし悩みの状況そのものを見るか、そこに働く神様の働きを見るかで、その状況は大きく異なってくる。
今日は、第一に「いのちを養われる主」について見ていきたい。イエス様は「何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい」(マタイ6:25)と述べている。これらは人間には必要であるが、その心配が高じて「いのち」を損なうと本末転倒になる。この「いのち」は、ただ生きていることを指す「命」とは異なる人間の霊的・本質的な側面を指す。これは何も人間の物質的な悩み否定しているのではない。ただ、それらが神様との関係の中にあることを忘れると、絶望のあまり神様との関係を見えなくする危険がある。だからイエス様は、「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか」(6:26)と、自然の営みから神様の愛や神様との関係について気づくよう助言している。そして「いのち」は、神様から与えられたものだと理解したい。
第二に「神様に装われている」という点について見ていきたい。またイエス様は、「なぜ着る物のことで心配するのですか」(6:28)と述べている。装いについての悩みは、食べられないという悩みより軽いように見える。しかし私たちの一人ひとりの悩みに軽重はなく、どの悩みも神様との関係を見えなくする危険がある。イエス様は「野の花がどうして育つのか、よく考えなさい」(6:28)の「考える」は「観察し会得する」という意味である。私たちが見るべきは花の美しさではなく、そこに働く神様のわざの大きさである。花が美しいのは花自身の努力ではなく装われた神様の働きゆえであり、小さな花と言えどのソロモンの栄華以上の素晴らしさをいただいている。私たち一人ひとりは、花の美しさ以上、栄華を極めたソロモン以上の取り扱いを受け、装われていることを忘れてはならない。
第三に「神の国と義を求める」ことについて見ていきたい。イエス様は「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです」(6:31)と述べ、「あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい」(6:32-33)と勧めている。神様は、私たちの必要や悩みを軽視しているのではない。悩みを負うことは私たちにとって苦痛であるが、神様はその悩みを一緒に負われた上で、そのことを通して神様は私たちの必要を教えておられる。私たちは問題を「第一のもの」として、神様への信頼を失ってはいないだろうか。それとも私たちの直面する問題の中に、神様が愛をもって働いておられることに気づけるのか。イエス様は「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します」(6:34)と述べている。悩みに捕らえられているうちは、「明日」は差し迫った現実である。しかし、それは私たちが創り上げた虚像でしかない。私たちが目を向けるべきは、神様とともに歩んでいる「今日」であり、その中で神様が何を求められるかである。
2022年5月8日「天に蓄えられる宝」(マタイの福音書6章16~21節)
【140字ダイジェスト】
断食や献金などは信仰の「型」でもあるが、宗教的熱心さを他人にアピールするために行うなら、その「型」は本来の信仰とはずれてしまう。神様との対話のために断食して祈ることは、神様との個人的な関係の中で行われるものである。この世の富や虚栄ではなく、神様とのまっすぐな関係を築くべきである。
私(牧師)の友人の沖縄の牧師は、趣味で空手を習っている。彼によると空手は「型」が大切だという。信仰生活も同じであろう。しかし断食や献金などの「型」を宗教的熱心さをアピールするためにするなら、その「型」は本来の信仰とはずれてしまう。
今日第一に「偽善でない断食」について見ていきたい。イエス様は、偽善者たちは「断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです」(マタイ6:16)と述べた。聖書では、神様と自分の関係に集中するために「断食」や「節制」を勧めている箇所も多い。イエス様の時代も、宗教的指導者は定期的な断食を勧めていた。そこでパリサイ人たちは断食をしてやつれることによって、自分の熱心さを他人にアピールし賞賛されたがっていた。しかし、これは大昔のパリサイ人だけの話だけではない。私たちも人の顔色を見て、他人の評価や称賛を浴びたいと思うことはないか。イエス様は「断食していることが、人にではなく、隠れたところにおられるあなたの父に見えるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださいます」(6:18)と述べた。私たちは他人の評価ではなく、ただ、ひたすら神様の応答を求めて祈っているのを忘れてはならない。
