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2022年10月~2022年12月

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2022年12月25日「クリスマスの栄光」(ルカの福音書2章8~18節)

【140字ダイジェスト】

神様は、救い主の誕生を、律法を守る生活ができなかったほんの数人の貧しい羊飼いたちに、天の大軍勢の賛美で告げ知らせた。彼らもすぐに行動し、喜びを分かち合った。私たちがどうあろうとも神様の愛は変わりない。私たちも彼らのように「自分のための救い主」として受け止め、神様の愛に応答したい。

 クリスマスの時期は、また一年を振り返る時でもある。だが、どんなに時代が変わっても神様が私たちに注がれる愛には変わりがない。そして聖書は、時の皇帝ではなく社会的底辺いた羊飼いたちを主役として書かれた。それはマリアの賛歌(ルカ1:51)にも表れている。

 今日は第一に「羊飼いたちが経験したこと」について見ていきたい。この時、羊飼いたちは闇の中で一晩中起きていた(2:8)。そこに「の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らした」(1:9)とある。神様は、時の皇帝ではなく羊飼いたちに御使いを送られた。羊飼いたちは安息日や手を洗う清めなど、律法を守った行動をとることができず、パリサイ人たちからは「律法外の人々」と蔑まれていた。だが神様は「自分たちなんか」と思っていた人たちのところへ現れることで、「私たちもすべて招かれている」ことを表された。

 第二に「御心にかなう人たちへの栄光」について見ていきたい。この時、この場所で夜番をしていた羊飼いは数人程度だったであろう。しかし、神様はそこに「御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢」(2:13)を送られた。大勢の軍勢は心を一つにして「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように」(2:14)と神様を賛美した。これは私たちが祈る「主の祈り」と同じものである。ここで「栄光とは何か?」と聞かれることがある。これは簡単に言うと「神様が神様であることのすばらしさ」であり、それを賛美することで神様の栄光が私たちの中にも現れる。「人の栄光」は他人が称賛されることによって始まるが、それを誇り続けると「驕り高ぶり」になったり、時間が立つと消えていてつぃまう。だが神様の「栄光」は変わることがない上に、それを賛美することで私たちも神様にあって成長させられる。さらに「地の上の平和」についていえば、当時は「パックス・ロマーナ(ローマの平和)」であり、政治的には安定していた。だが私たち個人には様々な不安や問題を抱えていた。そして「みこころにかなう人々」であるが、私たちが神様のすべてを理解することはできないが、神様が様々な方法で啓示してくださるみこころに応答したいと考えている人々のことである。私たちが神様のみこころに心を向けてくることで、神の平和が自分のものとなる。

​ 第三に「救い主を見出す喜び」について見ていきたい。大軍勢の賛美が終わって静けさが戻ったとき、羊飼いたちはそれぞれ見聞きしたことを話し合った。そして「自分たちはどうするべきか」考えたことだろう(2:15)。御使いたちは羊飼いたちに「見てきなさい」とは言っていない。だが彼らは「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう」(2:15)という決断を下した。それは、彼らにとっては職場を離れて遠く街まで行くことを意味するが、彼らは神様のみこころに沿う行動を選んだ。「急いでいって」「捜し当てた」(2:16)の中に、羊飼いたちの強い意志が感じられよう。神様が示した救い主の姿は、強大な権力を持つように見える方ではなく「飼葉桶に寝ているみどりご」であった。だが「自分たちのような者は救いにあずかれるのだろうか」と思ってきた羊飼いたちにとっては、その姿に「私自身のための救い主」を感じただろう。彼らは自分たちが経験した喜びを人々と分かち合った(2:17-18)。それがクリスマスの姿である。

2022/12/25

2022年12月18日「ことばは人になり」(ヨハネの福音書1章14~17節)

【140字ダイジェスト】

神様と私たちの隔たりは大きく、モーセがそれを望んだときは岩の割れ目で気配を感じることが精いっぱいだった。しかし今、神様は自ら人となって降りてこられ、その愛と恵みと豊かさとを体現された。その最たるものが自らの十字架の犠牲で人の罪を背負い、その隔たりを取り払ってくださったことである。

 先日、10代のころナチで秘書として働いていたことを隠していた女性が97歳になって発覚し、裁判を受けたニュースがあった。その女性は幸せな人生を過ごしたかもしれないが、人生の最期に罪を贖うこととなった。同じように私たちの罪は、神様の前でどうだろう。

 今日は第一に「人となられた神」について見ていきたい。当時のローマはヘレニズム文化圏であり、ギリシア神話の神々は基本的に「先祖神」であった。そんな人々に福音書の作者ヨハネは「神=ことば(ロゴス)」だと説明した(ヨハネ1:1)。この「ことば」とは記号ではなく、宇宙万物を保つ論理である。そして「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(1:14)と、その宇宙を保っている方が肉体を持って、私たちのレベルまで降りてきてくださった説明した。旧約聖書の時代に、モーセは「あなたの栄光を私に見せてください」(出エジプト33:18)と願ったが、神様は人間がそれを見て「なお生きていることはできない」(33:20)と答えられた。それほどの隔たりが神と人との間にあった。その神様が、私たちが神様を見て触れることのできるようイエス様というかたちまでへりくだって来られた。ヨハネの福音書は紀元90年に書かれたが、このころローマによって滅ぼされたイスラエルは、その神殿も打ち壊されていた。だがヨハネは、打ち壊された神殿ではなく、「私たちはこの方の栄光を見た」(ヨハネ1:14)とイエス様こそが神の栄光だというのである。

 第二に「バプテスマのヨハネの証言」について見ていきたい。福音書の作者ヨハネは、バプテスマのヨハネが「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです」(1:15)と証言したと述べている。当時の非キリスト教系の歴史書にもバプテスマのヨハネが実在して重要な働きをしたと書かれていし、当時の人々はこのヨハネを偉大な預言者であると評価していた。しかし彼は、どれだけ多くの人が持ち上げようとも、自分ではなく「私の後に来られる方」こそが救い主なのだと叫んでいった。さらに人間的にはイエス様より半年早く生まれているのにかかわらず「私より先におられた」と証言している。彼は、イエス様の本質を理解し、イエス様を証言し人々に悔い改めを求めるという神様に与えられた役割にどこまでも忠実であった。私たちも、状況がどうあろうとも神様によって与えられた役割に忠実にありたい。

 第三に「キリストによって証しされた恵みとまこと」について見ていきたい。作者ヨハネは「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」(1:16-17)と述べている。この「恵みとまこと」は、旧約聖書の時代から神様との契約に対して与えられるものとされている(出エジプト34:6-7)。神様はイスラエルの民を大事に守り育ててきた。しかし彼らは契約を破り偶像礼拝に走った。だが神様は、私たちの背きに対しても神様は一貫して「恵みとまこと」の契約を守ろうとしてこられた。その表れの最たるものがイエス様の十字架である。私たちは、神様の「恵みとまこと」を、イエス様を通して見聞きし体験することができた。私たちを愛し続け、十字架につけられても私たちの許しを神様に求めたイエス様の「恵みとまこと」に、私たちは応えなければならない。

2022/12/18
2022/12/11

2022年12月11日「その名を信じる特権」(ヨハネの福音書1章6~13節)ヨハネの福音書には、神殿が破壊され民衆が救い主【140字ダイジェスト】

ヨハネの福音書には、神殿が破壊され民衆が救い主メシアを待ち望んでいた時代に「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた」とある。このまことの光こそイエス様である。クリスマスを目の前にして、私たちは改めて心を開いてイエス様を受け入れ、神の子とされる祝福にあずかりたい。

 ヨハネの福音書において、この世界に働く神の力は「ことば(ギリシャ語のロゴス)」と表現されている (ヨハネ1:1)。ヨハネの福音書は既に神殿が破壊され、弟子たちが殉教していく混沌とした時代の中で、すべての人に福音を延べ伝えるために書かれたのである。

 今日は第一に「バプテスマのヨハネの証し」について見ていきたい。「神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった」(1:6)とあるが、このヨハネは「ヨハネの福音書」を書いたヨハネとは別人物で、バプテスマのヨハネを指す。彼は民衆が救い主メシアを待ち望んでいた時代に現れた。人々は彼こそがメシアかと思ったが、彼の働きは「光について証しをするため」(1:7)だったのである。私たちクリスチャン自身は光ではなく、イエスという光を正しく指し示す存在なのである。そしてヨハネは民衆に悔い改めを迫り、神と人のあるべき関係に立ち返ること求めた。神に背を向けていた人間が悔い改めによって方向転換して、はじめて主イエスという光を知ることができるのである。

 第二に「主イエスキリストの到来」について見ていきたい。聖書は「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。」(1:9)とあるが、イエス様こそ、すべての人が抱える闇を明らかにし、その闇を照らす「まことの光」である。その光が、クリスマスに人間の姿を取って人の中に現れた。だがその時の人々の対応は冷たく「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった」(1:10-11)と書かれている。「もとから世におられ」というのは、神が滅びや悲惨なものとなった人の歴史の中に常に働きかけ関わり続けたことを表している。人々はすべてを造り、備えてくださった神様に敬意を払い感謝を示すべきだったにもかかわらず、それを無視し受け入れなかった。神に対する意志的な反抗、拒絶こそが人の抱える闇の本質である。私たち自身が悔い改めを拒み、神を己の内から閉め出さないように注意していきたい。

 第三に「神の子とされることの特権」について見ていきたい。聖書は「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」(1:12)と述べている。イエスを救い主と信じ、神の光を受け入れた人々は神の子という新たな神の民になる特権を得た。神の光を受け入れることは内なるプライド、自尊心に心を支配されていると不可能なことである。イスラエルの歴史において奴隷の民が神の民になったことが二度あった。一度目は出エジプト、二度目はバビロン捕囚からの解放である。そのとき神の民という立ち位置の回復を備えたが、イスラエルの民は神の声に耳を傾けようとしなかった。そこで神はイスラエルをその強情に任せ、すべての民が神の子とされる権利を与えられるようにした。神の子とされるという表現は「天の父なる神様」と祈れるように、神の民よりも一歩進んだ関係にあることを表している。イエスを信じ神の子の特権を得た私たちは、試練や困難に直面することがあっても神が決して見捨てず共にいてくださる。それこそが神の祝福であり信仰の保障なのである。クリスマスは神が私たちに近づいた時である。私たちはその時に改めて心を開き、神の子として、神の祝福を受け入れ覚えていきたい。

2022/12/04

2022年12月4日「疲れた者の安らぎ」(マタイの福音書11章20~20節)

​【140字ダイジェスト】

有名な聖句「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」とは、私たちの「重荷」の根本にある罪をイエス様ご自身が十字架で犠牲になって取り払い、罪びとである私たちが神様とともに歩める救いの道を用意してくださったことを意味している。

 この時期、街にはクリスマスの雰囲気があふれ、人々はその到来を待ち望んでいるようである。しかしヘロデ王の時代も、今もクリスマスが本当に意味すると「救い主」の到来は受け入れられなかった。人々は、神の国を何か「おとぎ話」のように感じている。