第二に「地上に宝をつむ」ということを見ていきたい。イエス様は「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます」(6:19)と述べている。この「地上」とは、神様のご支配を離れて人が欲望のままに「宝」を蓄えている世界である。これは物質的なものだけでなく、権威や称賛などの非物質的なものも含まれる。人がお金をためて富を行使したとき、すべての価値観をお金に換算し、それが重い力をもって働く。お金を価値観に換算すると、多くの人にわかりやすい尺度となる。しかし、どんなに高価な価格がついても、地上に蓄えられる限り「そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます」(6:19)と、その価値はどんどん減じていく。地上で宝を蓄える努力は、一瞬にして消えることもある。しかし神様を信頼し神様の祝福に生きる努力は決して消えることはない。
第三に「天に宝を蓄える生き方」についてイ見ていきたい。エス様は「自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません」(6:20)と勧められている。地上での自分の栄光のために積んだ宝が、神様の栄光のために蓄える生き方に変えられるには、意識の転換が必要である。「天」というものの実態がなかった時には、そこに信頼して預けることは考えもしない。しかし私の意志が「天」と結びつき信頼できるように変えられて、はじめて「天」に宝をつもうと思うようになる。「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです」(6:21)。イエス様は「からだの明かりは目です。ですから、あなたがたの目が健やかなら全身が明るくなります」(6:22)と述べる。私たちは特別な能力や才能が求められているのではなく、神様と人間の本来の関係をまっすぐ見つめる信仰の目が「健やか」に保たれている必要がある。私たちは「富」の強い誘惑から逃れ(6:24)、神様との本来の関係を取り戻すべきである。
2022年5月1日「必要のための祈り」(マタイの福音書6章9~15節)
【140字ダイジェスト】
主の祈りは、神様の福音が凝縮されている。そこには「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人を赦します」とある。罪が贖われ恵みの中で生かされていることに気づき、神の兄弟姉妹としての関係を築くことを望んでおられる。
祈りは神様に捧げられるものであるが、その祈りが神様を通して人に働きかけられることもある。自分(牧師)も多くの祈りに支えられてきた。私たちは祈りについて学んでいくことが必要である。この主の祈りは、神様の福音が凝縮されている。
当時、多くの人々がイエス様のところに具体的な問題を抱えてやって来られた(マタイ4:22)。しかし、人々の要望に応えるだけでは本当の救いにはならない。イエス様は、主の祈りの中で「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」(6:11)という祈りを教えられた。罪のある人間は労苦して糧を得る存在となった(創世記3:17)。ただ「自分で労苦して得たのだから、糧は自分のものだ」と考え始めると、神様との関係が見えてこない。そもそも労働も糧も神様が備えてくださった。私たちの日々の生活そのもののが、神様の恵みの中にある。フランスの画家ミレーの有名な絵に、一日の労働について祈る農民夫婦を描いた「晩鐘」というのがある。祈りを通じて日々の恵みを発見し、神様との関係に気づく。それこそが信仰の姿そのものであり、それがこの祈りの意味である。
第二に「自分の罪の赦し」について見ていきたい。イエス様は「私たちの負い目をお赦しください」(マタイ6:12)と祈るように教えられた。私たちの罪の負い目は、自分自身で負債を払えないほど大きい。それを神様に帳消しにしてほしいという、一見、虫のいい祈りに見える。だが、「たましいの贖いの代価は高く、永久にあきらめなくてはならない」(詩編49:8)とあるように、「あきらめる」か「神様に頼る」しかない。だが神様は、イエス様の十字架の贖いで私たちの罪を「帳消し」にしてくださった。人間の常識としてはありえないほどのことを神様はなしてくださった。それを「主の祈り」の中で祈れることのすごさ、そこにあらわれた神様の愛、それらに気付くことがこの祈りの意味である。
第三に「人の犯した罪」の部分について見ていきたい。「主の祈り」は「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人を赦します」(マタイ6:12)と祈るように教えられている。私たちは「あの人のやったことは許せない」「必ず罪を返済してもらう」と考えがちであるが、それは神様に替わって私たちが他人を裁き、神様の代わりに自分の義を優先させた態度である。しかし他人の罪も、私自身の罪も同じようにイエス様の十字架で赦された。イエス様は「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。」(6:14-15)と述べている。では「私たちを試みにあわせないで、悪からお救い下さい」(6:13)は、なぜはさまれているか。それは、自分の罪が許された喜びを持っていても、その自分が「他者を許せないという誘惑」に陥ってしまう。それによって兄弟姉妹という関係が崩れてしまう。その誘惑が「試み」であり、神様のみ前にある関係を壊すことこそが「悪」である。自分が赦されている神様の恵みの大きさをどう捉えている。自分が罪を抱えている時は他人の罪は小さく見えるが、罪赦されたとたん他人の罪がひどく気になる(マタイ18:23-35)。だが、そこには「ともに」許されたという意識が欠落している。神様は「あなたがた」の父だと、イエス様は言われている。