 今日は第一に「悔い改めを拒む町へのイエス様の責めのことば」について見ていきたい。イエス様は「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう」(マタイ11:21)とおっしゃられた。イエス様は、これらの町で大きな業をなし悔い改めを勧めたが、人々は受け入れなかった。これらの町を比較されたツロとシドンは異教徒の地であったが、さばきの日には悔い改めのことを知らなかった異教徒の方がまだ罪が軽いというのである。さらにイエス様が伝道の拠点だったカペナウムは「おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ」(11:23)とまで言われ、旧約聖書のソドムとゴモラよりもさばきが重いというのである。このイエス様の厳しいことばは、神様としての上から目線ではない。自らが彼らの罪を背負って十字架につく未来を分かっているからこそ、私たちが福音に触れた時に悔い改める覚悟を持ってほしいのである。

 第二に、「幼子にご自身を現される神様の愛」について見ていきたい。イエス様は「あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました」(11:25)と神様をほめたたえられた。ここで言う「幼子」とは年少者のことではない。また神様の存在や愛は人間の小さな知恵で理解できるものではなく、預言者やイエス様のことばや、イエス様の示された愛を通じて知るものである。私たちは「信じる」ことを大人ゆえの知恵によって「愚かしいこと」と考えがちである。だがイエス様は、幼子のように素直な心で、神様の愛を受け止める必要があるというのである。そして、神様の愛を私たちに仲介できるのは唯一イエス様だけだというのである。ただ人々は、武力と権威を振りかざして支配しようとしたローマ帝国にはへりくだる反面、私たちのためにあえてへりくだり私たちのレベルまで来てくださった神様には悲しいことにへりくだることができなかった。

 第三に「重荷を負う者に約束された安らぎ」について見ていきたい。この「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(11:28)は大変有名な箇所である。この「重荷」とは、当時の律法のしばり、人生の課題やストレスなどいろいろあるだろう。私たちは重荷を背負うと同時に、重荷を下ろすことによる批判、重荷を下せないプライドもある。イエス様のことばは私たちの弱みにつけ込む宗教的勧誘ではない。イエス様は、私たちの重荷の根本にある罪の問題をご自身の十字架の犠牲によって取り払い、私たちに神様とともに歩むという道を開いてくださった。イエス様は「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます」(11:29)とおっしゃってくださった→「聖書の舞台(人物・組織)」のあ行「うなじのこわい民」参照。私たちの重荷がなくなるわけではない。だが孤独の中で負いきれなかった重荷を、イエス様とともに負い、イエス様の中にたましいの安らぎを得る。そんな救いの道が私たちには用意されているのである。

2022年11月27日「最後の預言者」(マタイの福音書11章7~19節)

【140字ダイジェスト】

バプテスマのヨハネの出現は、旧約聖書から新約聖書の救いへの橋渡しをし、荒廃した人々の心にイエス様の到来のための悔い改めを勧めた最後の預言者である。私たちは「悔い改めよ」の心に耳を傾け、イサクのように「神の祝福」を激しく求め、イエス様を受け入れるように心を整えて待ち望むべきである。

 今日からアドベント(待降節)→「聖書の舞台(生活・習慣)」のあ行「アドベント・クランツ」参照である。ここで「待ち望む」と言うのは、単に「時間が過ぎる」ことだけを意味しない。「神を待ち望む」ためには、私自身が備えられる必要がある。今日の箇所のヨハネ最後の預言者であり、イエス様の到来の道を整えた人物である。

 今日は第一に「預言者よりもすぐれた預言者」について見ていきたい。バプテスマのヨハネの出現は、旧約聖書のイザヤの預言書で700年前に預言されていた(マタイ3:2-3)。このヨハネのメッセージは「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」(3:2)というものであった。ヨハネは荒れ地で「主の通られる道をまっすぐにせよ」(3:3)と叫んだが、これは本当のイスラエルの荒れ地だけでなく、荒れ地のような殺風景な人の心を指している。ヨハネは不条理な社会を変えるのではなく、まず神様から遠く離れた生活に苦しんでいる人びとに、彼ら自身の頑なな心を悔い改め「主の通られる道」を備えるように言った。そのヨハネの話を遠く荒れ地まで行った人々に、イエス様は「あなたがたは何を見に荒野に出て行ったのですか」(11:7)と問うている。そしてイエス様は、ヨハネがこれまでの預言者とは異なる旧約聖書から新約聖書に移る時代のキーパーソンであると述べている(11:9-10)。しかし、そのヨハネよりも、天の御国に入れられることはどんなに大きな恵みか(11:11)。

 第二に「ヨハネを起点とする神の国の争奪」について見ていきたい。イエス様は、天の御国に入れられることは恵みであると同時に、「天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」(11:12)。聖書は、神の祝福はしばしば「奪い取る」ものでもあると述べている(創世記27)。エサウの持っていた長子の権利は、神の祝福と一緒にある。しかしエサウは、自分で人生を切り開けると考え重それを視してはいなかった。反対にイサクは「神の祝福」を重要していたため、奪ったものであっても祝福を受けた。そのように天の御国を激しく望んでいる人々がいる。あなたがたが棄て去ったものを重視して救われたものもたくさんいる(マタイ21:32)。だからイエス様は、「あなたがたに受け入れる思いがあるなら、この人こそ来るべきエリヤなのです。耳のある者は聞きなさい」(11:14-15)と言い、ヨハネこそ旧約聖書のマラキ書に預言された「来るべきエリヤ」(マラキ4:5)であったと気づき「悔い改めよ」ということばを受け入れなさいというのである。

 第三に「イエス様とことばとこの時代の人々の反応」について見ていきたい。イエス様は、この時代の人々を「広場に座って、ほかの子どもたちにこう呼びかけている子どもたちのようです。『笛を吹いてあげたのに君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに胸を叩いて悲しまなかった。』」(マタイ11:16-17)と表現した。これは子どもの歌であり、そのような「遊び感覚」「気まぐれ」で神様を捉えているという。実際、人々はヨハネの断食を「この人は悪霊につかれている」(11:18)と揶揄し、反対のことをするイエス様を「見ろ、大食らいの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」(11:19)と批判した。このような見方が出るのは、神様のことばを受け入れず表面だけを見ているからである。しかし、神様の「知恵の正しさ」を受け入れれば、それが見えてくる。自分勝手な捉え方ではなく、悔い改めて「主の通られる道」を自分の心の中にまっすぐに受け入れる必要がある。

2022/11/27

2022年11月20日「主のからだであるキリスト」(コリント人への手紙第一12章17~27節)

​【140字ダイジェスト】

教会における集団と個人の関係は、世の組織とは異なる。私たちは、人間的にそりが合わない人や劣った人を排除し、有能な人が支配する機能的で心地よい集団をつくりたいと思う。だが、その関係はすべて神様が備えてくださった。その関係の中で、ともに祈り合い、仕えあうことで自分も教会も成長できる。

 「全体主義」という考え方では、個人ではなく集団の利益や秩序を重視するべきだということになる。一方、個人の権利や自由を重視すべきだという「個人主義」がある。だが教会という組織はどちらでもない。キリストにある「全体と個」はどんなものであろうか。

 今日は、第一に「キリストのからだはひとつ」について見ていきたい。パウロは第二回伝道旅行の時に、コリントに一年半いて教会の基礎を形づくり去って行った。その後、コリントの教会が分裂していることを聞き、危機感をもってこの手紙を書いた。この時、教会員は個人に好き勝手なことを主張していた。一見、自由な社会に見えるが、そこでは教会の一体性が損なわれていた。パウロはこの手紙を、「あなたがたにお願いします。どうか皆が語ることを一つにして、仲間割れをせず、同じ心、同じ考えで一致してください」(Ⅰコリント1:10)と始めている。そして「一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました」(12:13)と言い、それが教会の基盤となっていると訴えた。よく「キリスト教の考え方は好きだが、洗礼までは受けたくない」という人がいるが、身体の一部が両方の個人のものにならないように、本当の意味で「キリストのからだ」につながることはできない。

 第二に「キリストのからだは部分によって構成されている」ことについて見ていきたい。仮に教会の中で「私は他の教会員とは考え方が違うので、教会に属したくない」という人がいたとしたらどうか。教会とは、考えの似通った人の集まりではなく、御霊によって神様に集められた存在なのである。私たちは聖餐式を通じて「主にある家族」ということを告白する。人間的な思いでは受け入れられない人でも、そうした人間的な関係をこえて主にある家族として受け入れるべきである。「しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました」(12:18)とあるように、その人間関係は神様が備えてくださったものである。しかし、それは教会全体の中で自分を殺すことではない。「もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか」(12:19)とあるように、有能だったり注目されたりする人が全体をまとめるのではない。教会には、世の組織のように排除すべき人はいない(12:21-24)。すべて神様が備えてくださったのである。

 第三に「キリストのからだは互いに使え合う関係」について見ていきたい。コリントの教会では、「パウロにつく」「アポロにつく」「ケファにつく」(1:12)と、どの権威やリーダーにつくのかという分裂があった。しかし、教会は強いものが率いる集団ではなく、「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためなのです」(12:25)とあるように、かえって「配慮し合い」「気遣い」「仕えあう」集団なのである。相手を論理で屈服させようとする論争で分裂していたコリントの教会には、ショックな言葉だったと思われる。教会は「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです」(12:26)という集団なのである。これは人間には難しい時もある。しかし、ともに祈り合って人間関係を乗りこえていくことで、そんな教会に近づけるのではないか。「キリストにあってともに生きる兄弟姉妹」として祈り合うことで、私たち自身も教会も成長することができる。

2022/11/20
2022/11/13

2022年11月13日「待ち望まれたキリスト」(マタイの福音書11章1~6節)

【140字ダイジェスト】

旧約聖書の時代から400年がたち、ローマに占領下で苦難の中にいた当時のイスラエルの民は、預言された救い主の到来を待ち望んでいた。牢獄でイエス様の言動を人伝に聞いたバプテスマのヨハネは、神の御国が到来したことを確信したが、一方で、自分の思いを優先し受け入れられなかった人も大勢いた。

 聖書は私たちに救い主について知らせ、それがイエス様であることを著している。ヘブル語で救い主は「メシア」というが、旧約聖書と新約聖書の間の時代400年間にイスラエルの社会的・宗教的に激変や没落を経験し、人々の中に「メシア待望論」が広がってきた。

 今日第一に「バプテスマのヨハネの疑問」について見ていきたい。バプテスマのヨハネの登場は、400年間表れなかった預言者の登場であった。彼について人々は、旧約聖書の預言する(マラキ4:5)預言者エリヤの再来だとか、エリヤ以上の存在ではないかと考えた。しかしヨハネ自身は、自分でエリヤでもキリストでもなく「あの預言者」(申命記18:15)でもないと明言していた(ヨハネ1:20-22)。結局ヨハネは、闇の支配する世界に夜明けを告げてヘロデ・アンティパス王→「聖書の舞台(人物・組織)」のは行「ヘロデ」の(2)参照に処刑されてしまった。メシアを待ち望んでいた人々にとっては、どれほどショックだっただろう。実はイエス様は、ヨハネ投獄後に活動をはじめている(マルコ1:14)。つまりヨハネ自身は、直接イエス様に会いバプテスマを授けているが(マタイ3:13-17)、その宣教活動は見聞きしていなかった。だからこそ彼は「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか」(11:2-3)と問うている。ここに自分の役割を果たしながら「神様の時を待つ」というヨハネの姿勢がある。