2022年4月24日「主が教えられた祈り」(マタイの福音書6章9~15節)
【140字ダイジェスト】
祈りは本来、自分の思いを優先させるのではなく神様の御心が働くよう願うことで、それが「御名を聖とする」ということである。神様のご支配が地上で実感できないのは私の罪がその働きを阻害しているからであり、すでに救いは差し伸べられている。だから私が悔い改めることで、御心が地上でもなされる。
先日、かつて奉仕した教会の信者さんからの連絡があった。教団の「祈りのネットワーク」という冊子を見てなつかしく思ったそうである。しかし、それ以上に祈りを通して神様に導かれたことを実感した。今日は、イエス様が祈りを話したところである。いわゆる「主の祈り」は、前半と後半に分かれ、前半は神様に関する祈りである。
そもそも、なぜ「神様に関係する祈り」をするのだろうか。祈りは「神様に自分の願いを突き付ける」ことではない。私たちは、神様について誤った考えに基づいて祈りを行うべきではない。イエス様は「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように」(マタイ6:9)とおっしゃった。祈りとは「自分の思いを頭で巡らせる行為」ではなく、「天におられる神様」との対話である。私たちは、全能の神様をイエス様と同様の親しさで「私たちの父」と呼ぶことが許されている。それほど神様は、決して変わらない愛をもって私たち一人ひとりに臨んでおられる(イザヤ49:15)。その様な神様にきちんと向き合うべきである。
第二に「御名が聖なるものとされますように」(6:9)の部分について見ていきたい。前の訳では「御名があがめられるように」であった。しかし、より原語に忠実に訳せば「聖なるものとする」という意味が入っている。実際、この地上においては、それが徹底されていない。様々なものが「神」とされたり、人より優れた人物さえも「神」とされることがある。だがイエス様は、神様の御心に従ってご自分を聖とされた(ヨハネ17:19)。それによって本来、耐えがたい苦しみである十字架を負い、聖なる捧げものとしてご自身を捧げ、私たちを贖うという神様の思いを受け入れた(マタイ26:39)。祈りは本来、自分の思いを優先させるものではなく、神様の御心が働くように願うことである。それが「御名を聖とする」ということである。私たちの祈りは、自己義認や自己催眠となっていないだろうか。祈りとは、私に働かせる神様の御心を受け入れることと、自分の勝手な思いとのせめぎあいである。弱い人間は、その中で神様を聖なるものとできるように聖霊に導かれなければならない。
第三に「御国がきますように」について見ていきたい。イエス様は「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように」(6:10)と祈るように語られた。イエス様が「悔い改めなさい。御国が近づいた」と述べられたように、神様は、罪にまみれた現実の中に神様の側から割って入られた。私たちは「神の御国がどこにあるのか」と感じる不条理がこのようの中には多い。当時のユダヤ人もローマ支配下で苦しみ、ダビデの時代のようなイスラエル王国の復活こそが「御国」と考えて熱望した。しかし、そこに御国はない。私たち一人ひとりの中で「悔い改め」が行われ、神様の関係を築き直すところから神の御国は始まる。神様のご支配が地上で実感できないのは、私の中の罪がその働きを阻害しているからである。「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」(6:10)というのはそういうことであり、私が悔い改めることで救いがあるので「御国は近い」というのである。教会も、そもそも罪人の集まりなので、しばしば間違いを起こす。だからこそ私たちは、自分の思いや要望でなく。「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」(6:10)という姿勢で、まっすぐに神様に向かい合って祈り続けたい。
2022年4月17日「死に打ち勝つ力」(マタイの福音書28章1~10節)
【140字ダイジェスト】
「数々の愛のわざを成し十字架につけられて死んだ歴史的偉人イエス」を見ている人は多い。イエス様の本質は、私たちの罪を贖うために死に、死から復活された点にある。それによって私たちの罪は完全に贖われた。イースターは、罪と死の絶望にあった私たちに復活の希望が開かれた歴史的な出来事である。
イースターは、私たちの復活の希望が現実となった歴史的な出来事を祝う日である。イエス様の十字架の死と、死からの復活は、私たちの罪と死からの解放のためにあった。この重大な復活の場面には、これまで中心的な十二使徒ではなく、まったく別の人々が登場する。