 第二に「ヨハネの問いに対するイエス様の答え」について見ていきたい。イエス様は弟子たちを通して「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています」(11:4-5)と答えている。これはイエス様のことばであると同時に旧約聖書に預言された、来るべきイスラエル復興の状景である(イザヤ35:5-6)。この時、バビロン捕囚から戻ったイスラエルの民が見たものは、荒れ果てた故郷の姿であった。その中で語られた神様の約束ことばであった。そして、この状況は社会的・宗教的に暗黒の時代を過ごしていたヨハネの当時のイスラエルの姿でもあった。しかしイエス様は、その荒れ果てた現実の中ですでに神様の業が働き始めていることを示された。ヨハネは、牢獄の中そのことばを聞いたときに、待ち望んだ神の国がすでに到来していたと確信しただろう。

 第三に「わたしにつまずかない者は幸いです」について見ていきたい。イエス様は「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」(11:6)と述べたが、直訳すると「腹を立てない者は幸いです」となる。また「つまづく」とは、「疑心暗鬼せずにいた」「期待とは異なった」時に起きる。後日、弟子たちはイエス様を指導者として、とともに政治的にイスラエルを復興させることを期待していた。しかしイエス様は敵対勢力と戦わず、敵に捕らえられてしまった。弟子たちは期待を裏切られ「つまずいた」。しかし、私たちが聖書のみことばから外れて、自分の思いや考えが優先されたときにつまずきがおきる。イエス様は「だれでも」と述べた。実はヨハネでさえも、その可能性はあった。だが彼はみことばをふり返って受け入れた。私たちも同様に、神様のみことばに従って受け入れるべきである。イエス様の業は、私たちの期待をこえて、私たちの身近で起こっている。そこに目を開くべきであろう。

2022年11月6日「信仰が語ること」(へブル人への手紙11章1~6節)

​​【140字ダイジェスト】

人間的な評価は様々でも、ほんの小さな信仰によって神様の視点から見ればそれを良しとされた人生もある。神様の似姿として私たちを創造された神様は、私たちを日々新しくし、霊的な交わりを通して目に見えないものを確信させてくださる。そのような恵みを、先に召された兄弟姉妹の人生が物語っている。

 今日は召天者記念礼拝である。私たちは、信仰者の生涯を見ることで信仰の方向性が分かるし、死をこえた永遠に思いをはせることができる。それは、日々の生活の中で神様の約束を忘れそうになる私たちに、長いスパンで信仰の意味を見出させるきっかけとなる。

 今日は、第一に「信仰における確信の部分」について見ていきたい。聖書は「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(へブル11:1)と述べている。多くの人は「目に見えないもの」を疑い実在しないと考えがちだが、聖書は目に見えない神様のことを語っている。世界には電波など目に見えないものもあるが、人間の作った装置によって光や音などに転換して私たちはそれを認識する。しかし神様はそうではない。しかし、神様も人間も霊的な存在であるので、交流できない訳ではない。それをつなぐのが「信仰」だというのである。私たちは霊的に神様に似せて創られたものなので、日々の信仰生活の中で実態として理解し、永遠のいのちの中にある神様の喜びや愛を経験し、より大きな神様の祝福を確信していく。それは自分で能動的に知識を得ていく行為ではない。

 第二に「信仰による新しい視点」について見ていきたい。今日の箇所に第2節~5節で「信仰によって」ということばが繰り返し用いられている。「昔の人たちは、この信仰によって称賛されました」(1:2)と書かれているが、信仰以外では称賛に値しない人も多々あった。例えばイスラエルの祖であるヤコブは、兄をだまして調子の長子を奪ったずる賢い人物だったともいえる(創世記25:26-34)。だが信仰から見ると違った視点が見えてくる。私たちは人間的な視点で人物や出来事を見るのではなく、「信仰」という視点から見ることで神様の思いが見えてくる。聖書は「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えないものからできたのではないことを悟ります」(へブル11:3)という。創世記を見れば、神様は世界を創造し、人を創造されたことが賛美をもって書かれている。だからこそ神様は今のこの世を再創造し、私を新しくしてくださることが確信できる。聖書は「私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(Ⅱコリント4:16)と書いているが、私たちは日々新たにされている。

 第三に「信仰による語りかけ」について見ていきたい。へブル人への手紙の第一章では「神は昔、預言者たちによって」(へブル1:1)語られたとあるが、ここではアベルを取り上げ「彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています」(11:4)と書かれている。創世記を見るとアベルの言葉は何も残っていない。ただ、どんな信仰だったかしか書かれていない。しかも、その最期の瞬間を除いて、私たちは彼の生涯をまったく知らない。ただアベルが神様に良いささげものをして、その直後、嫉妬した兄カインに殺されて生涯を閉じたということだけである(創世記4:3-8)。しかし、その行為だけで私たちに信仰の在り方を今も語っている。私たちは、先に召された多くの兄弟姉妹の生涯の中に、信仰のあり方について多くを学ぶ。クリスチャンにとって、地上の生涯の終わりはすべての終わりではない。天の御国での永遠のいのちがあると同時に、その信仰はこの地上に残された者たちへと永遠に語り継がれる。その点にも召天者記念礼拝の意味を見出すことができる。

2022/11/06
2022/10/30

2022年10月30日「十字架を負って従う」(マタイ10章34~42節)