今日は第一に「絶望の中でなされた神様の業」について見ていきたい。聖書には「さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った」(マタイ28:1)とある。マグダラのマリアは、七つの悪霊に捕らえられていたのをイエス様に救い出された人物である(ルカ7:2)。彼女たちは、ガリラヤ(→「聖書の舞台(国・場所)」のか行「ガリラヤ地方」参照)からイエス様につき従って来たものの、ほとんど書かれていない。当時の女性たちの社会的地位は低かった。悪霊に取りつかれていたなら、なおさらである。しかし、このマグダラのマリアが復活の目撃者となり、当時の社会で軽蔑されていた取税人のマタイがこれを記録している点に神様の業の不思議さを見る。イエス様の十字架の死を見ていた彼女たち(マタイ27:56)は、希望が閉ざされた状態で、ローマの番兵がいて封印されていた墓に行った。闇に捕らえられたような深い絶望の一番深い場面に、神様の光があった。
第二に「よみがえられたイエス様」について見ていきたい。聖書には「すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった」(28:2-4)とある。ローマの権威と巨大な石の封印は、彼女たちが抗えない絶望の象徴のようであった。しかし地震の稲妻に表される圧倒的な神様の業の前に、石は転がされ番兵は死人のようになった。女たちは「十字架につけられたイエス」(28:6)を捜していたが、御使いはそれはいないと述べた。私たちも「数々の愛の業をなして十字架につけられて死んだ歴史的偉人イエス」を捜していまいか。しかし御使いは「前から言っておられたとおり、よみがえられたのです」(28:6)と述べている。イエス様の本質は、私たちの罪を贖うために死に、死から復活された点にある。それによって、私たちの罪の代価は完全に贖われた。そこに前もって定められた神様のご計画がある。
第三に「復活のイエス様との出会い」について見ていきたい。御使いは「イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます」(28:7)と述べた。この「復活のイエス様にお会いする」ということは、私たちにとって重要なことである。この時点で、弟子たちはローマの迫害を恐れ、集まって身を潜めていた。だが御使いは、弟子たちが初めてイエス様と出会った原点たるガリラヤの地でお会いできるといっている。弟子たちは、原点からの日々を思い起こすことで、「イエス様と出会う」ということの意味を考え直したことだろう。私たちも聖書を読み、良いことばに触れることだけでは、「イエス様に出会う」ことはできない。「復活して今も生きるイエス様に出会う」とは、イエス様の十字架の贖いに生かされることである。御使いのことばを信じて行動した女たちは、キリスト教の最大の事件を目撃し、復活のイエス様と出会った(28:9)。私たちも十字架で死んだイエスではなく、復活のイエス様に出会う必要がある。
2022年4月10日「十字架の上でのことば」(マタイの福音書27章39~50節)
【140字ダイジェスト】
十字架上のイエス様に、人々は「神ならば自分を救え、そうすれば信じよう」とやじった。私たちも神様を「自分の問題から救ってくれる便利な存在」と考えたりしていないか。しかしイエス様はその言葉を拒絶し十字架を負いきられた。それは私たちの罪を贖うためであり、その贖いにしか本当の救いはない。
今、連日、私たちは戦争の悲惨さを突き付けられている。今の時代、いったいどこに義があるのかと考えてしまう。二千年前も同じように怒りや絶望の時代があった。その中でイエス様の十字架の出来事があった。マタイの福音書は、その多くを十字架の出来事の描写をしているが、特にイエス様が十字架上で語られた七つのことばに焦点があてられた。
今日は第一に「人々の嘲り」について見ていきたい。マルコの福音書によると十字架につけられたのは午前9時であり(マルコ15:25)、午後の3時までの六時間苦しまれた。その間に多くの「通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった」(マタイ27:39)とある。彼らは、わずか一週間前にイエス様のエルサレム入場を歓迎し(21:9)、またイエス様の語られたことばも知っていた(27:40)。それは神のことばに親しんでいた祭司長や律法学者も同様であった(27:41)。人々は自分の罪を認められなかったため、自己義認のためには神の子であるイエス様を否定するしかなかった。彼らは、聖書が預言してきた十字架をすぐ近く見ていたのに、その意味が見えていなかった。「闇が全地をおおった」(27:45)のは実際の闇であり信仰の闇でもある。私たちも、彼ら同様「神がいれば自分を救え、そうすれば信じよう」と考えたりはしないか。そうではなく、私も自分の罪から来る闇のために、イエス様が十字架につけられたことを忘れてはならない。
第二に「イエス様の十字架上のことば」について見ていきたい。イエス様は、生まれ故郷のアラム語で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(27:46)と叫ばれた。イエス様は神様を「アバ(父ちゃんぐらいの意味)」と、常に親しく呼び掛けていた。だが、この時は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と詩編のことばで、詩編の「遠く離れておられるのですか」(詩編22:1)との気持ちで叫ばれた。そこには「神に見捨てられた」という深い悲しみや絶望がある。詩編は、絶望の中のダビデ王が書いたものであるが、その詩篇の言葉が千年後のイエス様の十字架の場面と一致する(22:6-8)のは歴史に働かれる神様の不思議なご計画であろう。神であるイエス様は十字架から降りる力はあったが、イエス様はそれをなされなかった。「イエス様が神に見捨てられること」こそが神様のご計画であった。私たちは必ず死ぬ。その時に自分の罪ゆえに神様から永遠に見捨てられた状態か、イエス様の十字架を信じて救われるのか重大な岐路である。
第三に「十字架を負いきられたイエス様」について見ていきたい。イエス様のことばを聞いて預言者エリヤを呼んだと聞き間違った人もいた(マタイ27:47)。彼らは、「神ならば救ってくれるべきだ」という自分勝手な考えを持っていたことが分かる。イエス様が叫ばれたのに何も起こらない。そこにむなしさを感じる人は多い。さらには「待て。エリヤが救いに来るか見てみよう」(27:49)と、神様を試そうとする不遜さも見られる。このような人々の行動も、実は詩編に正確に預言されていた(詩編69:19-21)。イエス様は十字架の苦しみの中で、人々が考える安易な行動をすべて拒絶された。「救い」とは、私の罪の代価を誰かが「贖う」ことである。そのために命を捧げてくださった。イエス様の「救い」とは、そのような重い意味を持っている。その恵みの大きさを忘れてはならない。
2022年4月3日「祈りの生活」(マタイの福音書6章5~8節)
【140字ダイジェスト】
祈りは最も基本な宗教的行為であるが、祈りの回数や宗教的演出で祈りが届くと考えている宗教は多い。だがイエス様は、それを明確に否定された。祈りは、生ける神様との人格的な交わりである。全知全能の神様は私たちの必要を知っておられるが、それでもあえて祈ることで神様との関係が深まるのである。
祈りは最も基本な宗教的行為であり、昔から多くの人が祈って来た。しかし、多くの場合「祈る対象の考え」を考えず、自分の内側に念じているだけである。だが聖書の言う祈りは、そのようなあいまいさはなく、明確に個性を持った生ける神様に祈っている。
今日は、第一に「祈りは神様との対話である」という点を見たい。イエス様は「また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです」(マタイ6:5)と言っている。パリサイ人たちの祈りは祈りの形をとっているものの、それは神様との対話ではなく、自分の「宗教的忠実さ」を人々に見せて「自分は神様に選ばれた人間である」との虚栄心を満足させるだけのパフォーマンスでしかなかった。だからイエス様は、「あなたがたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(6:6)と述べた。そこには、純粋な神様との対話がある。そして神様に愛と信頼をもって行う本物の祈りに対しては、神様は確実に報いてくださる。
第二に「私たちの必要を知られる神」について見ていきたい。イエス様は「また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです」(6:7)と述べている。一般の多くの祈りには、「同じ言葉を繰り返せば祈りは聞かれる」という誤解がある。実際、祈りの回数や熱心さ、宗教的演出のしかたで祈りは届くと思っている宗教は多い。だが、それは単に神様を「便利な召使」と扱っていることである。真の神様は、人の言葉や行動に左右されるものではない。本当に必要なのは、神様に対して謙遜し、神様の御心を求めていく姿勢である。イエス様は「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです」(6:8)と述べた。これに対して「神様が自分の必要を知っているなら、祈る必要がないのではないか」という人もいる。だが、そうではない。親子でも夫婦でも「お互いのことをよく知っているから、対話をしなくていい」ということはないのと同じである。私のことを知っておられる神様に祈り、交わることで相手の愛を知り、人格的な交わりを深める、
第三に「隠れたところにおられる神様との出会い」について見ていきたい。イエス様は、繰り返し「隠れたところにおられる神様」と繰り返された。神様は、つねにご自身のことを、すべての人に啓示されている。それが「隠れたところにおられる…」となるのは、私たちの罪から来る断絶のためである(創世記3:8)。でも神様は、そんな私たちに関わり続け、表し続けておられる。そんな神様を知るには、祈りを通して神様の御心を問うべきである。旧約聖書に出てくる不妊の女ハンナは、自分ではどうしようもない状況の中で祈り、その中で神様からの確信が得られて平安を得た(Ⅰサムエル1:1-19)。ハンナに与えられた子どもは、暗黒のイスラエルの時代に光を灯した預言者サムエルとなった。祈りは人に見せるパフォーマンスではない。神様との深い交わりの中で神様と出会い、自分にとっても、そして神様の業としても新しい歩みが始まる。それが本当の祈りなのである。