​【140字ダイジェスト】

イエス様の「平和ではなく剣をもたらすために来ました」とのことばに「キリスト教は対立をもたらすのか」と誤解する方も多い。本来のキリスト教は家族関係や人間愛を大切にする。自己愛や利己的考えから取り扱いがちな家族関係や人間関係を、私たちは神様の愛の中の兄弟姉妹として再構築すべきである。

 クリスチャンにとって、キリスト教信仰を選ぶだけで留まることなく、イエス様の生き方にならいつつ「キリストの弟子」になっていくことは重要である。

 今日は、第一に「問い直されること」について見ていきたい。イエス様は「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました」(マタイ10:34)とおっしゃった。これを見ると「平和の君ではなかったか」と驚かれる人もいるだろう。戦前の内村鑑三の「不敬事件」に端を発する全国的なクリスチャン批判に代表されるように、信仰ゆえの社会の対立はある。それだけでなく、対立はクリスチャンの集団でも、その家族の中でも起こるとイエス様は予言された。私(牧師)の母はたまたま聖書を「わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです」(10:35)の箇所から読んで、「とんでもない宗教だ」と思ったそうである。しかし、本来、キリスト教は十戒に「あなたの父と母を敬え」(出エジプト20:12)を人間に対する戒めにしているほど、家族関係を大切にしている。しかし人間は不信仰の中で、本当の家族愛より自己愛を優先し、家族関係に対立をもたらす(ミカ7:6)。だからこそ、神様が示す愛の形の中で、家族への愛を再構築すべきだというのである。

 第二に「十字架を負って従う」ことについて見ていきたい。イエス様は「自分の十字架を負ってわたしに従ってこない者は、わたしにふさわしい者ではありません」(マタイ10:38)とおっしゃっている。この「自分の十字架」というのを、世間では「自分の人生で負わなくてはいけない耐えがたい苦痛や運命」のように誤解している。これは私たちの罪の贖いとなって自らを犠牲にされたときに、刑場まで運ばされたローマの刑罰の十字架のイメージがあるからだろう。しかしイエス様は「イエス様の追われたあの十字架」ではなく、「自分の十字架」と述べている。「自分の十字架」とは私たちの中にある罪であり、それを自覚して福音を信じて神様の愛に生きることである。私の十字架は罪の重さとともに、それを受け入れて負うことによって神様の愛と永遠のいのちに生きるという希望もある(10:39)。

 第三に「キリストを受け入れること、遣わされた者を受け入れること」について見ていきたい。イエス様は、また「わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです」(10:40)とおっしゃられた。中には「イエス様は受け入れるが、弟子たちの話は受け入れられない」という人もいるだろう。しかしイエス様は、神様から託された権威を弟子たちにも託された。みことばの権威は、薄まったり弱まったりはしない。神様は、超自然的な現象ではなく、人を通して神様の権威を語られることを選ばれた。だからこそ人から人へと福音宣教が広がる。そして自らの預言者のイメージに合致するから受け入れるのではなく「預言者を預言者だからということで受け入れる」(10:41)のが大切である。それは神様によって「義人」とされ「弟子」とされたクリスチャンどうしもそうである。イエス様は「この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません」(10:42)とおっしゃられた。私たちがどんなに目立たない卑小な者でも、神様の「弟子」として立てられた重みを理解し、神様のゆえに相手を受け入れることが必要である。

2022/10/23

2022年10月23日「天の父への信頼」(マタイ10章24~33節)

​【140字ダイジェスト】

イエス様は、福音宣教の中で人々から蔑まれると予言された。しかし、それはイエス様と同じ道をずっと軽く歩むことである。人への「恐れ」は、神様への信頼から私たちを引き離す。しかし人が出来ることは限られている。むしろ私たちを愛し、私たちのすべてを理解される神様に信頼し「畏れ」ていきたい。

 イエス様は弟子たちをよくあだ名で呼んでが、そもそも「クリスチャン(キリスト者)」というのも「いつもキリストのことを語る奴ら」という意味のあだ名であった。一方、人を恐れるあまり、信仰を自分の心にとどめて隠していたいという人もいる(箴言29:25)。

 今日、第一に「弟子は師に勝らない」ということを見ていきたい。イエス様は「弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません」(マタイ10:24)と言われた。有名なことばであるが、イエス様の真意は、イエス様自身が「ベルゼブル(悪魔の頭)」のように言われるが、弟子たちへの人々の批判はそこまではいかないという点である。前回の箇所で弟子たちが宣教において人々に蔑まれることを予言された。その後、使徒たちはイエス様と同じ道を歩んだことを喜んだ(使徒5:41)。宣教において誤解や批判があることはあるが、イエス様と同じ道を、ずっと軽い批判で歩いているというと人を恐れる必要はない。

 第二に「明らかにされる福音」について見ていきたい。イエス様は、また「おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないからです」(マタイ10:26)とおっしゃっている。今の私たちは神様の意図はわからない。しかし、必ずそれは明らかになる。それだけ分かっていれば、神様のことばを受け入れることができるし、それを語ることができる。だからこそイエス様は「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい」(10:27)と述べている。私の中では神様のことばが暗闇で語られるようにはっきりしないと思っても、その「ことば自体」の力は変わらない。だからこそ神様のことばを信頼して他人に大胆に語っても、それは必ず力をともなって明らかになるので心配はいらない。イエス様は、人を恐れて私たちの信仰があやふやになることを戒められた。だからイエス様は「だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないという者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います」(10:32-33)と言い切られた。

 第三に「真の神様に対する信頼を持つ」ことについて見ていきたい。イエス様は「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい」(10:28)とおっしゃられた。他人からの「殺すぞ」という脅しは、大変な恐怖を私たちに引き起こす。しかし、それよりも「恐れ」(畏れではない)なければならないものがあるというのである。人を恐れる心は、本来、私たちを愛していらっしゃる神様を見上げることがなくなり、「たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる」(10:28)存在として「恐れる」滅びの道へつながる。人を恐れても人にできることは限られている。しかし神様は、この世のすべてのことができ、愛をもって目を注いでおられる(10:29)。そして「他人にはどうせ理解されない」と思う孤独に対しても、神様は自分自身でさえも分かっていない私の心の内もすべてご存知である(10:30)。イエス様は「ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです」(10:31)と述べておられる。だからこそ人を恐れず、神様を「畏れ」信頼して歩んでいきたい。

2022年10月16日「蛇の賢さと鳩の素直さ」(マタイ10章16~23節)

​【140字ダイジェスト】

イエス様は宣教に送り出す使徒たちに「狼の中に羊を送り出す」なものだと言われた。人を信じて宣教することは大切だが、信仰ゆえに人に裏切られ虐げられ、人間関係が壊れる厳しい現実もある。しかし、そこで敵対せずに賢く忍耐強く立ち回り、神様にある新しい人間関係への再構築を待ち望むべきである。

 聖書では危機定状況から逃れるために「残る」ということが書かれている。旧約聖書の預言者イザヤは自分の子どもに「残りの者が帰ってくる」という意味の名前を付けた(イザヤ7:3)。聖書では、この「残りの民」が来るべき神様の救いの出発点となっている。

 今日は第一に「宣教の心構えとしての賢さ、素直さ」について見ていきたい。イエス様は宣教に送り出す使徒たちに「いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします」(マタイ10:16)と述べられた。使徒たちが送り出される先の「失われた羊たち」(10:6)と称されたイスラエルの民の周りには、彼らを狙い間違った方向に導く「狼」たちがいるというのである。だから「ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」(10:16)と述べられた。イエス様が賢い動物の代表としてあげた蛇の賢さは「ずる賢さ」でもある。福音宣教にあたっては、世知に長けたその賢さと同時に「鳩のように素直」であることも必要だというのである。何でも信じたら蛇のような者に取り込まれるし、逆にどんな人をも疑うことをすれば他人を信仰に導くことはできない。

 第二に「証しを導かれる主」について見ていきたい。イエス様は「人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを地方法院に引き渡し、会堂でむち打ちます。また、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります」(10:17-18)と、その行く末を伝えている。この時点で弟子たちは「イスラエルの復興」とは、ローマの政権から自治を取り戻すことだと考え、神の国の本当の姿が見えていない。だからあえて、イエス様は弟子たちに厳しい未来を語ったが、弟子たちは質問も応答もできなかった。彼らがその意味に気づけたのは、それらが現実に起こったイエス様の十字架と復活の後である。イエス様は、弱さを抱える弟子たちの中に「人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです」(10:19)と述べ、彼らの内に聖霊が働かれると励まされた(10:19-20)。事実、イエス様が天に帰られた後、祈りつつ聖霊を待ち望むことができた(使徒1:14)。

 第三に「忍耐を通しての救い」について見ていきたい。イエス様は「兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます」(マタイ10:21)と述べられた。クリスチャンが神様のものであるがゆえに、憎まれたり人間関係が壊れたりすることがある。しかし聖書は人間関係を壊すことを目的ではなく、再構築することを目指している。私たちは他人と敵対するというよりは、自らと戦って神様の働きを待ち望む。そして「最後まで耐え忍ぶ」ことで、神様のもとで新しく再構築された人間関係や報いが訪れると聖書はいう。またイエス様は、私たちが信仰のゆえに迫害されるとも述べられた(10:23)。この場合は、敵対する勢力から逃げることを勧められた(10:23)。ただ「逃げる」ことは、多くのものを「信仰のゆえに捨てる」ことにもなる。そこで私あっちは「何が大事なものなのか」を選択しなければならない。私たちは、信仰という「本当に大事なもの」を選ぶ試練に耐えず直面する。だがその先には、常に居場所が用意されている。各地に散らされたクリスチャンによって全世界に福音が広まったことは、歴史に刻まれた神様の御業である。

2022/10/16
2022/10/09

2022年10月9日「宣教と祝福の祈り」(マタイ10章5~15節)

​【140字ダイジェスト】

イエス様は十二弟子の宣教派遣に際して何も持たずに旅立ち、報酬を受けずに人々を癒やすよう命じられた。私たちは自分の力で宣教しているのではない。神様に導かれ支えられて宣教し、その結果に対する責任もすべて神様が引き受けてくださる。だからこそ神様に信頼してみことばを語り続けるべきである。

 先週、久しぶりに友人の牧師と話しあった時に神学校時代の思い出話になり、「汚部屋」に住んでいた自堕落な神学生の話になった。その人は、意外にも立派な牧師になって良い牧会をしているという。十二弟子の中にも糸井とな人がいたが、神様の選びは不思議である。

 今日、第一に見たいことは「派遣された弟子たちの使命」について見ていきたい。イエス様は「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい」(マタイ9:6-7)と命じられた。この「失われた羊」とは、自分たちが神の民だと忘れ、傷つき、神様との契約が信じられずに迷っている人たちである。その人たちに「神様の約束は失われていない」と語るように言われたのである。私たちに置き換えれば、何か遠くの人々に神様を語る前に、自分の日々の生活に関わっている身近にいる人に真っ先に福音を語るべきだというのである。

 第二に「伝道に必要とされるもの」について見ていきたい。旅は、昔も今も充分な準備が必要である。しかしイエス様は、驚くことに「胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません。袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい」(9: 9-10)と命じられた。イエス様は、旅先で人々を癒やす活動を「あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい」(9:8)と命じている。旧約聖書には、ツァラアトを癒してもらった謝礼を預言者エリシャ渡そうとしたナアマンから、噓をついて贈り物を横取りしようとしたエリシャの従者は神の罰を受けた(Ⅱ列王記5:20-27)。私たちは神様からタダで受けたのだから、タダで与えるべきである。だが、その一方でイエス様は「働く者が食べ物を得るのは当然だからです」(マタイ9:10)とも語っている。これは矛盾ではなく、人を通じて神様が人養っていることである。人は、何をなすときに「あれがない、これがない」と躊躇しがちである。しかし神様のみに信頼と期待をかけて、人間的な計算をせずに福音を伝え人々を癒やす。その働を神様は支えられる。パウロの伝道旅行では教会が経済的に支え、本人もテント職人として自活した。重要なのは福音宣教において「持たないこと」ではなく、「神様に信頼する」ことであることを取り違えてはいけない。

 第三に「福音の祝福と裁き」について見ていきたい。イエス様は「どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人かをよく調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい」(9:10)と命じられた。福音宣教は「数打てば当たる」というものではなく、信じることで「一瞬で」問題が解決するわけではない。宣教は、伝える相手に深くかかわり時間をかけて成長を期待するものである。しかし福音がその人の中で成長するかは、人間には分からない。だからイエス様は「その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい」(9:12)と命じられた。福音を伝える私たちは神様の平安の中におり、たとえ拒絶されても神様の平安は決して失われない(9:13)。そして異教のように恐怖や報酬で信じるようにしなくても、福音が拒絶された場合の責任を負うことはない(9:14)。そこからの救いも滅びも神様の御手の内にあり、私たちはとりなしの祈りを果たすだけである。だからこそ、神様を信頼し大胆に福音を宣べ伝えていきたい。

2022/10/02

2022年10月2日「収穫のための働き人」(マタイ9章35~10章4節)

【140字ダイジェスト】

当時、イエス様のもとに集まった群衆は、神様から離れて、羊飼いのいない羊のように悲惨だった。その群衆にみことばを語ることは不毛の大地に種を蒔く如く見えたが、そこで信仰の種を育てられているのは神様である。私たちも、イエス様同様に神様の働きを信じて神様の働き手として福音を宣べ伝えたい。

 「収穫の秋」を感じる季節である。機械化は進んだが、せっかくの収穫期を逃さないための忙しさは時代が変わっても変わらない。しかし収穫は同時に喜びでもある。今日は、神様のみことばが蒔かれた結果としての「信仰の実」の収穫についての話である。

 今日は第一に「収穫を見据えたイエス様の福音宣教」について見ていきたい。イエス様は「すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた」(マタイ9:35)とある。同じマタイ福音書の4章23節にも同じような表現がある。どちらも、イエス様が「すべての町や村を巡った」とある。通常のマーケッティングでは事業展開に重点地域を設けるが、イエス様はどんな小さな村にも赴いた。また人々は病の癒やしを求めて集まってきたが、イエス様は「御国の福音を宣べ伝え」ることを第一義としていた。しかし同時に人々の要求も無視した訳ではない。だが旧約聖書のエゼキエル書34章には羊飼いのいない羊がどれほど悲惨か書かれているが、この時イエス様の目前にいた人々も、病と同時に神様から離れて「彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていた」(9:36)。しかしイエス様は、悲惨で弱り果てた群衆に「絶望」を見るのではなく、福音の芽が出て人々が救われる「収穫の時」を見ていた。

 第二に「働き人のための祈り」について見ていきたい。イエス様は弟子たちに「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」(9:37-38)と述べている。この働き人は、実がなってから収獲だけ関わる人ではなく、信仰の実がなることを信じて収獲にいたるすべての苦労に神様と一緒に働く人である。イエス様の目前の群集は、神様から離れた自分勝手な生き方をしていて、一見、何も実をつけない不毛の大地に見えていたはずである。しかし、その働きは「収穫の主」である神様が群集の信仰を育てており、「働き人」も自分で育てるのではなく神様が「働き手を送ってくださる」のである。当教団の牧師登用試験も、外的知識を点数で測るというより、「たしかに神様から遣わされた働き人だ」と確認するためにある。牧師だけではない、祈り支え合うことで、私たちも神様とともに収獲を喜ぶ人となれる。

 第三に「任命された働き人」について見ていきたい。イエス様は、神の国の働きをすすめる十二弟子を呼んだ。この「弟子」とは、いっしょに生活し訓練を受ける人びとのことである。現在「弟子になる」というと、「自分が権威に認められる」という承認欲求を満たす一種の「地位」と考えられることが多いが、本来は、近くで常に心身ともに困難な訓練を受ける立場である。イエス様は、十二人に「悪霊を追い出し、わずらいを癒やす」権威をお与えになったが(10:1)、それは「便利な能力」ではない。働き人は、他人の痛みや苦しみに寄り添い、自分の無力さを実感するつらい経験を歩まねばならない。わずらい癒せるのは、神様の福音しかない。その可能性にかけて語っていくことしか道はない。それが「弟子」の生活であり、神様の「働き人」なのである。イエス様の訓練を受けた「弟子」は、「使徒」(10:2)として遣わされていく。この十二人は神様の選びによるため、社会的地位も政治的思想も実に多様である。旧約聖書の十二部族でなく、この十二使徒から新しい神の国の基となる。

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